(49)クロアチア、1941年
[2022/7/30]

 今年もシネマ・(ポスト)ユーゴの季節となった。旧ユーゴスラヴィア地区の映画を東京の3、4の大学キャンパスで解説と討論付きで上映しているシネマ・(ポスト)ユーゴは、東京在住の旧ユーゴ出身者や日本人の研究者のグループにより、毎年6月に開催している。2020年からはコロナ禍で東京大学文学部の「旧ソ連・東欧の映像と文学」のコースに組み込んで頂くことで1本しか上映できていなかったが、本年もその形式で対面とオンラインの折衷形式で行なった。
 2020年、2021年は監督とズームで討論する新作ドキュメンタリーが続いたが(詳細は本コラム(44)を参照)、本年(2022年)は久しぶりに旧ユーゴ時代の古典映画、『地獄』(Deveti krug/The Ninth Circle、1960年、セルビア語・クロアチア語、英語字幕)の上映となった。シネマ・ユーゴの一員である東京在住スロヴェニア人のイェリサヴァ・ドボウシェク=セスナ先生が、本作の撮影監督であるイヴァン・マリンチェクの妹さんより、この映画が修復されてスロヴェニアのTVで放映されたと聞いたことが、本年のシネマ・(ポスト)ユーゴでの上映につながった。
 監督・共同脚本のフランツェ・シュティグリッツは、1919年スロヴェニア第三の都市クラニに生まれ、短編ドキュメンタリー制作で映画監督としてのキャリアを始めた。1948年に最初の長編映画を作り、本作『地獄』は長編7作目となる。その後1984年まで長編映画やTVシリーズを監督し、1993年スロヴェニアの首都リュブリャナで亡くなった。シュティグリッツは国際的にも知られているが、1956年の『平和の谷(Dolna mira/Valley of Peace)』がカンヌ映画祭で上映され、主演のアメリカ人俳優ジョン・キッツミラーが男優賞を受賞し、1958年に日本で上映された最初のユーゴ映画となった。第二次世界大戦中にスロヴェニアの山中に不時着したアメリカ軍の黒人パイロットが、スロヴェニア人の少年とドイツ人の少女とともに戦火の中、“平和の谷”と呼ばれている地帯を目指すというヒューマニズムに溢れた作品である。1970年代後半、日本ユーゴ友好協会の東京の催しで、私はこの映画を上映するお手伝いをしたので、シュティグリッツ監督は懐かしい名前だった。

第二次世界大戦の反ユダヤ主義
 『地獄』もカンヌ映画祭で上映されていて、欧州における第二次世界大戦中の反ユダヤ主義についての優れた作品として評価されている。製作はクロアチアのヤドラン・フィルム、出演俳優はクロアチア人を主にセルビア人もいて、作品の舞台はクロアチア、監督と撮影監督はスロヴェニア人である。各共和国の人たちが協力して作った、まさにユーゴ的な映画である。
 映画は居間で双六のようなボード・ゲームで遊ぶ十代の男女と10歳ぐらいの少年の3人がゲームに夢中になっている歓声で始まる。双六の通過点に鉄条網の柵があるのが気になる。すると、窓の外でドイツ語の行進の声が聞こえてくる。居間にいる2組の夫婦の表情が暗くなり、客の紳士が門限の時間が近づいたから帰らなければと言うと、ホストのヴォイノヴィッチ夫婦が引き止め、もう少し居て市電で帰ればと言う。客は「私たちは市電に乗れないから、歩いて帰ります」と言う。こうして、客の一家はユダヤ系で、ナチス・ドイツがクロアチアを占領してから日常生活に様々な規制が課されていることを台詞で示していく。ゲームに夢中になっている娘ルートを残して、ユダヤ人夫婦は少年とともに帰路につく。
 翌日、ダビテの星のユダヤ人認証を胸に付けたルートを家まで送るため、ヴォイノヴィチ氏がルートとともに彼女に家の近くまで来た時、2人はルートの父親が兵隊たちによってトラックに連行されるのを目撃する。ユダヤ人の逮捕が始まったのだ。ルートの安全を守るため、ヴォイノヴィチ夫妻は息子のイヴォを説得して、形式的に結婚させることにする。

 大学生のイヴォにはマグダという彼女がいて、ルートと結婚はしたものの両親への不満が募り、軽率な行動を繰り返して両親やルートを心配させる。一方、世の中の状況は悪化し、「1941年4月13日からアーリア民族とユダヤ人の結婚を禁ずる」という政策がラジオで放送されるのを黙って聞くヴォイノヴィチ夫妻の姿がとらえられる。イヴォと父親の口論を聞いて居たたまれなくなったルートが夜、家を飛び出してしまう。しかし彼女を探す過程でイヴォはルートを愛するようになる。そうなると今度はイヴォの母親は、息子が危険に巻き込まれることを懸念し、新たな不安に襲われる。

