その人の顔は、ほとんどコケージァン(白人)のそれだった。1970年代に亡くなったという、その男性の晩年の写真を見たとき、すぐにそう思った。ドテラ姿で孫を抱いた白黒写真だった。この人が、わたしの本当のおじいさん。一度も会ったことのない、英語で言えばバイオロジカル・グランドファーザーだ。母の生みの父親ということになる。
母の母、つまりわたしの祖母は、母が1歳になるかならないときに、ことばは悪いが母を捨てた。満州のどこかの町でのできごとである。今から、そう、百年ほど前の話である。(母は3年半ほど前、95歳で亡くなったので、かれこれ1世紀ほど前のことと言ってさしつかえなかろう。)
祖母は、なにが不満だったか、生んだばかりの愛娘を置いて出ていったらしい。なるべく早く迎えにくるので、その時まで育ててほしいと、赤ん坊を失ったばかりだった近所に住む若い親切な夫婦(彼らが母の養父母になる)に、幼い母を預けた。養父母は、母を実子として届け、実際、実子同様に大事にかわいがって育て上げた。祖母が落ち着いたころに、わが子を取り戻しに行くと、養父母はかわいさのあまり、返してくれなかった。というのが、わたしがこれまでに聞いていたストーリーである。
祖母はかなり自由で奔放な女性だったらしい。釜山にある大きな材木屋の娘だった。母が数年前に亡くなったとき、面白半分にインターネットで、その祖母の実家だったという材木店の名前を検索してみた。ちゃんと出てきた。祖母の兄弟らしい材木商の社長の顔写真もあった。戦前の話である。当時、釜山のそのあたり一帯には、多くの日本人経営による材木店が立ち並んでいたそうだ。祖母の実家のW材木店は、今では釜山駅になっている場所にあったとも書かれていた。
話はそれたが、その祖母が結婚していた男性、つまりわたしの母の実父であり、わたしたち兄弟姉妹の祖父である人、はいったい何者だったのか、長い間、わが家ではなぜかタブーの話題であった。が、そうなると、その人は何者なのか、やはり知りたくなるのが人情というもの。早い話、わたしたちだって、自分のルーツを知りたいのだ。自分は一体何者なのか。どこから来たのか、と。
祖母も教えてくれなかったし、母も語ろうとはしなかった。ミステリアスなこの男性、どうも白人の血が半分入っているらしい、ということで、ますます興味をかきたてた。ということは、母には4分の1、わたしには8分の1のコケージャンの血が混じっていることを意味するのか。
母は確かに、どちらかというと日本人離れをした顔つきと体型をしていた。だが、わたしなど、背は低いし、足は短い、どこにもそんな混血(わずかな混血)のかけらも見られない。わずかに、50代に達して以後、髪の毛がくるくるとカールしはじめたぐらい。でも、待てよ、そういえば、母と上ふたりの姉たち3人ともに、若いころから髪の毛がくるくるだった。
一度も会うことのできなかった祖父とその家族(祖父は、わがままな祖母に逃げられたあと再婚している)を探せないものか。ある時(もう母も祖母もこの世にいないことだし、いい頃合いだと考えたのかもしれない)、一番上の兄が、驚異的な情熱と執念を燃やして、もうひとつの家族のゆくえを探しはじめた。紆余曲折あったものの、とうとう見つけ出した。そして、祖父の孫たち、わたしたちにとってはハーフ・カズンというのか、セカンド・カズンというのか、との再会にまでこぎつけたのが、3年前の秋のこと。
兄の呼びかけで、東京駅のレストランに集まった10数名の男女は、祖父を共有する親戚同士ということになる。それぞれに古い写真や手書きの家系図やらを持ち寄って、情報交換をした。戦後、満州から引き揚げてきた祖父の一家は、神奈川県に定住した。が、もともとの出身は、四国であったらしいことなどが語られた。
しかし、肝心の祖父の出自が判然としない。だれが、どこで、どこの国の人と、どういういきさつで国際結婚をしたものやら、この段階では確かめることはできなかった。当時、あんがいそんなことは、結構ひんぱんにあったものなのかもしれない。満州にいたということで、わたしたちは、なんとなくその人にはロシア人の血が混じっている、と勝手に想像していたのだが、そうとばかり決めつけられそうでもなかった。たった三代前のことなのに、だれもはっきりとした知識を持っていないのだ。謎は深まるばかりのまま、第一回目のファミリー・リユニオンは終わった。兄のルーツ探しは、まだ続いている。

富士山と芦ノ湖