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顔のない女

[2002/08/11]

笠井逸子

『顔をなくした女』という題の書物があります。まるで夏の怪談みたいなタイトルですが、落ち着いて副題を読むと、見当違いであることが歴然とします。サブタイトルが「〈わたし〉探しの精神病理」という本が、それです。1997年に岩波書店から出た本で、著者は精神科医の大平健。「顔をなくした女」のエピソード以外に6篇の症例が、むだのない的確な文章でつづられています。

冬のある日、築地にある聖路加国際病院のドクター大平のもとに、東北出身の中年女性がやってきます。女性は、左手で顔を覆っています。正確には、「手で鼻と口を覆い、人差し指を1本だけ鼻筋に沿って上に伸ばし」た格好をとり、「両脇から鋭く光る眼で」先生を見つめます。先生は、「今一番お困りのことは何でしょうね?」と尋ねます。低い声で、患者が答えます。「実は、私、顔がないんです」。これを聞いた先生は、「怪しい胸騒ぎに似たもの」を感じたそうです。

女性は、「9年前の夏」のある朝、入院先の病院で、洗面所の鏡に向かっていました。驚いたことに、顔がなくなっているではありませんか。愕然とします。以来、だれも(身内も、これまでにかかった医者たちも)彼女の悩みを真剣にとりあげてくれない、と困り果てた末の受診だったというのです。先生と患者との間で、長い長い問答がくりひろげられていきます。時には、禅問答ようのかみあわない、首をひねりたくなるようなやりとりも続きます。

さすがの大平先生も大いに悩みます。患者は、「私の顔がないんです」という訴えを繰り返すばかり。しかし、そこは名医。鋭い洞察力とキャリアをバックに、先生はついに、謎のことばの意味を解明します。ここにいたるまでの描写は、スリルとサスペンスに満ちています。へたな推理小説やテレビのミステリー番組なんかより、よっぽどひきこまれますよ。

先生の解釈は、つぎのようなものでした。この患者の訴えは、「自分の(心を守る)顔(付き)が(でき)ない」というものではないか。患者の表情は、極めて乏しいものでした。また、女性が全く化粧をしていない点にも気づきます。そこで先生は、ふと思いついて、患者に化粧をすすめます。化粧をきっかけに、患者は回復していきます。顔のないことなど気にならなくなったというのです。「化粧をしたことで顔(付き)の有無が問題にならなくなっている。・・・(皆と同じように)化粧(さえ)していたら、(長らく入院していて世間には)顔が(知られて)ないだけに、誰も私のこと気に留めません」。先生は、このように解釈し、患者も納得します。化粧は、「私の本心・・・昔の本心」を隠してくれた、と患者は告白します。発病のきっかけとなった、あるできごとに対する患者の本心でした。

つい長々と「顔をなくした女」の解説をしてしまいました。それというのも、あまりにも衝撃的な本だったからです。人間の(本)心というのは、奥の深い謎ですね。自分自身でさえも、自らの心の動きに気づかない、不思議な生きものとしかいいようがありません。ところで、顔の話をしましょう。それも「顔のない女」について。

かくいうわたしも、つい先日、顔のない女に出会ってしまったのです。ふたりばかり。目の前で。ランチタイムのできごとでした。噂にも聞いていた、ある種の女性たちにです。八王子にある私立大学で、ともに非常勤の英語教師をしている仲間たちと、あっさりしたグループを、それとなく結成しています。ぎらぎらの野心も上昇志向も欠しい、母性本能だけはあまりあるような、おばさん先生の集りと思ってください。その仲間のひとりがある時、言いました。「30代から40代前半あたりのキャリアウーマンは、無表情なんだよね」。

一生優等生で通してきたと思われる(本当に優秀なのですが)女性たちが、食事をしていました。ふたりの目の前で、冷やし中華そばをすすっていたわたしは、さきほどからなんとなく居心地がよくありません。ふたりは、話題の提供者であり、その場を引き回しているかに見えました。でも、ふたりとも周囲のだれの目もまっすぐに見ることはありません。かといって、互いの目を合わせることもなさそうです。視線はどこか、やや遠くのどことも知れない方角に、向けるともなく、見つめるともなく、浮いたような状態、とでも言いましょうか、不思議な感じなのです。それに、頭が全くといっていいほど、動きません。

10人ばかりが、同じテーブルを囲むランチタイムのひとときです。人は、首や頭を動かしつつ、周りのだれかれに視線を移動させながら、話をしていくような気がします。わたしなどは、そこに身振り手振りが加わって、はたから見ていると過剰なジェスチャーを動員させる、オーバーな人間と思われているかもしれないほどです。でも、くだんの女性たちは、さきほどから、無表情のまま。笑いもしません。ユーモアがない。これ、わたし、大の苦手です。無駄なエネルギーを使わずに、話の要点だけ、効率よく、相手のリアクションなどかまわず話を進めていってしまいます。そして、ごちそうさま。

わたしは、幾度となく、彼女たちの顔をまじまじと見上げてしまいました。でも、当のご本人たちは、そんなわたしの無礼な視線にも、一向に腹立たしさなど感じていない様子。冷やし中華の麺をつまんだはしが、ときおり宙に浮いたまま止まった感じで、わたしは文字通り口をあんぐりとあけたまま、めずらしく食が進みませんでした。

これも、「顔のない女」たちなんだ。心のうちを明かそうとしない、明かすことを恐れる、キャリアウーマンたちの能面のような防御の姿勢ではないか、とわたしはその時、冷やし中華そばに練りがらしをまぶしながら、ひそかに観察してしまいました。女だけに顔がないのではないのでしょうが、本来、日本の女性たちは表情豊かなはずではなかったか。心のうちが、つい顔に出て・・・、それもいいではないですか。できる女たちの顔が、かたく閉ざされていくのを見るのは、つらいものです。昔は肩肘張って、男社会の中でがんばって、ストレスで肩も腰もがちがち、なんて言いましたが、近ごろはそんなことにならないよう、顔の筋肉もなるべく動かさない省エネ生活を心がけているようです。そんな女性たちを見ると、なんかつまらない、哀しい気分になります。ゆとりないのかな。


*筆者(かさい・いつこ)は『グリーンフィールズ』の訳者。東京都杉並区に在住。夫とボーダーコリー(小次郎)と住む。

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