(46)コソボ、韓国、カザフスタン
[2021/11/27]

女性は闘う
 第34回となる本年(2021年)の東京国際映画祭では、コソボのカルトリナ・クラスニチ監督の初長編作『ヴェラは海の夢を見る(Vera Dreams of the Sea/era Andrron Detin)』が、コンペティション部門のグランプリを受賞した。孫もいる中年女性ヴェラがヒロインというのも、商業的にみれば勇気ある企画だと思う。本作は彼女が夫の死後、家族と家を守るために封建的な環境と腐敗に満ちた社会の中で孤軍奮闘する様を描く。題名の海は、次々と彼女を襲う困難の中で彼女が渇望する自由と独立のシンボルのように、彼女が見る風景としてしばしば現れる。
 ヴェラは手話の専門家として働いている。判事であった夫が自殺すると彼の従弟のアフメッドが、夫の故郷の家の管理をしていたお礼にその家を譲ってもらうことになっていたと言い出すが、彼女にとっては初耳である。夫の出身地の村では、男のみが家を相続できると親戚の老人たちが主張する。実は夫が賭け事で家を失ってしまっていたのだが、その付近には高速道路が建設されるため地価が高騰している。そこには夫の親友の判事も巻き込まれていて、土地のマフィアが暗躍していた。
 ヴェラは、前衛演劇の役者をしているシングル・マザーの娘サラともいさかいを起こしてしまう。サラは父に従順であった母に不満で、自分が父の反対を押し切って演劇の道に進んだ時に、母が自分を支えてくれなかったことにも傷ついていた。それを知ったヴェラは、サラとの関係について考え直す。ヴェラの父親が死んだ時に兄たちには遺産が与えられたが、彼女にはなかった。そして聴覚障害者であったヴェラの母親との会話で身につけた手話の技術が、唯一自分の財産となったと、ヴェラは娘に語り、社会的に自立することの重要さを母と娘は分かち合う。
 クラスニチ監督は1981年生まれ。コソボの首都プリシュテイナの大学で映画製作を専攻した後、ジャーナリズム・コミュニケーションの修士号を取得。その後カリフォルニア大学ロサンゼルス校で映画製作をさらに学んだ。中年女性が自分や家庭を守るために男社会や腐敗に満ちた環境の中で奮闘するというテーマは、審査委員特別賞を受賞したルーマニア出身の女性監督テオドラ・アナ・ミハイ(1981年生まれ)の長編2作目の『市民(La Civil)』にも共通していた。こちらの方はメキシコが舞台で、ヒロインは離婚したシングル・マザーである。十代の娘をギャングに誘拐され身代金を払ったのに釈放してくれない。元夫も警察も当てにならないので、彼女は単身ギャング組織に挑む。彼女はギャングたちの行動を車で見張り、携帯電話で出入りする人々を撮影して証拠集めをする。誰も助けてくれない絶望的な状況の中で、自ら何かをしなければ何も進まないのだ。しかし、それを逆にエネルギーとして道を拓いていく女性の強靭さが2作とも印象的であった。

映画は遺る
 女性の強さを描くという意味で、コンペティション部門では無冠に終わったが特筆したい映画があった。韓国の女性監督シン・スウオンの『オマージュ(Hommage/오마주 )』である。この映画のヒロインも中年女性で、インデペンデント映画を数本作ったジワンは新しい企画の脚本に苦慮している。そこへあまりお金にはならないが、韓国の女性監督のパイオニアについてのリサーチの仕事がアーカイブから舞い込む。1950年代に登場した女性監督は映画産業に受け入れられず、すぐに挫折してしまった。1960年代に何人か女性監督が現れ、そのうちの一人の作品『女判事』は実在した韓国初の女性判事についての劇映画であった。その映画の一部のシーンが当時の検閲で削除され、アーカイブで保存されていた映画でも、さらに残りの部分の音声の一部も欠けているので、それを復元する作業をジワンは始める。生存している関係者を探してインタビューを始めると同時に、夫や息子にこき使われて自分の仕事も十分に出来ない家庭環境に向き合い、ジワンは家庭内別居を宣言する。
 『女判事』の監督は既に亡くなっていた。その監督がいつも出入りしていた喫茶店を訪ねたジワンは、監督がいつもサングラスをして煙草を吸いながら脚本を苦心して書いていたことを知る。監督はいつも、もう一人の女性監督と女性映画編集者と3人で喧々囂々の議論をそこで交わし「Sanbagarasu」と自分たちを呼んでいた。ここで突然日本語が登場したことで、この1960年代の3人の女性映画人たちは日本語を話すことを強要された日本の植民地時代を体験した世代であったことが分かる。
 ジワンは、元編集者のおばあさんが『女判事』を観たという古い映画館を訪ねるが、そこは廃館寸前である。館主はその映画を覚えていないと言う。再び映画館を訪ねたジワンは、映写室に積み上げられていた帽子を館主からもらう。以前の館主が帽子製造ビジネスも兼業していたので、売り残った帽子が映写室に溢れていたのだ。
 ジワンが家にその帽子を持ち帰ると、息子が帽子を被って踊り、落とした帽子からリボンが外れたのを拾うと、なんとそれは古い映画のフィルムで作られていた。ジワンがそのフィルムをかざして見ると、判事の法衣を着た女性が写っているではないか。これこそ探し求めていた映画であった。
 ジワンは翌日映画館に戻り、映写室にあった帽子のリボンを全て集めて女性編集者のおばあさんに届ける。二人はそのフィルムの片鱗を整理して繋いでみる。検閲で削除されたシーンはなかったが、欠落した音声は復元することが出来た。韓国では実際に古いフィルムを帽子のリボンに活用したことがあったという。
ジワンは過労で倒れるが、夫や息子が寄り添ってくれ、家庭内に問題があった彼女だが、ある種の解決も見られる。ご都合主義といえなくもないが、ジワンが、過去の女性監督のパイオニアの仕事を再評価に繋げるという業績を成し遂げたと思えば、誇らしく嬉しくなった。
 シン監督は1967年ソウルに生まれ、2010年の初監督作品から4作の自主映画を制作している。ジワンにはシン監督の姿が投影されているようだ。

