1年のうちの半分を南半球で暮らすようになって、北半球で暮らすということは、この世界をたったの半分しか知らないことだと身体で理解した。
ブラジルは南半球に位置するから、当然のごとく、北へ行くほど暑くなる。でも、北という言葉の響きに40年以上寒さを連想してきた私には、最初、北という言葉の持つイメージと暑さとが、なかなか結びつかなかった。また、南と言う言葉から、寒さを連想することも不可能だった。
でも、ブラジルで最も暑い場所はブラジルの北だ。そして、ブラジルで最も貧しい地域も北部にある。いまだに文盲率のことが話題になり、貧富の差も過酷なほどに激しい。
中でも、北東部のピアウイ州はブラジルで最も貧しい州だと言われている。ピアウイ州の州都テレジーナは、年間を通じて、日中最高気温が30度を越える酷暑の街だ。隣接するマラニョン州出身で、ブラジルを代表する詩人の一人、フェレイラ・グラーは、70年代初頭に書いた「ポエマ・ブラジレイロ(ブラジル人の詩)」というタイトルの詩において、「ピアウイ州では、生まれてくる百人のこどもたちのうち、七十八人が八歳の誕生日を迎えるまえに死んでしまう」という一節を、まるで悲鳴のように幾度も幾度も繰り返した。未だ健在で、メディアにも度々登場している老齢のフェレイラ・グラーは、ブラジル北部の貧困について、ほかにも多くの詩を書いている。
2003年から2004年にかけて、グラーが貧困をうたうピアウイ州、そして隣接するマラニョン州の田舎町をバスを乗り継いで幾度も旅した。中途半端に 鋪装された、がたがたの道路、木の枠組みに土を塗り付けただけの家、まるで決まり事のような午後の断水、できそこないの学校や公共施設、何の設備もないバスターミナル、夕立ちが降ると大河となる道路…。政治家たちが公共資金をわがものにし、市民の生活の改善に少しも役立てなかったことが、街の姿を見ているだけでわかる。街がほんのちょっと整備されるのは4年ごとの市長選の直前の2ヶ月間だけだ。
しかし人間というものはなんと強いのだろう。地図にその名が載っていない、さびれた田舎町の、土色をした子供たちの足はバネのようだし、老人たちの足取りも軽やかだ。穴だらけのTシャツや靴を見たのは何年ぶりだろうか。いまだ公衆電話をフルに活用して連絡をとりあい、ぼろぼろのトラックに相乗りして移動し、テレビのある家には人々が集まる。どの家にも全く同じ安価な家具が置かれ、照明はみんな裸電球、洗濯はもちろん手洗いだ。米と煮豆、そして少量の肉と野菜をで充足している彼らの食卓。通りすがりの旅人である私に、多くの家族がこの簡素な食事をふるまってくれた。
ブラジルの北を旅しながら、私は日本で最も南にある沖縄の島々を旅した時のことを思い出していた。沖縄もかつて、日本で最も貧しい土地とみなされ、差別されてきた。しかし、そこには豊かな文化があり、訪れる度にいくつもの驚きと発見があった。
フェレイラ・グラーの名詩「ポエマ・スジョ(汚れた詩)」にこんな一節がある。
ali no norte do Brasil
vestido de brim.
E por ser pouco,
era muito,
粗織りの帆布をまとった
ブラジルの北
そこにはすこしのものしかなかった
だからたくさんのものがあった(拙訳)
フェレイラ・グラーは、この一節において、ブラジルの北を見事に言い当てている。