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エリス先生

[2001/12/19]

笠井逸子

いくつになっても、新しいことを学ぶ機会に恵まれるのは、嬉しいものです。非常勤講師として通っている女子大学の大学院に、毎学期、ニュージーランドにあるオークランド国立大学からロッド・エリス教授が招かれます。エリス先生は、第二言語習得(SLA)研究の第一人者です。大学院の学生に、集中講義をおこなうためです。ひとにぎりの大学院生だけが受けるのは、もったいないということで、公開セミナーになりました。これまで、4回実施されています。

わたしは、第2回目のセミナーから、出席するチャンスに恵まれました。2回目も3回目も、十分に刺激的な内容で、学ぶところ大でした。3回目のセミナーでは、第二言語習得者に、グラマー(つまり文法です)を教えることの重要性が強調されました。とはいっても、日本に根づいた伝統的な文法中心の授業を奨励しているのではありません。エリス先生の主張は、こうです。中学校の英語の授業は、ほとんど全部を、耳で聞く英語と話す英語についやすほうがいい。高校の後半あたりから、少しずつ文法を教えていけばいい。

ひところ、世界の英語教育界は、文法教育を悪者視した時代がありました。文法は、むしろ教えないほうがいい。弊害の方が多い、というわけです。英語をじょうずにあやつりたいという動機をもった外国人が、英語の上達をはかるには、英語に慣れることが一番だという考え方でした。コミュニケーションを最重要視する方向でした。

しかし、エリス先生は、異論を唱えられました。ある程度の、基礎的なコミュニケーション英語習得には、確かに文法はあまり必要ではないかもしれません。

Hello. How are you?

Fine, thanks. And you?

この程度の会話には、文法もへちまもありません。しかし、そこから脱却して、中身のある会話をかわし、生活をしていくために要求される情報を読み、書き、伝達するといった知的活動になると、どうしても文法が必要になってくる。また、文法の知識は、ある程度のレベルに達した学習者の英語習得の進歩をはやめてくれる役割をもっている、と主張されています。わたしも、この考えに賛成です。

この冬、エリス先生の集中講義のテーマは、文学でした。語学学習の材料に、文学作品を取りあげるというものでした。先生によれば、90年代にはいって、英語教育に文学がカムバックしてきたというのです。わたしは、心のなかでニヤリとしました。アメリカ文学を研究している留学時代からの友人にも、声をかけました。彼女も新潟から、やってきました。

エリス先生の講義は、これぞ格調高い正統派の講義とでもいうのでしょうか、出席者の注意力と集中力を一点に集めて離しません。今回の講義は、What is literature? (文学とはなんぞや)の問いかけから始まりました。ここから、わたしたちは、もう、ドキドキ、わくわくしてしまいました。本来、エリス先生は、世界的に知られた言語学者のはずです。しかしながら、先生の文学の知識と造詣の深さに、わたしたちは今さらながらに驚嘆させられました。考えてみれば、ことばを対象に研究をされている学者ですから、文学に親しまれていないはずはありません。古典から現代文学、そしてアフリカ出身の詩人や小説家などにいたるまで、エリス先生と文学とのつながりは、長く広く深いものでした。

エリス先生の講義は、土曜の午後1時から6時までと、日曜の朝8時40分から夕方4時15分まで続きました。このスケジュールで、土日の講義が2回行なわれました。90分授業が14回行なわれた計算になります。これは、ちょうど1学期分の授業に相当します。集中講義とは、こういうものなのですね。ぎゅっと圧縮された講義が、次から次に繰り出されます。先生は、あらかじめ多くの資料を用意して、受講生に配布されます。講義中に、さらに追加の資料が渡されます。先生は、講義メモを片手に、よどみなく、自信に満ちた美しい声で、くもりのない明確な講義をされます。ときに、わたしたちに問いかけ、考えさせ、グループ作業をさせ、発表させます。学びたい者たちを、有頂天にさせる名講義・名ワークショップを、予定どおりに、寸分の狂いもなく着々とこなしていかれます。受講生である英語教師たちは、英語を教えるモデル授業を、まさに身をもって体験していくわけです。もちろん、その場にいるときには、そのことに気がつきません。必死に英語についていき、ノートをとり、講義内容を理解しようと頭をしぼり、グループのメンバーたちとため息をつきながら、次から次へと突きつけられる問題の謎解きに取りくみます。

なぜ謎解きであったかといいますと、今回、わたしたちは、いくつもの詩を読み、その意味するところを問われたのです。わたしは、正直いって詩が苦手でした。苦手であれば、当然のことながら、あまり好きではありません。詩を鑑賞するだけの能力がなかったといったほうが、はやいかもしれません。ですから、大学院にいったとき、文学にはとうていついていけないと判断し、専攻をかえたぐらいです。その大きな原因のひとつは、詩にあったといっても過言ではありません。英語の詩には、全く歯がたちませんでした。一体どう立ち向かえばいいのか、さっぱり見当もつきませんでした。

詩というものは、心で感じるものだ。論理的に解釈するようなものではない。頭で解釈をこねくりまわすものではない。そんなことを、遠い昔にいわれたような記憶があります。日本の大学では、文学というとどこか感受性にのみ訴えるようなところがあったのではないでしょうか。わたしの勘違いだったかもしれませんが。

エリス先生は、英語で書かれたさまざまな詩を、受講生に渡されました。それは、まるで、「どうだい、この詩人のいいたかったことがわかるかい。どの語句、どのライン、どの表現に、詩人の真意がこめられていると思うかい。さあ、解いてみなさい。チャレンジしてごらん」17世紀の詩人、ジョン・ダンの生臭いユーモラスな詩もありました。ジョン・ダンとは、形而上学的な詩をつくる詩人である。英文学史などで、そう習いました。形而上学とは、なんのことなのか、その正体すらもわからないまま、試験のために覚えさせられました。でも、エリス先生は、そんなことにはふれられません。あくまで、詩のなかに書かれていることばの表す意味と形と音などから、解釈してごらんと教えてくれました。行間の意味なんて、意味がないのです。文字の組み合わせや頻繁に使われている語句に留意し、メタファー(隠喩)やシミリ(直喩)などのからくりを解いていくことが、詩人のメッセージに近づく方法である。そう教えてくださったのだと思います。このような作業を、くりかえし体験させてくださいました。それは、それは、愉快な知的興奮でした。詩を読むということは、こんなにもおもしろい脳と心のエクササイズなのだ、と今ごろになって少しだけわかったような気がしました。聞き終わったときの爽快感といったら、ありませんでした。

とはいえ、文学作品を材料にして、わたしが教室で英語を教えるとなると、話は別です。はたしてどれだけのものを、学生たちに与えられるものやら。自信はありません。でも、エリス先生から受けた最新の刺激を忘れないようにして、現場に反映させる努力だけはつづけていかねばなりません。エリス先生の講義は、わたしにとって、少し早めのクリスマス・プレゼントでした。

*筆者(かさい・いつこ)は『グリーンフィールズ』の訳者。東京都杉並区に在住。夫とボーダーコリー(小次郎)と住む。

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