(13)フランシスコ・ブレナン・ワールド
[2009/4/7]
 真冬のヨーロッパから逃れるようにして降り立った2月のサンパウロ。カーニバル期間中に、アヴェニダ・パウリスタ(パウリスタ大通り)のホテルに滞在した。通常、サンパウロではすっかり家族のようになってしまった友人の家に滞在しているが、一度、まるまる24時間をサンパウロの心臓部で過ごしてみたかったのだ。高層階の部屋からは、幸運にもパウリスタ大通りが臨めた。高層ビルの林に折りたたまれるように、抱かれるように時を過ごした。
 
「オフィシナ・セラミカ・フランシスコ・ブレナン」の入口

 滞在中のある日、ホテルのエレベーターの中で、老夫婦と一緒になった。おじいちゃんのほうが、どこかで見たことがある絵柄のTシャツを着ていた。5秒ほど考えて、それがフランシスコ・ブレナンの作品だと思い出し、思わず「ブレナン、ですよね!」と小声で叫んでしまった。

 

 すると老夫婦の顔がほころび、「ブレナンを知っているのか?」、「レシーフェには来たことがあるのか?」と質問攻めになった。夫婦はレシーフェ出身だった。「ブラジル人でも、この図柄を見て、すぐにブレナンだとわかる人はあまりいないよ」と言う。ロビーに降りてからも、しばらく彼らとの会話はとまらなかった。


歩くのが楽しい庭

 2006年の7月、レシーフェの空港に到着した時、私はまだフランシスコ・ブレナンという芸術家のことを何も知らなかった。空港のロビーの壁面や柱が、彼の製作したタイルや彫刻で彩られていたことにも、まったく気がつかなかった。

 

 レシーフェ行きを思い立ったのは、義理の叔父エリオがそこの大学院で勉強していたことがちょっと関係している。1年のうち数ヶ月を単身レシーフェで過ごしていた彼は、2006年に無事博士号を取得し、アパートを引き払う準備にとりかかっていた。そして、まさにエリオが故郷のテレジーナに戻るというその日、私は夫とレシーフェに到着し、バスターミナルまで、彼と引っ越しの手伝いに来ていた家族に会いに駆けつけたのだ。

 

 巨大なダンボール箱の荷物を、長距離バスのお腹にいくつも詰め込み、24時間ゆられてテレジーナに戻る学者一家。ブラジル国内の移動はハードだ。飛行機代を節約しようと思ったら、何日もバスに揺られなければならない。


屋根のないチャペルのような空間

  出発まで少し時間があったので、バスターミナルのカフェでみんなで一緒にコーヒーを飲んだ。これからレシーフェを観光するという私たちに、みんなあれこれアドヴァイスをくれる。叔母のフランシーラは、レシーフェのショッピングセンターは一見の価値ありだ、何でも揃うと繰り返す。娘のエグバラは、オリンダには行かなきゃだめ。ああ、私が案内してあげたい。私詳しいのよ、と残念がる。そして、エリオはフランシスコ・ブレナンのことを話題にした。「レシーフェに来たからには、ブレナンを見なくちゃ!」エリオはいつも、私たち夫婦が好きになりそうなものを教えてくれる。彼が勧めるものは、見ないわけにはいかない。

  市内観光は後回し。翌朝、私たちは何の予備知識もないまま「オフィシナ・セラミカ・フランシスコ・ブレナン」の場所を地図で確認し、出かけることにした。最初は、ボア・ヴィアージェンから、バスを乗り継いで行こうとしたが、徒労に終わった。行く先々で乗り継ぎバスを教えてもらうのだが、どうにも辿り着けない。混乱するのには理由があった。レシーフェには「インスティテュート・リカルド・ブレナン」という、フランシスコ・ブレナンの従兄弟が運営する美術館もあるのだ。行き方を教えてくれる人たちが2つを混同していたから、私たちは、2つの美術館の間を右往左往した。結局、途中からはタクシーに乗った。タクシーに揺られながら、これは車なしでは到底無理だと思った。美術館は大変な街はずれの緑の中にあったのだ。


