(11)NOSLY/ノスリー マラニョンからミナス・ジェライスを経て欧州へ
[2007/8/13]
 ブラジルで暮らすこと、それは多彩な音楽に囲まれて生活すること。そして、しばらくこの国に滞在していると、多彩な音楽のなかでも、自分の耳に快いものと、そうでないものとがあることに気づく。

 著名なワイン評論家のヒュー・ジョンソンが、優れたワインの見分け方について、こう言っている。「また飲みたくなるワイン、何度でも飲みたくなるワイン、それがいいワインだ」と。音楽もワインに似て「また聞きたくなる音楽、何度でも聞きたくなる音楽、それがその人にとっての優れた音楽」と言っていいかもしれない。

 私がここ数年繰り返し聞いている音楽、それはボサ・ノヴァ、MPB(エミ・ペー・ベー/ムジカ・ポピュラー・ブラジレイラ)、昔のサンバ、そしてちょっと昔のブラジリアン・ロックなどだ。中でもMPBは、アーティストの出身地や彼らが影響を受けた音楽などによって千差万別であり、歌詞も曲も非常に磨かれていて、これだけで、ブラジル音楽のもうひとつの宇宙が構成されているかのように思えてしまう。また、MPBは、平坦に歌われていた昔の歌を、洗練されたかたちで、現代に蘇らせてくれることもある。

 2003年にマラニョン州のカシアス市にしばらく住んでいた時、地元のミュージシャンである、ジョニー・カサノヴァ、シセロ・イヴォ、ノスリー・マリーニョの3人と知り合った。偶然にも(?)、3人ともMPBのミュージシャンで、夫の長年の友人である。ただ、ジョニーとシセロは、主にMPBの名曲のカバーを歌っており、オリジナル曲がほとんどなく、活動地域も地元に限られていた。私は、ジョニーのオリジナル曲は2曲だけ、シセロのオリジナル曲は1曲だけしか聞いたことがない。ジョニーは自費製作のCDを地元で販売しており、シセロは数年前から、初のCDを実現するために奮闘しているところだ。ジョニーはどちらかというと骨太でストレートな歌い、シセロはたおやかな感情のこもった歌いで、それぞれに観客を惹き付ける魅力がある。著名歌手がほとんど訪れることのない地方都市で、2人の歌声は地元の人たちにとても愛されていた。

 3人のうち、ノスリーだけが、マラニョン州を飛び出して全国的な規模で活動し、徹底して、自ら製作したオリジナル曲を歌い続けている。彼の洗練された音楽は、初めて聞いた時から現在に至るまで、私の心を捕らえて離さない。3人のうち、いまだに私たち夫婦と交友関係が続いているのはノスリーだけだ。

 初めてノスリーの歌声を聞いたのは、2003年7月下旬にカシアス市の主催で行われた「サマーフェスティバル」の会場だった。このフェスティバルは4日間にわたって行われ、私の苦手な大衆向けの騒々しいアシェやフォホーが中心だったが、わずかながらMPBの歌手たちも招かれていて、ノスリーは初日のトップバッターだった。3日目にはジルベルト・ジル、4日目はファグネルが出演した。

 当時リオ・デ・ジャネイロ在住だったノスリーは、久しぶりの故郷で、この他にもいくつかのショウを開催した。私はそのいずれもを追いかけ、カシアスの街角の教会前の広場や、隣接するピアウイ州州都テレジーナの、旧駅舎を利用したカルチャー・スペース、トリーリョスで、繰り返し、心地よいノスリー・サウンドに浸った。この時、ノスリーから直接、CDを買い求めた。

 ノスリーのサウンドはマラニョン州、そしてミナス・ジェライス州で形作られた。ノスリーは、生まれはカシアスだが、3歳でマラニョン州州都、サン・ルイスに引っ越し、少年時代をそこで過ごした。13歳の時にギターを手にし、独学で音楽を始め、1980年代初頭から、時々、同じくマラニョン州出身のMPBミュージシャン、ゼカ・バレイロと組んで活動していた。
 
2003年、カシアスに帰郷した時、街角でジョニー・カサノヴァ(左)と共演
 1985年、18歳の時、兄のベトに教えてもらった「クルビ・ダ・エスキーナ(かどっこのクラブ)」の音楽に衝撃を受けたノスリーは、翌年にはもう、その発祥地であるミナス・ジェライス州の州都、ベロ・オリゾンチに向かっていた。

「クルビ・ダ・エスキーナ」は、ミルトン・ナシメント、マルシオ・ボルジス、ロー・ボルジス兄弟を中心に、ベト・ゲジス、ヴァグナー・チソ、フェルナンド・ブランチ、フラヴィオ・ヴェントゥリーニ、トニーニョ・オルタといった、ミナス・ジェライス州の多彩なミュージシャンが加わった音楽ムーヴメントの総称。ボルジス兄弟の母親が「おたくの息子さんたち、どこにいるの?」と尋ねられるたびに「そこのかどっこで、歌ってギター弾いてるわ」と繰り返し応えていた、その言い回しが発展し、この一大ムーブメントの名称となった。「クルビ・ダ・エスキーナ」は、単なるかどっこのクラブではなく、トロピカリズモに匹敵する音楽の一大潮流となった。

