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教える仕事がひと段落したのを祝って、久しぶりにミステリーをいっきに読みました。アメリカの女性作家、サラ・パレツキーの最新作には、Total
Recallというタイトルがつけられています。辞書をひくと、「完全記憶能力」という意味だそうです。同じタイトルのヒット映画もありましたが、わたしは見ていません。こちらは、昨年出たばかりのハードカバーです。
1982年に第1作を発表して以来、パレツキーはアメリカにおける女性ミステリー作家のリーダー的な立場にいる人です。日本にも、6、7年ほど前でしょうか、記念講演を行なうために来日しました。わたしもその講演を聴きにいきました。人気作家というよりも、学者といった感じのほっそりとした知的な女性でした。
この20年あまりの間に、V. I. ウォショースキーという、舌をかみそうな名前の女探偵を主人公にした長編ミステリーを、10作出しています。ファーストネームはヴィクトリア、ミドルネームはイフィジニアというのですが、彼女の名刺にはあえて、VとIの頭文字だけしか印刷されていません。こうすることによって、探偵といえば男という固定観念にとらわれて、女性の探偵を雇うことに、ためらいを感じるかもしれない顧客のジェンダーバイアスを、取りのぞこうという狙いがあると説明されています。
過日集まった古い仲間たちとの遅めの新年会でも、日本の人気ミステリー作家である高村薫が話題になりました。「てっきり男性だと思っていたのよ」という感想が出ました。小説の中心人物は、常に男性ですから無理からぬ推測です。「男性作家と思わせたかったんじゃないかしら」とは、わたしのコメントでした。『ジェーン・エア』の原作者であるシャーロット・ブロンテも、はじめは男性名で作品を発表していたのではなかったでしょうか。19世紀のイギリスでは、読者や(男性)批評家たちは、女性には小説を書く能力などないと思いこんでいたからでした。
第1作『サマータイム・ブルース』は、保険金詐偽事件がテーマでした。パレツキーは、作家になる前、シカゴの保険会社でマーケティング部長をしていました。そのときの体験から、題材を得たのでしょう。今回の作品も保険を巡って、ストーリーが展開していきます。しかし、最新作で取りあつかわれる保険金詐偽は、はるかにスケールの大きい、そして暗い歴史の奥からたちあがってくる、重い難事件へと発展していきます。舞台もシカゴだけにとどまらず、第二次世界大戦直前のウィーンや戦後まもない頃のロンドンにまでおよびます。とくれば、当然、ナチスとホロコーストがからんでくるな、とミステリーファンでなくとも想像がつきます。そこへさらに、アメリカの奴隷制度と人種差別という要素が、複雑にからんでいきます。
ストーリーの説明に深いりしすぎると、これから読まれる読者に悪いのでしませんが、時間と地理的なひろがりと深さがくわわった迷路のなかで起きる事件であることは確かです。スタイルにも、凝っています。主人公の親友であるユダヤ系女医の回想録がときおり挿入され、謎の解明に重要な役割を果たします。パレツキーは、数年前にオックフフォード大学の客員教授として、英国に滞在しました。そのとき、ホロコーストやユダヤ人救出などの歴史的事件に関する詳細なリサーチを行なったようです。
400ページをこえる新作ですが、息もつかせずに読ませます。わたしも、久々にミステリーにどっぷりつかった数日間を、心ゆくまで堪能しました。さすがに夜ふかしをしてまで読みふけるには、体力と視力がついていきませんが、時間を見つけては、春めいた陽射しをあびたベッドの上にからだをのばして活字を追いました。ときどき、わからない単語を電子辞書でひきながら。
そのベッドは、実は息子の部屋にあるものですが、留守中には使わせてもらっています。南と西の両面に接した窓の下に置いたベッドで本を読んでいると、西側の窓をとおして裏のSさん宅のベランダが見えます。Sさんの奥さんが、洗濯物を干しに出てこられます。わたしが、窓ガラスをコツコツとたたいて合図をします。その音を聞きつけて、愛犬の小次郎が階下からすっとんできます。Sさんの奥さんが大好きなのです。窓を少しだけ開いて、おしゃべりをします。
Sさんの奥さんは、自宅の1階に鍼の治療室を開設しています。定年退職をされたご主人は、ゴルフ三昧の悠悠自適生活を送られているらしく、いれかわりに好きなことをはじめたという元気な女性です。わたしとのおしゃべりは、たいてい健康の話題にうつっていきます。マスクとサングラスという、うっとうしいいでたちをした花粉症に悩むわたしのために、昨年は杉のはっぱでこしらえたというエキスをもってきてくれました。効き目のほうは、はっきりしませんでしたが、ありがたく飲みました。
パレツキーも犬好きです。作品にも、ぺピーというゴールデン・レトリーバーが登場します。ぺピーはすでにママになり、ミッチという息子も手元に残しました。V.
I.のアパートの階下に住む男やもめの友人と、親子の犬2匹を共有しているという筋書きになっています。パレツキーも、実際にゴールデン・レトリーバーを飼っています。パレツキー作品の翻訳者である山本やよいさんにお会いしたとき、犬についてのエピソードをうかがいました。パレツキーは、V.
I.同様にスピード狂で、真っ赤なスポーツカーを乗りまわしています。山本さんがシカゴを訪問したとき、パレツキーは愛犬をのせて、近くの湖までドライブにさそってくれました。愛犬は、湖にザンブととびこみました。水浴びを楽しんだあと、ぬれねずみになった犬は、高価な革張りのシートに、遠慮なくずかずかと乗りこみました。パレツキーは、車のシートがぬれることなどまるで無頓着、ふたたびスピードを出して、家路に向かったというのです。
花粉が激しく舞うおそろしい季節になりました。せいぜい家のなかにこもって、読書に励もうと思っています。
(サラ・パレツキーのURLは、http://www.saraparetsky.com です)
*筆者(かさい・いつこ)は『グリーンフィールズ』の訳者。東京都杉並区に在住。夫とボーダーコリー(小次郎)と住む。
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