(45)ルーマニア、ジョージア、そしてオセチア
[2021/11/6]

 昨年2020年はコロナ感染流行のためオンラインとドライブイン上映のみであった恒例のニューヨーク映画祭、59回目の今年(2021)は劇場上映に戻って安心した。世界から厳選された32作品が上映されたメイン部門のほか、話題作や実験映画、修復された古典上映部門もあり、数多くの映画を見ることができた。その中で印象に残ったのはメイン部門のルーマニア映画2本とジョージア、その隣国の北オセチアの映画であった。

イカれたポルノ
 『アンラッキー・セックス、あるいはイカれたポルノ(Bad Luck Banging or Loony Porn)』(ルーマニア、ルクセンブルグ、クロアチア、チェコ合作、2021年、詳細はこちら)は仰々しい題名だが、内容を的確に表現している。映画は粗い画質のアマチュア・ビデオらしき男女の遊戯性に満ちた性の営みで始まる。それが誤ってインターネットに流されたため、そのビデオの中の女性である名門校の女教師エミ(カーチャ・パスカリウ)が窮地に立たされている状況が次第に観客にもわかってくる。しかし映画の前半は、その対処で校長の自宅を訪問するため街路を歩くエミを中景と遠景で延々と捕らえるシーンのみが続く。校長宅訪問は至って短く終わり、再び彼女は街路を延々と歩き、スーパーマーケットに寄って買い物をする。その間、彼女が何を考えているのか、観客は想像するほかない。
 映画の中間部は、いろいろな言葉の哲学的意味を視覚化した言葉遊びのような影像だが、映画の後半でいよいよドラマの核心となる。
 学校の中庭で夕方から開かれた父母会には、ソーシャル・ディスタンスを守った間隔で椅子が並べられ、出席する父母はみんな様々なマスクをしていて、そのデザインを巡っての会話が始まったりする。エミは父母に対面して座り、校長の司会で、自ら弁護の論議を始める。子供たちがインターネットでビデオを見て当惑していると言う父母の非難に対して、エミは反論する。誤って夫がインターネットに載せてしまったので故意ではないし、しかもアダルト・ビデオ・サイトに載っているので子供が見ることができると言う状況の方が問題だと主張するのだ。
ビデオの内容があまりに淫らだという意見には、我々は夫婦なので問題ないはずだと、エミはきっぱり押し切る。そしてこのような状況を作ったエミは教師としてふさわしくないので免職すべきであると言う意見に対しても、自分は歴史を教えることで生徒に考える力を養うことに専心する優秀な教師であることを強調する。すると父母の攻撃は彼女の教育内容に移っていく。ルーマニアの過去の人種差別的政策や保守主義を指摘するエミの教育内容に、一部の父母たちはあからさまに批判をする。その中でそうした親たち自身が持つユダヤ人やロマへの差別意識が明らかになるのだが、父母の中には黒人男性もいるのに親たちは無神経に自分たちの差別意識を堂々と表明していく。対するエミは全く動ぜず、フランスの作家、アンドレ・マルロー(1901−1976)やルーマニアの国民的文学者ミハイ・エミネスク(1850−1889)の文章を引用して反撃する。そして父母会の結果はわからないまま、映画は終わる。
 本作は2021年ベルリン映画祭で金熊賞(最高賞)を受賞した。監督のラドウ・ジュデは1977年ブカレスト生まれ。ブカレストで映画製作を学び、助監督、短編製作を経て2009年より本作までに7本の長編を製作している中堅作家である。ルーマニアや他の国でセックス・ビデオがインターネットに流れたため解雇された教師たちの実際に起こった事件を人々が夢中で論議する現実を見て、この映画の構想を練ったと言う。
