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6月のサッカー

[2002/07/8]

笠井逸子

前にも書きましたが、6月は教師にはつらい月です。祝日が全くありません。学生も疲れてきます。4月入学したてのころ、新鮮で緊張感あふれる顔つきをしていた大学1年生たちは、6月ともなれば、周囲の雰囲気に慣れ、新しい環境にとけこみ、ときとして惰性という誘惑とも戦わなければなりません。教師も人間ですから、状況は似たりよったり。

だからといって、こちらまでが手を抜けば、とたんに教室はざわざわと波打ち、コントロールのきかない混乱状態に陥ってしまいます。いえ、混乱ならまだいいのです。部屋全体を、重くよどんだ暗い雲がおおう、いやな沈滞ムードに支配されるのはたまりません。やる気を失いがちな学生集団相手に、ひとり相撲をとるような、つらい負け戦といったらいいでしょうか。そんな危険な水域にまで迷いこまないよう、こちらも必死の抵抗と努力を続けるのが、6月だといえましょう。

欠席や遅刻を重ねている幾人かの学生たちを、なんとかつなぎとめ、もとの軌道にもどそうと工夫を重ねます。90分の授業を退屈させず、集中力を保とうと、あちこちの教材をあさっては、おもしろそうなグループワークやゲームなどを準備していきます。毎回なにかしらチャレンジングなことができないものだろうか、と頭をしぼります。学生が興味を示し、いくらかでも学んでいるな、と手ごたえを感じたとき、わたしは心の中で、ほっと胸をなでおろし、「この調子、この調子」とつぶやくのです。と同時に、教師って、エンターテーナーみたいなもんかなー、とその類のタレントに恵まれないわたしは、少々くさくさします。

でもことしの6月は、思いもかけず、外からの助っ人に救われました。FIFAワールドカップです。正直いって、これがなかったら、この長くて(なにしろ祝日ゼロですから、ひときわ長いのです)、つらい(湿気もひどい)1年の半ばを、落ちこむことなく、自己嫌悪に陥ることなく、乗り切れなかったかもしれません。

女子大の女の子たちは、気持ちよくサッカーに燃えました。いつも大胆に肌を露出した格好で、大学にやってくるC子さんは、授業が始まるや、やおらジャパンブルーのTシャツに着替えます。「これ、子供用サイズ」。小柄なC子さんは、英語が大好きで、よくできますが、細い体には、残念ながらあまり体力がなく、しょっちゅうかぜをひきます。前日は、渋谷のスポーツカフェで、大騒ぎをして、大声援を送ったらしく、声をからしてしまったのは、HさんとY子さんの仲良しペア。結局、カフェで夜を明かしたそうで、三軒茶屋のキャンパスに朝6時にやってきたというのです。1階に設けられたラウンジのソファで、そのまま仮眠しました。安全に休める場所があって、幸いでした。

教授室でも、サッカーの話題がとびかいました。サッカーなんてスポーツじゃない、とばかりに、はじめのうちクールな態度をとっていたアメリカ人男性教師たちも、自国のチームが決勝トーナメントに進んだ頃からは、さすがに目の色が変わっていました。われわれ日本人教師は、全員が日の丸チームの勝敗に一喜一憂し、日常からの気分転換を大いに楽しみました。「ベッカムの英語、あれナーニ!なにいってんだか、さっぱり」なんて、ほとんどがアメリカ英語にしかなじみがなく、負け惜しみをいい合いました。

6月14日(金)は、日本がチュニジアと対戦、決勝トーナメント進出のかかった大事な試合の日でした。毎週金曜は、八王子にある私立大学まで出かけ、午後1時から4時10分まで、2クラスの英語を担当しています。1クラス約30人、英語を教えるには、やや多すぎるサイズかもしれません。男女ミックスのクラスですが、どちらも男子学生が多数派。英語の重要性と必要性には賛同しても、すなおに熱心になれないひねくれ学生の多いグループでもあります。どこまでいっても慣れないエンターテーナー魂をふるいたたせ、地声を張り上げて授業にいどむと、4時過ぎには、いつもぐったりとしてしまいます。帰りのJR中央線、座れますように、と願うばかり。

その命運のかかった6月14日、幸か不幸か、わたしは授業をすっぽりと休講にしなければなりませんでした。登校したわ、休講でした、ではあまりに薄情で気の毒だと思い、大学事務局には数日前から休講掲示を依頼しました。大学のホームページにも、掲載してくれるというのでひと安心。内心、わたしは得意げでした。わかりのいい教師の役を演じたつもりで、ご満悦でした。学生には、夏のボーナスを支給したつもりにすらなっていました。

ところがです。次の週クラスに行っても、当の学生からなんの反応もありません。「急用でお休みしましたが、みなさん、サッカー楽しめましたか」と、こちらから水を向けてみました。それって、なんのことといった冷たい反応しか感じられません。「あれっ、休講だったでしょ」とさらにたずねると、「教室にきて、はじめて知ったー」という間の抜けた返事。「みなさん、メディア学部専攻の学生さんじゃない。インターネット、見てないの」わたし、少々あわて気味にあてこすって、いやがられました。

休講なんて、興味がないみたい。かといって、わたしの授業にそれほど情熱を感じて、いれ込んでいるふうでもありません。遅刻してきたかと思うと、教室の後部席でがばとつっぷして、正体なく眠りこけている男子学生の存在を、教師が知らないわけはありません。授業には、体だけは出席しているけれど、心と頭は休眠中、半覚醒学生もいます。

わたしたちが大学生だったころ、休講と知れば心うきうきと、近隣の商店街をのぞいたり、喫茶店にはいって、だべったものでした。最近は、教師の側も、そうそううかつに休講なんて軽はずみな行動はしません。(それが望ましい姿なのですが。まじめな教師が増えることは、いいことに違いありません。)でも・・。FIFAですよ。一生に一度しか巡ってこないスポーツイベントではありませんか。若者には、素直に浮かれて欲しかった。普段と変わらず、落ち着きはらった顔つきで、平然と構えた学生たちの群れには、少し失望しました。違和感を覚え、寂しい気もしました。無視というより、無関心といった態度なのです。こういうの、英語でapathy(無感動)というのではなかったでしょうか。

*筆者(かさい・いつこ)は『グリーンフィールズ』の訳者。東京都杉並区に在住。夫とボーダーコリー(小次郎)と住む。

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