(42)小さな斧で世界を変える
[2020/12/12]

 「Black Lives Matter(黒人の命は大切だ、BLM) の運動が、2020年半ばより旋風のように米国から世界に広がった。無抵抗な黒人、ジョージ・フロイドを押さえつけて窒息死させた白人警官のミネソタ州ミネアポリスでの事件が起点となり、白人警官に殺害された無実の黒人に起こった数多くの同様の事件が見直され、社会的政治的不正に対して全人種が参加する抗議運動となったのだ。日本では対岸の火事の如く思っている人が少なくないだろうが、日本における少数民族・移民・難民に対する差別が存在する以上、他人事では有り得ない。そして、差別をされる者たちがどのような状況に置かれ、どのように不正に対して立ち上がって来たかを見せるのが、英国のステイーヴ・マックイーン監督(1969〜)の中編5部作「スモール・アックス(小さな斧)」のシリーズである。英国の公共テレビ局BBCの製作、米国の配給はアマゾン・スタジオで2020年秋からオンラインで公開され始めた。
 小さな斧とは、「あなたが大きな木なら、わたしたちは小さな斧」というジャマイカの格言から取ったもので、この地が生んだ偉大な歌手、ボブ・マーリーの歌にもある。斧であれば行動を起こし、現状を変えることが出来る。人々に行動を促す言葉である。そしてこの5作品は、1960年代から1980年代まで、マックイーン監督の出身地であるロンドン市内の西インド諸島からの移民社会で実際に起こった事を基に映画化したものである。

5つの作品
 2020年9月のニューヨーク映画祭のオープニング作品に選ばれたのがこの5部作の一つ、『ラヴァーズ・ロック(Lovers Rock)』である。これは一つの家に集まって音楽とダンスを楽しむ地元の人々の一夜がテーマで、そこで出会った若い男女を中心に物語が進む。台所では女たちがお喋りをしながら野菜を刻み、香辛料を使った山羊肉が入ったカレーが数個の大鍋でグツグツ煮込まれる。居間には男たちがアンプやレコード・プレーヤーなどの機材を次々と運び込む。1980年当時は、移民の彼らが安心して楽しめる公共の場所がなかったので、個人の家で参加者が幾らかのお金を払って集まった。

 男女の恋愛は、見つめ合う彼らの視線の交錯から始まる。そしてハレの場であるダンスに参加するので、女性は着飾ってメイクもばっちりしている。居間でDJが盛り上げる音楽に合わせて踊る人々のダンスの場面が多くを占める本作で、監督は音楽を全面に出して彼らの喜びと躍動感を祝福している。しかしその家から一歩外に出れば、横丁にたむろして彼らを無言で見つめる近所の白人の若者たちや、遠くに響くパトカーのサイレンが緊張感を誘う。
 「小さな斧」シリーズでは、本作の評判がマスコミでも高かったが、私は5作品の中では『マングローブ(Mangrove)』が最高であった。マングローブとは、1968年に開店したこの移民コミュニテイーの人々が集うレストランの名前で、白人警官が理由もなく突然現れて襲撃する対象となる。店を滅茶苦茶に破壊された後、人々はなけなしのお金を集めてレストランを再建し、活動家たちが集まる。度重なる白人警官の路上や店での不当な暴力に立ちあがり、平和的デモをしていた人々を警官が暴力によって制圧し逮捕する。マングローブの経営者のフランク・クリクロウをはじめ、公共騒乱罪で起訴された9人の男女の裁判の過程が本作の山場である。
 私は本作を見るまでこの事件を知らなかったが、英国では「マングローブの9人」として有名な事件だそうだ。全員無罪を勝ち取った被告側弁護士をつとめた白人のイアン・マクドナルド氏は、2019年に80歳で本作製作中に亡くなる直前まで、難民や移民のために奮闘していた。