 インターネットが人々の日常生活に侵入し、身近でありながら脅威ともなるこの時代に、不特定多数の者の娯楽となってしまう個人のプライバシーにどう対処するのか、インターネットのイメージが起こす事件に対して我々はどのように考えていくべきなのかなど、現在社会が抱える多くの問題を提示している本作は、自由奔放なアプローチで映画という媒体の制約されない流動的な要素を実感させてくれる。

イントレガルデ
 『イントレガルデ(Intergarde)』(ルーマニア製作、2021年、詳細はこちら)のラドウ・ムンテアン監督は1970年ブカレスト生まれ。ブカレストで映画製作を学び短編を経て2002年より長編を撮り始め、本作が長編7作目。作品の多くが国際映画祭で上映されていて、ジュデ監督同様国際的にも知られている。前衛的なジュデ作品とは対照的に、正攻法で映画の中のドラマの緊迫感を高めていく技術には感服した。
 題名のイントレガルデとはトランシルヴァニアの山中の土地の名前である。3、4人の男女の若者が1グループとなり、ブカレストから車で、貧しい僻地の老人たちに食べ物を配布するボランティア活動に従事している。理想に萌え、善行を誇りとする彼らはやる気も元気も一杯である。その中の一つのグループがイントレガルデを目指して車で出かけるが、その途中、山の中の道を歩く老人を同乗させるところからドラマが展開する。
 老人は近くの水車工場へ行くと言うのだが、その途中の山道の泥にタイヤが巻き込まれ動けなくなってしまう。電話で近くの町に援助を求めても役所はおざなり仕事で朝まで助けを派遣出来ないという答えである。だんだん暗くなって来るので、グループの1人の男性が援助を求めに行き、残された女性2人は老人と車で待つことになる。
 程なくロマ語を話す二人の男たちの車が通りかかるが、彼らも何もできず、その車は去ってしまう。しかし去り際に、水車工場はここ数年無人であると告げる。老人が痴呆症でありもしないことを喋っていたことを女性2人は認識するのだが、暗闇と静けさと寒さの中で老人と女性2人はもう1人の仲間の男性を待つほかない。その時間が不安の中で永遠に感じられる。
 結局仲間が戻り、女性2人は夜を過ごした後に仲間や老人とともに近くの町に救出されるのだが、実際にレッカー車が到着して彼らの車を泥道から引き上げる場面はない。多分近くの町役場からようやく救出隊が派遣されたのだろう。夜が明けると彼らは近くの集落にいる。そして地面には雪が積もり始めている。
 閉ざされた空間で引き起こされる人間関係の絡まりを刻んでいく時間の進行が見事に映像化されている。監督によれば、実際にこのようなボランティア活動を取材して、これは本当に僻地の老人たちの役に立っているのか、都会の豊かな人たちの自己満足ではないのかという疑問を感じたところからこの作品を作ったと言う。夜の山の中の車という単純な設定の中で、次に何が起こるかわからないスリラー的な盛り上げ方が巧みである。

ジョージアの風
 『空を見上げる時、何を見るのか?(What Do We See When We Look at the Sky?)』(ジョージア・ドイツ合作、2021年、詳細はこちら)は、一風変わった映画だが、そこはかとない魅力に満ちている。150分の上映時間はさすがに長いが、本作の舞台になっているジョージアの地方都市クタイシの街の落ち着いた佇まいや息吹が伝わってくる。街にはとうとうと流れる川があり、赤い橋と白い橋がある。街路を子供たちが楽しそうにグループで歩き、犬がたくさんいて、のんびりベンチや店先にすわっている。
 小学校の門のあたりにカメラが固定され、友達と喋ったり親に付き添われる子供たちを数分間見せる場面から映画が始まる。そして若い男女の足のクローズ・アップとなる。ぶつかりそうになって本を落とした女性に男性がその本を渡すところから2人の出会いが紹介される。2人の足は反対方向へ進みながらすぐに戻り、再び本が落ちる。そして男性が女性に白い橋のたもとのカフェで翌日夜に会うことを提案する。
