笠井逸子 |
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この夏、わたしはめずらしくどこへも遠出をしなかった。2-3泊の小旅行すらしませんでした。いつもなら、仕事の区切りがついた7月末から8月の頭にかけ、蓼科あたりに女性仲間と恒例の旅をするのですが、なぜか今年わたしはそれを避けたい気分でした。また、愛犬をともなって毎年出かけていた、福島県の磐梯山ふもとの静かな宿泊施設へも行かずじまい。
そのかわり、ひたすら神楽坂に通いつづけました。昨年2月から習い始めた友禅染め。先生の工房に、週2回ぐらいのペースで通いつめたのです。家庭をもった姪っ子の長女のために、七五三用晴れ着をこしらえるのが目的でした。すでに帯は数本完成させていましたが、小ぶりながらも本格的な着物ははじめて。11月のお祝いに間に合わせなければと、ややあせり、夏休みを存分に活かそうと考えました。そのかいあって、つい先日、かわいらしい女の子向きの柄すべてに、華やかな色を挿す細かい作業を終わらせることができました。ここまでくれば、あとは地の色を染めるだけ。
どこへも行かずに夏が過ぎ去りそうに思えたころ、高校の同期生たちで運営するインターネットサイトから、おもしろい情報が入ってきました。下町ウォーキング・ツアーのお誘いです。主催および案内役は、アメリカ人のテッドさん。彼、れっきとしたわれら高校同期生のひとりなのです。
高校2年生の時、カリフォルニアからエドワード(愛称テッド)・ファウラー君が、わが母校にやってきました。彼は交換留学生として、2ヶ月間だけ、郷里である福岡県久留米市に滞在し、日本の高校生活を送りました。
人生とは不思議なもの。日本の小さな地方都市でわずかな期間だけ過ごした体験が、テッド君のその後の運命を決定づけることになりました。母国で日本文学を専攻し、博士号を取得。今ではカリフォルニア大学アーヴァイン校の教授として、日本の文学、社会、文化などを教える研究者。数年前から、東京近辺の同期生たちとの交流も復活し、滞日中には歓迎食事会なども催されるようになりました。
テッドさんは、東京の古い下町にめっぽう強いのです。専門が大正時代の私小説ということもあったかもしれませんが、浅草や隅田川沿いを歩き回るのが、おもしろくてしかたがないようです。そして、1989年ごろから、山谷の住人たちと深くかかわるようになり、1991年のひと夏を一労働者として山谷で過ごし、そこでの生活をつぶさに観察、一冊の本にまとめました。『山谷ブルース』のタイトルで、1998年に日本語訳が刊行されています。(原題はSanユya Blues: Laboring Life in Contemporary Tokyo)(注)
8月末の残暑厳しい火曜の朝10時、浅草雷門を目印に、総勢10名の男女が集結しました。テッドさんの教え子であるアメリカ人女性もひとり加わりました。日本人の親子も一組参加。ほとんどが初対面というツアー・グループでしたが、とてもはじめて出会った者同士には見えないようなうちとけた雰囲気で、いざ出発。
浅草寺のお堂にまで、テッドさんの顔パスで上がりこんだ一行、本尊の観音像はだれも見ることを許されないとの説明に絶句。確かに、たれ幕がかかっていて見ることは不可能。そもそもここら一体が、おそらく草原のような状態であった頃(7世紀)、ある漁師が川から偶然引き上げた観音様が、浅草寺のご本尊として祭られているらしいのです。なぜお姿を見てはいけないのか、その理由は定かではありませんが、あまりにありがたいということでしょうか。
浅草寺をあとに、墨田川に向かいます。桜橋という車禁止の橋を歩いて、川を渡りますと川風をかすかに顔に感じます。この橋の下は、川開きの際、花火が打ち上げられる場所でもあります。橋を渡りきった一帯は、向島。川よりも地面がだいぶ低くなっていくのが、体感できます。地震のときは怖いだろうなと思いながら下り、そして今度は少しあがっていくと、そこに桜餅の茶屋が待ち受けています。塩辛い桜の葉っぱとあんこの甘さが、素朴なおいしさで、熱い緑茶にあいました。