彫刻を載せた台座には、卵を割って顔を出している恐竜の赤ちゃんのようなオブジェが

「オフィシナ・セラミカ・フランシスコ・ブレナン」は、フランシスコ・ブレナン(Francisco Brennand/1927-)の工房兼美術館であり、フランシスコの父リカルドが、1917年に創業した製陶工場跡を改修したものだ。父は、この場所で屋根瓦や煉瓦を生産していたが、工場は1945年に閉鎖され、朽ちるがままになっていた。1954年、一家はここで、新たにタイル工場を起こし、70年代にはいると、フランシスコが残された廃屋をすこしずつ修復しはじめ、自らの芸術作品を展示し、現在のようなフランシスコ・ブレナン・ワールドとでもいうべき、アートの殿堂ができあがった。タイル工場は今も健在で、ブレナン・デザインのアートタイルやさまざまな陶器を製造している。

 ここには、2000点を越えるブレナンの作品が、工夫を凝らして展示されている。彼の絵画作品を一堂に集めた美術館「アカデミア」も、彼の作風の変化を知ることができて興味深い。会場を散策するのは楽しく、半日、いや、まる1日たっぷり楽しめるだけのボリュームがある。子供が砂や粘土で遊ぶような軽やかさと、大人がインテリア・デコレーションするような楽しさで、ブレナンはどことなく懐かしい感じのする未来都市の一角、といった風情の空間を造り上げている。


アートギャラリー「アカデミア」
 ブレナンは少年期から父の製陶工場で修業するなどして、陶器づくりの基礎を学んだ。学生時代にはイラストの才能をあらわし、やがてペルナンブコ州の芸大の創設者のひとりである、画家で修復家のアルヴァロ・アモリンに師事する。父リカルドは、アート界に通じており、自宅にアーティストらを招いて、周囲の風景や自然を描いてもらったりしていた。そして、ブレナン自身も、身近にいたアーティストらの影響を受け、風景画などを描き始める。やがて彼は、当時すでに閉鎖されていた工場の建物のひとつを自分の手で改築し、アトリエを作るのである

ブレナンらしいインテリア
 ブレナンは1947年、1948年と連続でペルナンブコ州立美術館の主催するアートサロンの絵画賞を受賞。同年末に結婚し、1949年2月には、父の友人で、当時パリ在住だった、ペルナンブコ州出身の画家、シセロ・ディアスを頼って妻とパリへ向かった。そこで、ブレナンはフェルナンド・ペソアの友人であるアーティストで作家のアルマダ=ネグレイロ、詩人のレネ・シャール、アーティストのフェルナン・レジェらと交友関係を持ち、ピカソやミロの作品にも親しんだ。しかし同年10月、健康を害したうえ、現地に適応できずブラジルへ戻る。そして1954年、ブレナン家がタイル工場を起業するや、フランシスコは初めてのタイル壁画を制作。やがて自らの芸術表現法、つまりタイルや陶器による表現を確立しはじめる。

ブレナン・デザインのタイルの数々
 タイルと聞いて思い浮かべるのはポルトガルの建築だ。教会や邸宅の壁一杯に、壁画を描くように貼りめぐらされたタイルアート。その影響はマラニョン州州都サンルイスやカシアスの街なみにも見られる。しかしブレナンのタイルアートは、従来の白地に藍や黄で描かれるタイルとは違い、煉瓦のような深い色合いをしている。彼の製作するタイル、タイルによる壁画、陶器のオブジェ、食器などの実用品すべてが、どことなく沖縄の陶芸品を思わせる、自然にするりと溶け込む落ち着いた色調を基本としている。また彼がそこで繰り広げる造形は、想像力の限りをつくした面白さいっぱいのフォルムばかり。それゆえ「オフィシナ・セラミカ・フランシスコ・ブレナン」は大人だけでなく、子供たちも楽しめる場所になっている。

ブレナンの手にかかると、石畳もこんなに素敵に。

 炎天下、ブレナンの創造した迷宮のような世界を散歩していた時、10年以上前に訪れたバルセロナのことを思い出した。巨匠アントニオ・ガウディが造り上げた、モザイクに彩られた教会やアパート群、そして公園の、生命感あふれる建築物の数々。ブレナンの造形にも、ガウディに似て、見る者を魅了し、巻き込む生命力がある。

 80歳を超えるフランシスコ・ブレナンは、いまやブラジルアート界の重鎮であるが、彼のデザインによって生産されているタイルやセラミックオブジェの数々は、入手可能な価格で提供されている。普通のタイルよりもちょっとお金をかければ、自宅にブレナンワールドを再現することができるのだ。いつか私も、ブレナンのタイルを敷き詰めた、小さな読書用のテラスを持ちたいと思う。

 帰路、レシーフェを発つとき、空港のロビーに溶け込んでいるブレナンの壁画やオブジェが大きな存在感で迫って来た。空港は到着時と全く違う場所のように見えた。