 そのムーヴメントの熱がまだ冷めやらぬミナスで、ノスリーは、自らの音楽とギターの腕を磨き続けた。「1986年に、トニーニョ・オルタのワークショップに参加したことが僕の人生を変えた。トニーニョは友人となってからも、常に僕の師であり続けている」そうノスリーは言う。ノスリーはミナスのサウンドにどっぷり浸かって、約10年間をそこで過ごした。
 
(2003年、カシアスに帰郷した時)地元のテレビ局のインタビューを受けるノスリー
 1998年、ノスリーはファーストアルバム「Teu Lugar/君のいる場所」をレコーディングする。全曲オリジナルでノスリーの音楽への深い愛情が感じられる名作ばかりだ。

 タイトル曲である「Teu Lugar」は、ノスリーの顔とでも言うべき曲で、聞く人を優しく包んでくれる作品。この曲のさわりを聞くだけで、私は、自然にリラックスしてしまう。アフターファイブに最適の1曲だ。同じくマラニョン州出身の、ノンナート・ブザー、ジェルージと共同で作曲した「Coração na Voz/声の魂」は、聞いていると目の前に広大な空と海が広がる。ゼカ・バレイロとのコラボレーションは3曲。うち「Noves fora/9の検算」は透明感溢れ、広大さを感じさせる曲。ノスリーとゼカ・バレイロが初めて一緒に製作した歌で、旅立ちへの夢を歌ったもの。マラニョン州のラジオで大ヒットしたという。「Brinco/遊ぶ」、そしてジャヴァンへのオマージュ曲「Japi/ジャピ(鳥の名前)」の2曲は、二人が楽しんで曲造りをしていることがじかに伝わってくる。ノスリーの音楽は、マラニョンとミナス・ジェライスのサウンドの融合だけでない。そこへさらにボサ・ノヴァ、ブルース、バイアォン、ファンクなどの要素が絡まって、新たな世界を創出している。まだ、世界でそれほど発掘されていない、ノスリーの曲をいち早く楽しむ喜びといったら! ただ、私に、彼の音楽をうまく表現する言葉が欠けてることだけが悔やまれる。
 
デュッセルドルフにある「ボサ・ノヴァ」の店先
 2006年から、ノスリーはドイツ、デュッセルドルフに腰を据えて活動している。2枚目のCDは、すでにドイツで録音が終了しており、まもなくリリースされる。約10年の歳月かけて製作されただけあって、第1作に劣らぬ、優れた作品ばかり。全て彼のオリジナル曲だ。CD発表後、ツアーが始まることになっている。

 春ごろから、ノスリーがメールで五月雨式に新曲を送ってくれるので、私は、それを集めて毎日のように聴いていた。ノンナート・ブザーとの共作である「Você veria/君は見るだろうか」「Nave dos sonhos/夢の宇宙船」「Tô apaixonado/恋におちて」はいずれも磨きがかかっているし、ブラジルにいる2人の子供たちに捧げた「IanGabriela/イアン・ガブリエラ」を聴けば、子供たちの笑顔が見えてきそうだ。他にもフェルナンド・ペソアの詩に曲をつけた「Há no firmamento/天空に」、都会の雨の日を連想させる美しいインストゥルメンタル曲「Blue Tree」など、熟成を待って録音された、宝物のような曲が詰まっている。

 ノスリーの活動の拠点となっているのが、デュッセルドルフの老舗ブラジリアン・レストラン&バー「BOSSA NOVA」だ。私たち夫婦は、7月にはいってやっと、デュッセルドルフにノスリーを訪ねることができた。4年ぶりの再会だった。この日は上々のお天気で、「BOSSA NOVA」のあるノイサーシュトラーセは、ドイツらしい日曜日の静けさに包まれていた。

 
「ボサ・ノヴァ」店内で演奏するノスリー
 私たちの到着がちょうどお昼時だったので、「BOSSA NOVA」のスタッフがフェイジョアーダ・コンプレータをご馳走してくださった。ドイツで味わう本格的なブラジル料理に舌鼓をうちながら、久しぶりに家族揃ってお昼ご飯を食べているような気持ちになった。

 食後、舗道に並ぶテーブルについてワインを酌み交わしているうちに、私はカシアスに飛んだ。主人がいて、ノスリーがいて、太陽が燦々と照っていると、それだけで、そこはもうマラニョン州だった。一息つくと、ノスリーは、店の小さな舞台で、私たちのためだけに歌いはじめた。明るいサウンドとともに、マラニョンの風が吹いてきた。
 
ノスリー(「ボサ・ノヴァ」店内で)