 それから男女の全貌が紹介される。男性のギオルギはサッカーの選手、女性のリサは薬剤師だ。翌朝、2人とも容貌が変わってそれぞれ別人になっている。その理由について、映画を通して聞こえてくる男性のナレーションが「呪い」としか説明しない。何となく微笑ましかったのは、リサが帰宅中に道端の草と古い雨樋と信号機、そして風の4者に彼女の姿が変わることを警告されるのだが、風の言葉の途中で自動車が間に入ってきたので後半が聞こえなかったとナレーションが説明するのだ。このような不思議な設定を大真面目で進めていくスタイルが個性的で、私はすっかり気に入ってしまった。
 容貌が変わった2人は職場に行けなくなり、夜のカフェでもお互いを認識できない。新しい姿になったリサはそのカフェで働き始め、ギオルギはそのカフェの近くの道に鉄棒を立てて子供たちにぶら下がらせたりクッキーの食べ競争をさせて小銭をもらったり、サッカーのテレビ中継がある時にはカフェで映写を担当する。
 至近距離にいながらお互いが分からない2人がいつそれに気がつくのかと観客はハラハラしながら見守るのだが、期待を裏切って、その展開はのんびりとしている。その間観客は、カフェで集う人々や川の辺りのアパートのテラスで洗濯物を干す人を見てこの街の生活を想像し、風にそよぐ木々の下での人々の会話を楽しむほかない。
 最後にはハッピーエンドでお互いの元の姿を見るのだが、それは6組のカップルを選んで、それを追うインデペンデントのドキュメンタリー映画の試写会場で起こる。リサとギオルギはカップルではなかったのでドキュメンタリーの出演を要請されて断ったものの、断り切れず出演した結果、画面の中の自分たちの姿を見て、それが以前の2人の姿なのでお互いに納得する。その前に新しい容貌になっていた2人は心を通い合わせ始めているので、我々も観ていてほっとする瞬間である。
 リサとギオルギ役は、それぞれ二人の俳優が演じている。映画監督とパートナーのプロデューサー役はアレクサンドル・コベリジェ監督の両親が演じ、ジョージアの民族音楽やサッカーのテーマ音楽などさまざまな音源を使った音楽は監督の兄弟のギオルギ・コベリジェが担当している。コベリジェ監督は1984年ジョージアの首都トビリシ生まれ。国内で経済学と映画製作を学んだ後、ベルリンのドイツ映画・テレビ・アカデミーで演出を学び、短編を経て本作が長編2作目である。

北オセチアの地から
 ロシア連邦に属する北オセチア・アラニア共和国は私にとって馴染みのない地である。北オセチアと同じオセチア人が住む南オセチアはジョージア共和国の一部であったが、ジョージア、ロシア、アブハジアの間で領土紛争があって2008年に独立したことをうっすらと思い出した程度である。アブハジアの独立の紛争を舞台にした『とうもろこしの島』(2014年、ギオルギ・オヴァシヴィリ監督)を見たことも思い出した。今回見た女性監督キラ・コヴァレンコによる『ひるまない拳(Unflinching the Fists)』(ロシア製作、2021年、詳細はこちら)には、末恐ろしいほどの思いを感じさせられた。描かれている内容はひたすら救いのない悲惨なものだが、現実に対する絶望と自由への渇望の途轍もないパワーがあるのだ。
