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ごぶさたしました

[2003/8/25]

笠井逸子

 3月に、九州小旅行について(「山を買う」)寄稿以来、しばらく筆が進みませんでした。「最近どうしたの」、と言ってくださる方もいて、大学の仕事も区切りがつき、ようやく腰ならぬ10本の指を持ち上げたところです。いわゆる「いろいろありまして」というやつで、なかなか書く気分になれませんでした。こんなじゃだめ、書かなきゃ、書かなきゃ、と心の奥で自らを鼓舞してはいたのですが、どうにもその気にならぬまま、数ヶ月。

 けさの朝日新聞の一面下、新刊広告欄に、『うつを気楽に癒すには・・・』(斎藤茂太)とあり、「・・・しなければならない」「気が進まないけど・・・してしまう」はいけない行動パターン、のキャッチフレーズ。それですめば、いいのですが、今のところ健常者であるわけで、そうも言っていられません。よいしょの掛け声をかけて、パソコンに向かわなければ、永久にわたしのコラムは消滅してしまうかもしれませんので。

 わたしの個人的な「いろいろ」のひとつに、姉の死がありました。4月半ばの土曜の午後、久しぶりに出かけた高校の同窓会。一次会が終わって、地下鉄の駅に向かおうとした矢先、姉の自死の知らせが入りました。9歳年上の姉は、長い間うつに悩まされました。幸い病状に合った薬のおかげで、二十数年間は、はためには明るく活発に過ごしていました。ヨーヨー・マの大ファンで、コンサートのたびに出かけ、近所の奥さん仲間と語らい、高校以来の親友たちと芝居見物に行くといった、穏やかな日常生活を営んでいるように見えました。

 なにがきっかけだったか昨年の春ごろから、ガクンと落ち込み、外出がままならぬ状態になっていたそうです。以前から家事が嫌いで苦手なくち、日々こなさなければならない雑事に立ち向かう元気もうせていったと想像します。それこそ、「いやだけれども、なんとかこなさなければ」の気持ちで、ある程度はがんばってもいたのでしょう。でも、それにも限界があったのか、生きる気力を無くし、やがて自ら命を絶ちたいと願望する方向に傾いていったもののようです。

 昨年の10月、仕事の合間を見つけて、横浜まで姉の見舞いに出かけました。これまでに見たこともない無表情の姉が、頼りなげに、リビングルームにすわっていました。食欲もなく、わたしが持参したお昼のすしにも、ほとんどはしをつけません。なによりも、ふたつの目が全く光を失っていました。まるで西洋人形につけたガラス玉の目のように、まばたきもせず、どこを見るともなく、それでいて少し笑みを見せている姉の目には、深い悲しみと諦観が漂っていました。なにをするのも億劫、姉の目は、そう語っていました。

 なぜ、あの時、姉をゆっくり休ませてやらなかったのだろうか。通っていた病院の医師は、なぜ姉を入院させ、心身を休ませる手配をとってくれなかったか。3度の食事の世話はぼくがやるから、2階の寝室に好きなだけ横たわっていていいよ、と義兄はなぜ声をかけられなかったのか。

 うつになりそうな気配を感じた、ある若い精神科医は、数ヶ月分の食料を買いこみ、自室にこもりました。食べる以外、ひたすら眠ったというのです。やがて、生きる意欲が再び湧いてくるのが、自分でもわかったそうです。人間は、疲れているように見えなくても、心はぼろぼろにくたびれている時もあるのでしょう。そんな時、どうすればいいのか。専門家でもないわたしに、わかろうはずもありませんが、ただただ横になって体を休める、それしかないのではないでしょうか。日本式の精神療法で知られる森田療法も、入院はじめの1週間、とにかくベッドで眠るよう薦められると聞いています。

 うつになんて、簡単になれるような気がしました。姉の死のあと、もうひとつの「いろいろ」が原因で、わたしも食べられない、眠れないの日々がしばらく続きました。胃はこちんこちんに固まり、食べものを受け付けなくなりました。体は疲れているのに、横たわっても眠れず、朝方わずかに眠る状態に陥りました。それでも、自分に鞭打って、仕事に支障をきたさないようがんばっている時のこと、通勤地下鉄のなかで、周囲の風景が、灰色がかって見えるように感じました。外に対する関心をなくしはじめている証拠です。週刊誌の見出し広告を眺めても、何も感じません。回りの乗客の服装にも、とんと興味を感じません。電車の天井あたりから、灰色がじょじょにひろがりはじめ、だんだんと下方にまでペンキが落ちてくるような気がしました。

 これはいけない。うつなんて、なっていられない。かかりつけのお医者さまの所に走りました。胃薬数種類に精神安定剤(デパス)をもらい、その晩から、熟睡できるようになりました。わたし程度の病状であれば、こんな簡単な治療法で、平常は保てるもののようです。精神安定剤なんて、生まれてはじめて飲みました。とにかく、すっと自然な眠りに落ちていきます。たとえどんな悩みや心配事があろうと、お構いなしに眠らせてくれます。体が休まり、食べるものを胃におさめれば、凡人のわたしなどは、一応の元気をとりもどすことができます。それと同時に、運よく肝心の問題も解決の方向に向かっていきました。

 身内の死を受け入れるには、時間がかかります。今にも、ひょいと姉に電話をかけそうになる自分がいて、どきっとすることがあります。姉がくれたスズランは、ことしもいっぱい白い花をつけ、今はハナミズキの木の下で、ふとっちょの葉っぱ姿をのさばらせています。姉が集めたヨーヨー・マのCD、あらかたわたしが貰いうけましたが、まだゆっくり聴かずじまいのまま。

*筆者(かさい・いつこ)は『グリーンフィールズ『サメ博士ジニーの冒険ー魚類学者ユージニ・クラーク』の訳者。
東京都杉並区に在住。夫とボーダーコリー(小次郎)と住む。

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あああああああ