差別の実態
 ユダヤ人は道の真ん中を歩くことを禁じられているので、建物に沿って歩くことを強いられる。公園には入れない。そうした様々な理不尽な規則をイヴォはルートと歩くことで学んでゆくが、極めつけはルート一家が住んでいた家の隣人で軍服を着たナチス・ドイツに協力するファシストの男が、公園で彼女を侮辱して、彼女のスカーフを剥ぎ取り自分のブーツを拭くように命じる場面である。ルートは下を向いてそれに従う。男は仲間と一緒に彼女のことを「汚いユダヤの売女」と罵り、また街路に貼られた大きなプロパガンダのポスターは「汚れたユダヤ人」を強調している。ユダヤ人たちを汚れたものとして定義し、忌み嫌らわせようと公衆を誘導していたことが分かる。
 イヴォの通う大学でも、ナチス・ドイツと協力するウスタシャというファシスト集団に所属する学生たちが宣伝活動を行なっているが、イヴォとその親友はそれに反対する立場である。学生たちの抵抗の精神は、次のような場面で示される。中庭に学生たちを集め、演壇の軍服姿のウスタシャの学生が、この中でユダヤ人に関係する者は左側へ移れと言うと、やや上からの遠景に固定されたカメラは、おずおずと左側へと移動する3名の男女を捕える。残りの者はウスタシャに参加するようにと演壇の男が促すと、カメラが切り替わり、集団の中にいたイヴォの親友が左側へ歩き始め、残りの学生たちもそれに続く。カメラが再び演壇側の遠景になると、中庭には十数人の学生しか右側に残っていなくて、左へ進んだ圧倒的多数の集団はそのまま中庭を退出し、演壇の軍服の男たちを慌てさせる。ナチスに抵抗したクロアチア人もいたのだ、と強調する場面である。

 その後イヴォの親友は、イヴォとルートの身が危険なので今すぐパルチザンに参加するようにとイヴォに促すが、これもナチスと戦ったパルチザンの正当性を訴える戦後ユーゴの政治的立場を、さりげなく確認されている場面である。
 しかしイヴォが家に帰る前に空襲警報が鳴り、ヴォイノヴィチ夫妻とルートは隣人たちと防空壕に向かう。誰も居ない道路に開放感を感じたルートが思わず一人で街の中に走り出す。そして道路の真ん中を歩き、公園の中を思う存分楽しむ。空襲警報が解除された時に、ポスターに処刑された父の名前を見て凍りついたルートは、軍服の男たちに連行される。

 ルートを探すイヴォは収容所に行き着くが、そこでルートをはじめとする若くて美しい女性は「第九の層」、あるいは「ハーレム」と呼ばれているセクションに入れられ、いずれは死が待つ別の収容所に送られることをイヴォは知る。電流が流れる鉄条網の柵に身を投げた女囚の身体を取り払うため、真夜中に一時的に電流が切られることをイヴォは知る。彼はルートを伴って鉄条網を超えるが、力尽きて裸足のルートは尖った針金だらけの鉄条網に足を置くことが出来ない。鉄条網の外側のイヴォと内側のルートを光が包むところで映画は終わるので、この二人が愛し合いながら死んだことが示唆される。

第九の層
 「第九の層」とは本作のクロアチア語原題である。映画上映の前に、映画で描かれている当時の歴史や文化についての解説をした旧ユーゴ地区の歴史の専門家の山崎信一さんによれば、ダンテの『神曲』に出てくる言葉で地獄を指す。当時のユーゴの観客が題名を聞いてダンテの地獄を連想したらしいので、随分教養があったように思えるし、或いは日常的に慣用句として使われていた可能性もある。「第九の層」を直訳するより、意訳の「地獄」と日本語題名にすることを、山崎さんと私は上映準備中に決めた。
 山崎さんの解説によれば、ナチス・ドイツの占領後クロアチアでは、ナチスの政策を採用してユダヤ人やロマを収容所に送ったが、一番多く送られたのはクロアチア内にいたセルビア人だったそうだ。ユーゴ地区には元来ユダヤ人人口は少なく、中世の宗教裁判でスペインやポルトガルを追われたユダヤ人たちのほか、ナチスに追われてドイツ、オーストリア、ポーランドなどから逃れて来た人々がいたが、生き残ったユダヤ人たちは戦後イスラエルに移住した人たちも多く、現在も旧ユーゴ地区のユダヤ人の人口はそれほど多くないそうだ。
 本作を上映することにした私も山崎さんも、本作は日本で上映されていないと思い込んでいたのだが、映画上映後の解説に使う写真を探していた私は、インターネットで『第9女収容所』と言う日本語に遭遇し、本作がこの煽情的な題名で1961年に公開されていることを知った。当時の映画雑誌を調べてみると、『キネマ旬報』に小倉真美氏、『映画芸術』に田山力哉氏が批評を載せていた。
 ナチスの蛮行の非人間性を批判する本作のヒューマニズムに基づくアプローチ、ルートを演じた新人ドゥシツァ・ジェガラツの魅力を2人とも賞賛し、公園に入れないルートのために模型の公園を持ち帰ったイヴォがルートと指を手足に見立てて小さな公園をめぐり2人で心を通わせる場面、空襲警報で無人となった街や公園を1人で思い切り楽しむルートの開放感の発露とその後の彼女の運命の対比に注目している。そして(公開時の)日本語の題名と内容の齟齬を指摘し、実際には大部分が“ホームドラマ的”展開であり、イヴォが収容所のルートを探す部分は“メロドラマ的”で“現実味がなく”つまらないと批判している。
 私はこのイヴォの必死な探索の部分も焦燥感の表現も素晴らしいと思った。イヴォが、夜になって囚人たちを運ぶ列車に近づき、列車の中に小声で「ルート・ヴォイノヴィチ」と彼女の名前を囁き、その名前が次々と小声の早口で奥へ送られて行き、奥から「Nema (いない)」との言葉が繰り返されて戻ってくる場面がある。次は戸外の霧の中で労働させられている女性にイヴォが近づき、同様に「ルート・ヴォイノヴィチ」と言う言葉がこだまのように霧の中で繰り返され、再び「いない」と言う声が繰り返されながら戻ってくる場面である。見張りに見つからないように、最小限の言葉しか交わせない緊迫した状況、名前を聞いてその縁者がその人を探しているのだと察知した相手が、生命をかけて小声でその名前を次から次に伝えて行き、結果も次から次に伝えられて帰ってくるという状況が、音と映像で効果的に伝えられる。