一服したところで、再出発。曳船の駅あたりをめざします。そこへ向かうまでの狭い路地をいくつもいくつも通り抜けていくと、昭和30年代初期に特徴的に見られたという、ある木造家屋の残る路地に案内されました。外壁の一部にタイルが使われているのが、その目印であったという家がそのまま数軒だけ残っていました。こげ茶色のタイルを使った角の家、ピンクとグリーンを組み合わせたタイル家の周囲には、たくさんの植物が栽培されていました。そして最後のタイル家の下壁に、Off Limitsと白ペンキで書かれた文字が、くっきりと残されていました。これを発見したとき、テッドさんはだいぶ興奮したらしい。タイル張りの家は、当時の娼家だったところ。戦後駐留したアメリカ兵お断りの意味で、この文字が書かれたというのです。今このタイル家の住人は、はたしてこの意味するところを知っているのか。
テッドさん行きつけのこじんまりしたコーヒーショップを貸しきって、お昼をいただいたところで、ツアーは午後の部に。京島界隈の商店街を抜けて、バスに乗るために明治通りへと進みます。都バスに飛び乗って、3-4つ先のバス停が泪橋。その昔、小塚原の処刑場にひかれていく罪人を見送る最後の地点が、この泪橋だったという悲しい地名の場所です。テッドさんによれば、江戸時代、この処刑場だけで実に20万人が処刑されたというのですから、なんと厳しい窮屈な社会だったのでしょう。
山谷地区に入りました。宿を逆読みにするとドヤ。一泊2000円から2200円の宿賃を払えば、3畳の個室に泊まれます。カラーテレビ完備や冷暖房完備の看板も、目立ちます。大通りに面した数階建ての目立つ宿泊所には、なんと500人が泊まれるそう。銭湯もありました。「ぼく、よくここの銭湯に入ったんですよ」流暢な日本語で、テッドさんが目を細めます。バブルがはじけて、ドヤも不景気。FIFAワールドカップ・サッカー大会が東京で開催された4年前、多くの宿が外国人観光客向けに改造を加え、インターネットで情報を流したところ、にぎわったというニュース、覚えている読者も多いと思います。
さて、テッドさんは上記の著書のなかで、山谷に通い、時に住みこんで、『山谷ブルース』をまとめた目的を、次のように記しています。(1)山谷とその住人を徹底的に詳述することで通俗的な概念とはやや相いれない日本の側面を紹介すること、(2)日雇い労働者と山谷在住・在勤者を描写して上記の記述を補うこと、(3)日雇い労働者にとって仕事がいかに重要かを強調するために、路上生活(報道記者的な調査報告に最重点をおいた)の場ではなくれっきとした職場としての山谷に焦点を合わせること、(4)ただの統計や調査ではなかなか理解できないこの土地の味を出すため、山谷での個人的な体験を提供すること。
同じ日本人、同じ東京に生活する人間が読みとおすには、なかなかにつらい内容の重たい本です。わたしも4分の1ほどを残したまま、本棚にしまいこんでいましたが、現場に足を運んだことを機に、ふたたび挑戦してみようと思っています。
山谷にだってこんな本格的なコーヒーを、おいしくしかも安く飲ませてくれるコーヒーショップがあるというテッドさんの説明どおり、「自家焙煎珈琲屋 バッハ」は心安らぐお店でした。冷たい飲み物を口にいれた後、山谷を通り抜けるとそこは吉原。見返りの柳1本、今ではガソリンスタンドの前に、ひょろひょろと力なく立っていました。昔吉原、今風俗店。法律が公娼制度廃止を決めたとしても、その種の町並みはつづくということでしょうか。古びた履き物屋さんの奥のガラスケースには、いつごろのものか花魁が練り歩くときにはくあの黒い高下駄が1組、飾ってありました。並みの高さではありんせん。30センチ(いえ40センチか)はあったでしょうか。両脇をかかえてもらわなければ、決して歩けなかった履き物。腰をくねらせ、足を無理やり曲げた歩き方が、なまめかしさを強調したのでしょうか。
浅草にもどってきたのが、6時きっかり。テッドさんの綿密なツアー予定表どおりでした。1日中歩き回って、わたしのブラウスは汗でごわごわ。でも、さわやかなウォーキング・ツアーでした。つらい現実も垣間見ました。ああ、東京は広い。さまざまな生活が続いていきます。ファウラー先生、ご案内ありがとう。
編集部注=親本(洋泉社、1998年刊)、文庫本(新潮OH!文庫、2002年刊)。いずれも川島めぐみ訳。
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*筆者(かさい・いつこ)は『グリーンフィールズ』『サメ博士ジニーの冒険ー魚類学者ユージニ・クラーク』の訳者。
東京都杉並区に在住。夫とボーダーコリー(小次郎)と住む。
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