(54)クロアチア、そしてマケドニア
[2023/7/22]
日が長くなって朝方も夕方も明るくなってくると、今年もシネマ・(ポスト)ユーゴの季節である。本年はクロアチア映画『クロアチア共和国憲法』を東京大学本郷キャンパス文学部の「旧ソ連・東欧の映像と文学」の授業の一環として、また北マケドニア映画『柳』を東洋英和女学院大学生涯学習センター25周年記念事業第一弾として上映した。
差別にどう向き会うか
『クロアチア共和国憲法(Ustav Republike Hrvatske/The Constitution)』(ライコ・グルリッチ監督、2016年、クロアチア=チェコ=スロヴェニア=マケドニア=イギリス製作)は民族、階級、ジェンダーなど様々な差別の問題をドラマの中に見せるもので、教材として最適な映画である。
本作の日本語字幕を作成した山崎信一氏(東京大学教養学部非常勤講師)が上映前に、第二次世界大戦中から始まり1990年代にクロアチアが旧ユーゴから独立する際のセルビアとの紛争、国内の少数民族であるセルビア系住民との関係などについて歴史的観点からの解説をした。
上映後の討論では私も加わり、私はまず映画の最初と最後がクラリの部屋の中から見る窓からの街路の景色であることに注目した。窓は外の世界と自分の世界を区切る境界線であるとともに、外の世界につながる場所という意味が込められているように思えるからだ。クラリは外の世界では悲惨な目に合うこともあり、窓の内側で自分だけの世界に浸っている。しかし最後には外の世界と関わってゆくようになる。
主役のクロアチア人の教師クラリを演ずるネボイシャ・グロゴヴァツはボスニア出身のセルビア系、いっぽうセルビア系住民の警官アンテを演じたデヤン・アチモヴィチはボスニア出身のクロアチア系であることも山崎氏が紹介した。旧ユーゴ地区ではボスニアの『サラエボの花』(2006年、ヤスミラ・ジュバニッチ監督)でセルビア兵による集団レイプの被害者のムスリム女性を演じたミリャム・カラノヴィチはセルビア人であり、一昨年前に日本でも公開された『アイダよ、何処へ』(2020年、同監督)でセルビア兵によるムスリム住民の大虐殺に立ち会った主役のムスリム女性を演じたヤスナ・ジュリチッチもセルビア人というように、監督が信じる民族を超えた適材適所の俳優を選択するという配役は、民族差別に対するコメントのようにも思えるのだ。それについてホストの東京大学の楯岡求美教授は、日本でも在日韓国人を描いた『月はどっちに出ている』(1993年、崔洋一監督)で主演の在日韓国人のタクシー運転手を日本人俳優(岸谷五朗)に配し、朝鮮人は嫌いだと言う日本人の彼の同僚を在日俳優に演じさせるという意図的配役をしたと言われていることを紹介した。私は、この映画をニューヨークで上映した時に立ち会った李鳳宇プロヂューサーが、差別解消のためにはまず日本社会に差別が存在することを認めることが第一歩で、それをドラマで描こうとすると差別用語が放映できなくなったりすると指摘されたことを紹介した。 『クロアチア共和国憲法』ではクラリが子供時代に収容所にいる父を訪ねた時いかにセルビア人たちに虐待されたかを知り、これをアンテに激しく吐き出し、アンテも売り言葉に買い言葉でゲイの教師は男児の親の心配の種だと返す。こうした差別感の本音を一旦さらけ出すことで2人の距離が狭まったのではないかと指摘する学生もいた。また、クラリと次第に心を通わせて行くアンテとマヤの夫婦は同じ建物の1階の狭い部屋に住み、上の階の広々としたクラリのアパートを羨望の眼差しで見つめ、自分たちに譲ってくれるかもしれないとこっそり言い合っている。クラリに自分たちの養子の洗礼親になることを頼むこともアパートが欲しいからではないかという意見もあった。私はもちろんそれは確かだと思うが、100%完璧な人間でないところが彼らのリアリティを高めていると思った。また、クラリの部屋のエレガントな調度品や趣味についての指摘が観客からあり、山崎氏によれば典型的な戦前のブルジョアの雰囲気であるとのことだ。