 本作ではナチス占領軍のドイツ兵の存在は、最初の場面の窓の外にわずかに聞こえるドイツ語の行進曲の歌詞だけである。ルートを迫害するのはクロアチア語を喋る近所の軍服の男たちであり、イヴォに敵対する学生もクロアチア人である。ユダヤ人はファシストのクロアチア人たちによって迫害されたということも、山崎さんによれば戦後ユーゴの公式見解だそうである。

ホロコースト映画
 ユダヤ人の人口が少なかったせいか、ユーゴ映画でユダヤ人に対するホロコーストを扱う場合は少ないように思えるが、本作のほか1978年にユーゴで製作された『26の絵の中の占領(Okupacija u 26 slika/Occupation in 26 Pictures)』(ロルダン・ザフラノヴィチ監督)が製作当時話題になっていたことを思い出した。第二次世界大戦に至る時代のアドリア海に面したドゥブロヴニクを舞台に、クロアチア系、イタリア系、ユダヤ系の3人の若者たちを描くドラマで、ファシズム集団に参加するイタリア系青年はユダヤ人迫害に手を染めることになる。この映画を私は2000年代にニューヨークのリンカーン・センターで開催されたクロアチア映画祭で見たが、生々しい残酷描写が記憶に残っている。
 そしてホロコースト映画と言えば、世界的に有名なのはスティーブン・スピルバーグ監督の『シンドラーのリスト』(1993年)である。収容所のユダヤ人を救った実在の人物を描く本作の意義を見出したカリフォルニアの高校の先生が、1994年の1月、黒人の市民権運動家のマーティン・ルーサー・キング牧師の誕生日の祝日に高校生を引率して一般の人たちが見ている映画館に行き、この映画を課外授業として見ることにした。映画の中で収容所のドイツ兵がユダヤ人を銃殺する場面で、高校生の間から笑いが起こった。それに激怒したユダヤ系の劇場主はその場で上映を止めて高校生たちに退出を命じ、当時この事件は若い世代の間でのホロコースト体験の風化を嘆く大きな社会問題となった。
 しかしスピルバーグ監督は、自分も十代の時には真剣な場面で笑ってしまったことがあるし、笑った高校生たちはあまりに非現実的な場面に遭遇してどう反応して良いかわからなかったのだろうと高校生たちを擁護して、その後討論のためにその高校を訪れている。その後の報道で、その高校は公立で黒人やヒスパニックの少数民族の生徒が多く、その祝日にはアイス・スケートに学校から行く話があったのでそれを楽しみにしていた生徒も多かった、そして気が進まないまま映画館へ行くと、モノクロ(一部カラー)の3時間半の長い映画に付き合わなければいけないことを知って、見る気をなくしてロビーでたむろしていた者もいたと言う。そして先生の意図は良かったのだが、なぜキング牧師の誕生日にホロコーストの映画を見る意義があるのかという予習もされていなかったことが分かって来た。大人が当然と思うことも、若者には丁寧に説明する必要があることが分かる。このようなエピソードも私は上映後に紹介した。
 学生からは、なぜ映画の中のクロアチア人たちはユダヤ人を助けたのかと言う質問があり、ヴォイノヴィチ氏が絵を描いている場面があるので、インテリで知的な人々だったことが要因ではないかと私は答えたが、それに関連してイヴォが次第に正義に目覚めて行くので本作はイヴォの成長の物語ではないかと言う学生の指摘も出た。またイヴォの結婚の際、パーティで同級生たちに散々からかわれる場面についての質問もあり、それは「バチェラーズ・パーティ」という独身最後を祝うと言う大義名分ではめを外す男友達たちの間で行われる習慣が欧米であることを、東京大学のホストの楯岡求美先生が説明された。
 また、本作のように興味深い作品がユーゴ映画の中にまだまだ知られずに存在しているのではないかという指摘もあった。今後もシネマ・(ポスト)ユーゴでは、新作のみでなく古典を発掘し今日的観点から考えたいと、我々も気持ちを新たにした。