言葉の重要さ
 コンペティション部門の監督賞は、カザフスタンのダルジャン・オミルバエフ監督の『ある詩人(Poet/Akyun)』という納得できる結果であった。
 モノクロ写真のクローズ・アップで映画は始まる。その写真は壁に掛けられていて、草原で木を支えている人が中景で写っているが顔の表情は見えない。画面はカラーとなりカメラは、机に向かってボールペンで紙に何かを書いている中年男性へ移動する。デジタル時代に彼はいまだに紙とペンを使っている。朝の光の中でまだ寝ている妻、娘、そして地方から息子一家を訪れている母親の姿が紹介される。娘と妻はソファーで寝ているので、ベッドルームがいくつもあるアパートではなくて、この家族の慎ましい生活様式がうかがわれる。窓の外でミルクやサワー・クリームを売る声がして、朝の活動が始まっている。
 車の多い道路のシーンにオープニング・クレジットがかぶり、この市がかなり大きいことが分かる。画面は本のクローズ・アップとなる。ある火災の中「カザフ語」という本の表紙の題名が焼け残り、カザフ語は強靭だというナレーションが聞こえ、そのニュース映像の画面を見る新聞社のオフィスの数人の中年の男性たちが、言語と詩について話し始める。母国語大国であるフランスでも英語が使われている現在、世界の少数言語が絶滅の危機にあり、カザフ語もその一つであると一人が話し始める。こんな状況の中で人々はどのように言語を守ったら良いのだろうかと考えながら見ていると、彼らの議論は言語を使った詩についてとなる。
 シェイクスピアなくしてニュートンは生まれなかった、と言う人がいる。言語、そして文学はそれほど重要で人間生活の基幹ということなのだ。人々は純粋さを求めないので、詩人は貧困の中で死す、と別の人が続ける。最近ゴーゴリ、プーシキンなどロシアの文豪が登場する劇を見たが、図書館へ行って欲しいと彼らは訴えるのだ、とまた他の男性が続ける。詩の抵抗精神を人々は理解しない、言語はどうなるのだろうと彼らは憂慮する。
 主人公のディダルは売れない詩人で、この小さな新聞社で働いているが、寡黙で同僚の議論にも加わらず、じっと耳を傾けているだけである。彼は19世紀の詩人、マハンべトに思いを馳せている。マハンベトの運命を描くシーンと、現在のディダルのシーンが交互に現れ、同じ俳優がその二人を演じている。マハンベトは政争に敗れて草原のテントの中で家族とひっそりと暮らしているが、訪れたスルタンの使者からスルタンを讃える詩を書くことを示唆され、それを拒否して使者に殺される。
 ディダルが列車に乗って地方の詩の朗読会に行くと、主催者には大歓迎されるがホテル代がないので主催者の家に泊まる。このような主催者たちは、少ない予算の中で文化活動を続けている現状も紹介される。翌日の朗読会では大学や軍隊への動員要請を断られていて、客は広い会場に何と一人である。しかし熱烈なファンであるその若い女性は、彼の詩を朗々と暗唱する。こんなファンが一人でもいれば、彼が詩を書く意義もあるのだろうと思う。
 最後はディダルの新しい詩集出版に際してのTVのインタビュー場面となる。街の家電ストアのコンピューターに彼はUSBメモリーを差し入れて、そのインタビュー場面の映像が店頭に並ぶ多くのスクリーンに一斉に写し出される。程なくアラームが鳴り店員たちが駆けつけるが、それはインタビュー中のことか、それとも彼が店の展示品を勝手に操作したことで鳴ったのかはわからないまま映画が終わる。彼は精神的に荒廃した現代に警告を発する詩人であるという象徴的な表現であろうか。
 ダルジャン・オミルバエフ監督は1958年カザフスタンの村に生まれ、応用数学を修めたのちにモスクワの映画大学で学ぶ。映画評論家として活動した後、1991年に処女長編作を監督し、国際的に注目された。映画もまた言語を使って人々の精神を喚起する芸術活動である。世俗的な社会の大勢には認められないが人間の尊厳と抵抗精神を記録する孤高の詩人の言葉の強さと崇高さを、改めて認識させる映画であった。