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毛づくろい

[2004/6/12]

笠井逸子

 ランチタイムの話題にしては、ややそぐわない気がしたものの、どうにも話さずにいられず、仲間を前についついぐちってしまいました。それは、先週の授業中のできごと。女子大生のひとりが(といっても女子大のクラスですから、全員女性です)、やおら毛づくろいをはじめました。と、わたしの目には映ったのです。

 はさみを持った女子大生が、枝毛を切り落としていました。工作用のはさみを使って。えの部分は黄色でした。そのせいで、いきなりわたしの目に飛び込んできたのだと思います。スローモーション・フィルムを見ているような錯覚にも陥りました。茶色に染めた長めの髪の毛、その先端をていねいに揃える、その動作に熱中していたのです。

 それだけであれば、どうということもない、若い女性の好きなひまつぶし手作業風景なのかもしれませんが、これを大学の授業中にやられると異常に感じてしまいます。「そんなことは、今やらないで」と注意するわたし。でも、すぐには自分のことだとは気がつかないぐらいに集中している様子。隣の学生につつかれて、彼女はようやく我にかえりました。しかしその表情に悪びれたところはなく、「なぜ? これって、悪いの?」といった顔つきに、こちらはたじたじ。

 その学生の専攻は、初等教育。幼稚園や保育園の先生になる訓練を受ける学科に属していることがわかりました。それで、ああいう工作用のはさみを持っていたのかもしれません。授業で必要だったのか。いえ、女子学生は普段からああいうはさみを、所持しているものなのか。わかりません。

 ランチタイムの同僚教師によれば、最近背中がぐっとあいた服が、若い女性たちの間で流行だそう。それだけなら、わたしの若かりし頃だって、負けちゃいません。アメリカ留学時代、周囲の露出度といったら、同性でありながら度肝を抜かれたもの。ナマ背中を美しく見せるために、日本の彼女たちは「背毛」(セゲと発音するらし)を剃る。しかし、どうやっても自分ではうまく剃れない。ボーイフレンドが手伝って剃るというのですから、これも一種の毛づくろいか。

 『ケータイを持ったサルー「人間らしさ」の崩壊』というセンセーショナルなタイトルの新書に、先日目を通したばかり。ルーズソックス、かかとを踏み潰した靴、電車の中で平気で化粧をする、ひと目をはばからず携帯電話で会話するなどは、公と私の区別のつかなくなった人間にとってみれば、おそらくなんでもない行為にちがいないのでしょう。いちいち目くじらたてて怒り、憤り、注意している教師なんて、ちゃんちゃらおかしな存在なのかもしれません。

 でも、職業柄でしょうか。放っておけないのです。嘆かずには、いられないのです。ああ、これから先日本はどうなるんだろうって。せいぜい長生きして、あと20数年の命。それ以後のこの国の姿なんて、知ったこっちゃない。と、開きなおる諦め心境にならないでもありませんが、手近なところで、できる範囲の注意だけはやっておこうと心がけています。

 もちろん、気持ちのいい学生たちも大勢いることを忘れてはなりませんが、人間ついつい否定的な現実の重みに圧倒されてしまいがち。ここだけの話、ときどき、登校拒否を起こしそうな暗い気分に陥ることがあります。「英語を勉強したいなんて、学期の最初の授業時だけで、次の時間からは、てんで興味もなし、やる気もなし、心ここにあらずといった大学生相手に、なんでいつまでも英語教師やってんだろ・・・」てな気持ちになって、重い足とカバンを引きずって、家を出る朝がないわけではありません。

 そんな時、自分に言い聞かせます。呪文みたいに。「エンジョイ・ティーチング」と。学ぶ方も、同じ姿勢を取ってくれないものだろうか。「エンジョイ・ラーニング」と。辞書によれば、毛づくろいとは「獣がよごれた毛や身体を、舌や爪などできれいにすること」と説明されています。公共の場での毛づくろいやボーイフレンドとのスキンシップを兼ねた毛づくろいに熱中するのではなく、知性のつくろいもやってほしいな、と願わずにいられません。

 『ケータイを持ったサル』の著者である正高信男氏は、先日、なんとわたしが非常勤英語講師をつとめるその女子大において、全く同じタイトルで特別講演をされたようです。先生の話を前に、毛づくろいなどの失礼な行為のなかったことを、祈るばかり。

*筆者(かさい・いつこ)は『グリーンフィールズ『サメ博士ジニーの冒険ー魚類学者ユージニ・クラーク』の訳者。
東京都杉並区に在住。夫とボーダーコリー(小次郎)と住む。

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あああああああ