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成績評価

[2002/02/15]

笠井逸子

晴れて、今学期の採点作業、すべて終了しました。ばんざーい!私立大学の非常勤講師をつとめていますので、学期末になると試験を実施し、採点をへて、成績評価をしなければなりません。八王子にあるT大では、1月はじめに試験が行なわれました。

ことしの期末試験では、ちょっとしたハプニングがありました。1月8日(火曜)の1時間目に行なわれた英語の試験、開始時間が遅れてしまいました。試験の朝に、中央線が無事故で走ってくれますように、とわたしは心の中で祈りつづけていました。JRは予定通りだったのですが、なんと、駅からのスクールバスが、出発したと思うまもなくのろのろ運転になってしまいました。途中の道路で、車の事故が起きたのです。それでも、かなり時間のゆとりをもって登校していたわたしは、なんとか間にあいました。でも、3分の1ほどの学生が、遅刻をしてしまいました。幸い全員が無事テストを終え、ほっと胸をなでおろしました。

もうひとつの勤務校である女子大の場合は、1月の20日過ぎまで授業がつづきます。期末試験は、1月末から2月はじめにかけて行なわれます。2月7日が、わたしにとっての最後の試験日でした。1時間目の試験は、3クラス合同で行ないました。同じ1年生の一般教養英語を取っていた学生が、大教室に集まって試験を受けました。わたしには、こんなことは、めったにありません。合計すると103名分の試験になりました。ひとりで、100人以上の女子大生をコントロールするのは、気を使います。試験用紙配布と収集の時だけ、助手のFさんが手伝いにきてくれました。

試験用紙は、人数分ちゃんと用意されているだろうか、教室をまちがえて迷子になっている学生はいないだろうか、などといらぬ心配までしてしまいます。試験開始前のざわめきのなかで、マイクを使って注意をします。「はい、みなさん、いつものように携帯電話は切ってください。飲み物・食べものは、このあたりで終わりにしましょう。お手洗いに行きたい人は、今のうちに」ここ数年、わたしは授業をはじめる前に、毎回決まって、この呪文をとなえます。試験がはじまると、試験を受けている学生数をいくどか数えます。101名しかいません。2名欠席のようです。(このうちの1名は、追試願いが出されました。でも、あとのひとりからは連絡がないようです。落とすつもりでしょうか)。

7日の試験では、午後にもうひとつ試験を実施しました。こちらは、2年生中心で、2クラス合同でした。試験がはじまっても、机にがばとつっぷしたまま、起きようとも問題を解こうともしない女子学生がいました。眠いのかな、としばらくは放っておきましたが、やはり気になります。「大丈夫」と肩をつついてみました。何とも返事がありません。あとで答案用紙を見たら、一応答えだけは書いてありました。2ページ目の空白に、薄い鉛筆書きのメッセージが残されていました。「昨日から、体調をくずしました」と。教師はこれを、どう解釈すべきなのでしょうか。すべては、答案次第というしかありません。もちろん、成績評価に際しては、出席点、提出物は出されていたか、グループによる発表に熱心に参加したかなどの平常点も加味されます。

さて、答案用紙のできばえですが、ひとくちに表現することはできません。地味でまじめなクラス(教師好みですが)の学生たちは、概してきちんとした英語を書いてくれます。きちんとしているというのは、字体がしっかりしているということです。くっきりと自信をもって、英語のことばをつづっているという印象を受けます。細かい箇所でのミスはありますが、なんとなく安心して読んでいけます。でも、めりはりがないというのか、なげやりな文字の流れ(寝っころがりながらつづったといった感じの文字です)に出会うと、大体点数は想像できます。基本的に英語に興味がないということなのでしょうが、まちがいをまちがいと認識できない、あるいはしたくもないといった態度です。嫌いなものを無理やり好きになれといっても、しかたのないことでしょうが、多くの大学生が「英語をじょうずになりたい」と思っていることだけは確かなのに。あの若さで熱意不足とあきらめは、なんとももったいない話です。

ゆとり教育世代の学生たちの多くが、英語の筆記体のつづり方を知りません。驚かれることと思いますが、中学高校の英語カリキュラムにおいて、筆記体の読み書きは削除というか、早い話が省略されてきたようなのです。八王子の大学で、こんなことがありました。

親しい友人や家族あての手紙ではなく、正式のスタイルをふまえたレターの書き方を練習していました。海外にある架空の語学学校に対して、資料請求の手紙を英語で書いてみようという趣旨でした。ワープロはみな得意ですから、形式を整えると、それらしいいっぱしのフォーマル・レターができあがりました。最後に、自分の名前をタイプ打ちし、その下に手書きによる署名をするのが決まりごとです。日本式に言えば、はんこにあたる部分でしょうか。ここまできたところで、多くの学生が自分の名前を筆記体で署名できないことが判明しました。わたしは請われるままに、何人かの学生の姓名を、黒板に大きく流暢に書くはめになりました。署名は、ひとりひとりの個性がでるものなのでしょうが、とりあえず筆記体による模範署名をつづりました。

国際化だ、グローバリゼーションだ、とこれまでにさんざん「役に立つ」英語の重要性が強調されてきましたが、英語のレターに自分の名前が署名できない教育って、一体何なのでしょう。パズルです。これで国際社会に立ち向かえというのでしょうか。

ワープロを使いこなせば、今やスペルチェックも自動的にやってくれる時代です。パソコンに辞書を取りこんでいるおかげで、わたしも英語を使う仕事の能率は格段にあがります。近くの文字を見るのが困難になっている者にとって、重くて細かい字のつまった辞書を引くのは重労働です。同じパソコンの画面に文字を打ちこむ一方で、同時に辞書も簡単にひけるという状況は、すばらしいとしかいいようがありません。

機械は機械として大いに活用することで、これまで営々と取りくんできた無駄な英語の勉強部分は、とりのぞくことも可能です。しかし、そのいく段階か以前の基礎部分について、ゆとり教育が置き忘れてきたことに対するつけが、案外これから出てくるかもしれません。現に、大学で教える英語のレベルは、かなり下がっていると残念ながらわたしも実感しています。少し心配です。

*筆者(かさい・いつこ)は『グリーンフィールズ』の訳者。東京都杉並区に在住。夫とボーダーコリー(小次郎)と住む。

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