その広いアパートをクラリは有力者とコネがあった母から受け継ぎ、いずれは教会に寄贈することになっているとマヤはアンテと噂し合っている。第二次世界大戦中に反セルビアのファシスト集団に所属していたクラリの父は教会と深い関係にある。父は最初にマヤが秘密警察かとクラリに尋ねて観客の笑いを誘うが、この映画の端々にはいろいろな意味が込められている。
脚本をグルリッチ監督と共同で書いたアンテ・トミッチは著名なリベラルの活動家で、度々道でファシストの攻撃に遭ってクラリのように怪我をしているそうだ。民族や性的少数派に対する差別主義者の台頭という最近のクロアチア社会の不寛容さを憂う監督は、とうとうアメリカに移住したとインタビューで述べていた。彼らの懸念が、演技派の俳優たちによって見事に映像化されていたが、差別を正当化する言説が堂々と披露される日本社会も他人事ではないと感じた。
母性への渇望
『柳(Врба(Vrba)/Willow)』(2019年、北マケドニア=ベルギー=ハンガリー=アルバニア製作)は、北マケドニアを代表し長くニューヨークに住むミルチョ・マンチェフスキ監督の作品である。母親になることを渇望する過去と現在のマケドニア女性が直面する個人的・社会的な問題と彼女らが下す選択について、3つのストーリーがお互いに関係しながら展開する。第1話は、中世の山岳部のマケドニアが舞台で、駆け落ちした夫婦ドンカとミランは様々なまじないや儀式を行ってもドンカの母の呪いで子供に恵まれず、魔法使いのお婆さんに相談して引き起こる悲劇。第2話は、現代のマケドニアでタクシー運転手のブランコと恋に陥るロドナが、ようやく妊娠したものの双子のひとりに欠陥がある事から起こる悲劇。第3話は子供ができず養子にしたキレが自閉症らしく、感情を示さないことに悩むロドナの姉カテリナを描くものである。
本作を見て『楢山節考』(1958年の木下恵介監督版、1983年の今村昌平監督版)と『裸の島』(1960年、新藤兼人監督)を思い起こしたが、日本映画にインスピレーションを得ているかという質問に監督は、黒澤明監督の『羅生門』(1950年)は子供のころ最初にテレビで見た映画で、一つの事象に複数の人たちが違った視点を語るという設定に刺激を受けたそうだ。また大島渚監督の『愛のコリーダ』(1975年)では、愛が極端な形をとるという点に衝撃を受けたと言う。最近の映画では、高橋陽一郎監督(『水の中の八月』(1997年)『日曜日は終わらない』(1999年)と北野武監督に注目しているとのことだ。
物語の構成について、自分は脚本を書く前にきっちり構成を決めず、楽譜を読めない音楽家が音楽を作るように、自然な流れで登場人物たちの行動を発展させていると述べた。しかし映画製作には資金がかかるので、しっかりと枠組みを作る側面も必要で、自由な流れと確固とした計画の間のバランスを取ることが重要と思うという持論を披露した。
マケドニア語を自主的に勉強している観客の日本人男性は、タクシーの中で流れている「マケドニアの娘」と言う歌について聞いた。それは1960年代旧ユーゴ時代に流行った古風な女性についての歌で、映画ではタクシーの中で男女3人でいちゃいっちゃしている到底伝統的価値を持つとは考えられない女性を登場させて、ユーモアを狙ったと監督。
また映画の最後にロマの家族が出てきて音楽が印象的だが、マケドニアではロマの家族がマケドニア人と隣同士で住んでいるのかという質問に対して、映画の最後はキレの隣人のロマたちのパーテイの場面で、マケドニアのロマはムスリム教徒なので少年の割礼式を結婚式と同じぐらいの重要さで行う、彼らの音楽は美しくエネルギーに満ちて心に響くもので、キレはそこに友達を見つけたというところで終わると監督は説明した。 第1話、第2話は悲劇ながら第2話のロドナは哀しい体験を超えて逞しく母となり、第3話のカテリナを心配させたキレも喜びを見つけてカテリナに幸福をもたらす。本作は監督によれば「女性三部作」の第一作で、本作に続くのが昨年東京国際映画祭で上映された『カイマック』(本コラム(51)を参照のこと)なので、残る一作を期待したい。自分の映画はなぜか女性についての映画が多いが、女性は物語を語る上でより複雑で興味深いからではないかと監督は主張している。マンチェフスキ監督は強力な女性の味方である。