昨年8月、近隣の犬仲間たち(犬の飼い主の意味ですが)は、一匹の迷い犬を巡って右往左往していました。(この時のいきさつは、すでに「夏の思い出」というタイトルで、当コラムでとりあげました)。ミミちゃんと命名された茶色の雑種犬は、今ではまるまると太り、F家の2匹目の愛犬として幸せに暮らしています。先日、散歩中のFさんに出会いました。いきなり「大変だったのよ。ミミちゃんが脱走したの」。ほんのわずか開け放っていた玄関の隙間をすり抜けたミミちゃんは、環八通りを突っ走り、バス2駅先のスーパーまで駆けていったらしいのです。1年ぶりの逃走でした。F家に来る以前に繰り返していたらしい、ミミちゃんの悪い癖が、夏の暑いこの時期、ふっとよみがえったのかもしれません。
夕方のテレビニュースを見ていたら、なんと8年ぶりにひょっこり帰ってきた老犬の話をやっていました。11歳のメス犬チロちゃんは、ある時ふらりと家を出たまま、帰らぬ犬となってしまいました。家族は必死に捜しましたが、チロちゃんは見つからず、涙をのんで諦めていました。ところがです。奇跡が起きました。やせて汚れたチロちゃんが、飼い主の元にもどってきたのです。本犬である決め手は、首輪でした。家出したときに巻いていた皮製の首輪を、飼い主一家が覚えていたのです。日本犬は、生まれて3ヶ月までいた家を記憶している、と番組では解説していましたが、本当でしょうか。わが家の小次郎は洋犬なので、だめか。
5歳半になるボーダーコリーの小次郎は、今やわが家の大切な一員です。というよりも、実質息子といった存在。本物のひとり息子は、大学を選択するにあたって、東京以外の場所を選び、さっさと家を出てしまいました。休みになれば、ときおり帰ってきますが、すでにいないも同然。エンプティ・ネストをうめるために小次郎がきた、というわけでもないでしょうが、心理学的に分析すれば、そういうことでしょう。あっさりそうだと認めるには抵抗がありましたが、事実は事実。そういうことです。
数日前、ニューヨークから里帰りしていたAさん一家に会いました。Aさん自身は、仕事や日本の家族のからみで、ちょくちょく帰国するのですが、アメリカ人の夫と愛娘のSちゃんとは、2年ぶりの再会でした。肩幅の広いすらりとした体躯を、淡いピンク系のワンピースに包んだハーフのSちゃんは、もうすっかりおとなの女を感じさせました。家を離れて、ミネソタ州にある小さな名門私立大学(授業料が驚くほど高い)で学ぶ彼女は、秋には4年生。ボーイフレンドができた、と嬉しそうに輝いています。
Aさんは、ひとくちでいうなら、ニューヨークを拠点に活躍する、成功した国際派パワフル・ビジネス・ウーマン。家長的役割をきっちりこなし、今や貫禄十分、怖いものなしにどこまでもずんずん進んでいきます。そんな母親の側で、どちらかというと物静かに、でしゃばらずに暮らしているといった印象を与えるのが、娘のSちゃん。
Aさん一家とわたしは、久しぶりに新宿で昼食をとることになりました。どんな会話の流れだったのか忘れてしまいましたが、わたしの隣にすわっていたSちゃんが、小さな声でつぶやくように言いました。「わたしは、お母さんみたいに、どんなことにも一番になろうって気はないから」。日本語でそう言ったのか、それとも英語だったのか、今では記憶に定かではありませんが、フーン、とわたしは思いました。決して、皮肉っぽく言ったのではありませんでした。しかし、本音であったことだけは、確か。これまで、一度として母親に反抗する姿なんか見たことのなかった、いつでもどこでもグッドガールのSちゃんも成長してるんだ、とわたしは妙に感慨深いものを感じると同時に、なぜかSちゃんのためにほっとする思いもありました。
そのSちゃんが、別れぎわ、少し頭の禿げ上がったお父さんに向かって、こうも言いました。「パパも猫飼ったら。わたしのことで寂しい思いすることなくなるんじゃない」。これは、英語で言いました。パパは、日本語なかなか上達しませんから。「ウーン、でも、ママは面倒見る暇ないし、おまけにうちのマンションは、ペット禁止だから・・・」パパとママは、するともなく目配せをしながら、ムニャムニャ言い訳しました。
まだ高校生だった頃、うちの小次郎を見にやってきたSちゃんが、盛んに猫を欲しがった時期があったのを思い出しました。その時、ママは確かこう断言しました。「うん、ニューヨークにもどったら、すぐにシェルターに猫探しに行こうよ」。でも、賢くて母親思いのSちゃんは、その時こう答えました。「ママは忙しくて、ペットはじゃまでしょう」。Aさんちでは、ペットを飼うことは無理のようです。
Sちゃん、そのうち独立したら、思いっきり好きなだけ犬でも猫でもお飼いなさい。そうなるといいね。
*筆者(かさい・いつこ)は『グリーンフィールズ』の訳者。東京都杉並区に在住。夫とボーダーコリー(小次郎)と住む。
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