 コヴァレンコ監督は北コーカサスにある北オセチアの隣国、カルバディノ・バルカリア共和国の首都ナリチクに1989年に生まれ、バルカリアンとロシアの血を引く。カルバディノ・バルカリアと言えば、当コラム(39)で紹介した恐るべき才能であるカンテミル・バラゴフ監督の出身地で、コヴァレンコとバラゴフは地元の大学で行われ、地元の若者12名が参加したロシアの巨匠アレクサンドル・ソクーロフ(1951~)監督による映画ワークショップを一緒に受講している。こうなると、ソクーロフは卓越した映画作家であるとともに、ずば抜けた教育者であることが分かる。コヴァレンコによれば、ソクーロフは今まで注目されなかった北コーカサス地域の映画を世に送り出す重要性を痛感し、当地で映画ワークショップを開催した。学生たちには、自分について、自分の体験した愛や関係について、日常生活についてのストーリーを掘り下げて映画にするよう強調していたと言う。つまり人間観察を徹底して、人物造形を行いドラマを形成しろと言うことだ。
 本作はコヴァレンコ監督の2作目で、2021年のカンヌ映画の「ある視点」部門のグランプリを受賞した。舞台となっている北オセチアの現地語を隣国出身の彼女は完全には理解できないながらも、お互いの共通語であるロシア語を使うよりも、リズムや雰囲気でしっくり感じたと述べている。映画を撮影したミズールという町は、ぱっとしない工業都市である。ヒロインのアダは子供相手の食料品店に勤務する若い女性だが、母の居ない家では父親が独裁者として彼女の一挙一動を監視し、弟はベタベタとくっついてきて鬱陶しい。他の都市へ行った兄の帰りだけを心待ちにするアダは、兄が自分を救ってくれると期待している。
 兄が戻ってくるが、事態は一気に進まず、アダは不満を鬱屈させて言い寄ってきている若者タミックに身を委ねる。ところが肉体関係を持っても彼は頼りにならない。アダがいつもショルダーバッグをしっかり抱えているのは、その中にオムツの替えが入っているからで、彼女はスラックスの下に当てているオムツなしでは生活できない。しかし、その原因ははっきり説明されない。母も手術をしたが失敗して亡くなってしまったという父と兄の会話があるので、遺伝性の泌尿に関わる病気かもしれない。アダがタミックとの逢瀬で衣服を引き上げると、オムツばかりか腹部には傷跡があり、「例の学校に立てこもった人質事件でテロの投げた爆弾に被弾して」と彼に説明する場面がある。タミックは全くその傷を気にしない風で、自分にもあちこち傷があると身体を見せるが、それがやはり人質事件のものかどうかは不明である。
 タミックは食料配達の仕事をしていてアダを見染めるのだが、車を町の若者がたむろする空き地で砂埃をあげながら超スピードで走らせたり、温泉のようなプールに集団で行ったりするぐらいしかこの町には娯楽がないようで、昔ながらのダンス・パーテイも何となくうらぶれている。緩やかなリズムのポップ・ミュージックが流れ、歌詞に「チェチェン語」と字幕が出てくる場面があるので、様々な民族がこの地に住んでいることが想像される。
 ある日自宅で父が倒れ、兄に頼まれアダが父のために台所の水道の蛇口をひねると茶色い水が出てくる。この町の日常は不健康でインフラも遅れている。父が意識不明になっている今こそ、アダにとっては逃亡のチャンスなので、一緒に家を出ることを兄に頼む。兄は父を見捨てることが出来ず、父を病院に運んで世話をする。家に戻った父は体を動かせなくなっているが、責め立てるアダに彼女のパスポートの隠し場所を教える。パスポートの意味する待ち焦がれた自由を手にしてアダは兄のオードバイに同乗するが、結婚式の帰りの一団の車の横を走りながら彼女はパスポートの入ったショルダーバッグを道に捨てるところで映画は終わる。やっと手に入れた自由をなぜ彼女は自ら捨てたのか、それは観る者それぞれの解釈に委ねられる。
 至近距離から登場人物の表情を捕らえるクローズ・アップの多用で、アダの閉塞感を強調しているが、何と言っても寡黙なアダ役のミラナ・アグザロヴァの表情には忘れ難い目の力がある。アグザロヴァは地元の演劇学校の学生、父親役は伝統ある劇団の俳優、そのほかの若者は現地のアマチュアを使っている。こんな人たちが実際にいるだろうと思わせるリアルな雰囲気があり、この個性的なドラマを形作っている。