 裁判を描く映画では法廷という限られた空間で法律用語が飛び交い、論点を明らかに整理しながら物語として盛り上げて行くのは容易ではない。しかも観客の大部分は多分結果をあらかじめ知っているので、緊迫感を盛り上げることも難しい。それらの制約の中で、被告たちの置かれた圧倒的劣勢な立場と彼らの必死な反撃、不屈の努力と連帯が本作では鮮やかに展開されるのだ。弁護士に任せず自分で弁論を選んだ被告2名が、検察側証人に直接質問できる特権を活かして検察側のでっち上げの罪状を崩して行くスリルも見事である。何と言ってもフランクを演ずる西インド諸島系の俳優、ショーン・パークスが素晴らしい。最初はどちらかと言えばノンポリ気味なのだが、度重なる警官の不正に立ち上がざるを得なくなる小市民が、挫折感を味わいながらも仲間に励まされて運動を続けるヒーローとなって行く過程を、説得力を持って演じている。
 『マングローブ』とともにニューヨーク映画祭で上映(ニューヨークでは劇場上映が行われていないので、オンライン上映とドライブイン上映のみ)された『赤、白、青(Red, White and Blue)』の題名は、自由、平等、博愛を謳ったフランス国旗の色から来ているのであろう。舞台は1980年代。科学者だったルロイ・ローガンが安定した職を投げ打って警官になったのは、白人警官の不当な差別行為に悩まされる地元コミュニティのためである。父親が警官の不当な暴力で大怪我をして入院した事を契機に、組織悪に内部から挑戦する決意をする。父は息子の決意に驚愕して大反対をし、ルロイは人種差別の蔓延する環境で昇進もできず、同僚の嫌がらせは日常茶飯事である。唯一心を通わせることが出来るのは、やはり有色人種のパキスタン系の同僚だけである。
 ルロイの孤独感は、無機質的な青緑を基調としたロッカー・ルームや事務室などの冷たい感触で冷え冷えと伝えられる。映画は新人警官となったルロイの時代で終わるが、現実のルロイはいわれの無い内部調査の対象となるような嫌がらせを受けながらも警察に留まり続け、主任警部となって引退し、人種差別は警察組織で今だに続いていると証言しているそうだ。それでも彼の孤高な努力は、自由・平等・博愛を同胞たちに持たらす力になったに違いない。
 以上3作はニューヨーク映画祭での上映の後アマゾン・スタジオからオンライン上映として配信された。12月に入って、5部作の残りの2作、『教育(Education)』『アレックス・ウイトル(Alex Wheattle)』も配信された。
 『教育』は、天文学に興味を持つ少年のキングストンが、差別的な白人教師たちにより知能不足とされて「特殊教育学校」へ送られる過程を描く。彼の両親は肉体労働で疲れて帰宅するが、十代の娘、息子と4人で食卓を囲む家庭愛に溢れたカップルで、決して狭くはない家もこざっぱりと整えられている。キングストンが家庭に恵まれているのが救いであるが、やる気のない教師や明らかに問題の多い学友、或いはキングストンのように人種差別の対象でここに来てしまったような学友の混じる特殊教育学校で、彼はやるせない日々を送る。
 ある日、地域の活動家の女性が母を訪ねて来て、キングストンは有色人種の子供を対象とした制度的人種差別の犠牲者であると説明し、集会に誘う。集会では同様の体験をしている両親たちが集まり、活動家は地元で運営されている土曜日の補習校に子供たちを通わせるように進言する。
 補習校では、和気あいあいとした雰囲気の中でアフリカの歴史を子供たちが学び、子供達は自分たちの歴史や文化にプライドを持てるようになる。そしてキングストンは、目を輝かせながらすぐにその場に打ち解ける。活動家が母親に、教育科学相のマーガレット・サッチャーという女性に手紙を書いて、キングストンを普通学校に転校させる願いを出すようにと勧めるところで映画は終わる。サッチャーが本職に就任したのは1970年、彼女がどのように応対したのかは映画では描かれていないが、保守的な政策を採用していたようなので、あまり期待は出来ないだろう。
 『アレックス・ウイトル』は、刑務所に収監される若者の場面から始まり、刑務所の中の日常に彼の回想が挟まれていく。幼い頃両親の離婚でアレックスは孤児となり、孤児院では白人の養護者に虐待される。成長したアレックスは音楽と出会い、ミュージシャン・DJとなるが、白人警官の暴力の被害に遭う。刑務所ではハンガー・ストライキをしている同室のラスタファリ運動家の男性に勧められ、ハイチ革命(1791-1804)についての『黒人のジャコビン(The Black Jacobins)』(歴史家C.L.R. ジェームズにより1938年に刊行された本*)を読んで、アレックスは自分の置かれている立場について覚醒していく。(*邦訳『ブラック・ジャコバン:トゥサン=ルヴェルチュールとハイチ革命』C.L.R.ジェームズ著 青木芳夫訳 大村書店、1991(2002、増補版))
 「過去を知らなければ将来もわからない」という同室の男性の言葉から、アレックスは出獄後に役所へ行き、自分に関する書類を見つけて公園で読む。彼の目には涙が光る。最後の字幕で、彼がジャマイカ出身の父と再会し、さらにアメリカに渡った母や兄弟とも会ったことが示される。
 当時のニュース映像らしきものも挿入されるが、不当に殺害されたらしき黒人の若者たちの写真を掲げ、「サッチャーはアイルランドに哀悼の意を表明したが、殺害された13人には知らん顔だ」というプラカードがある。アレックスが警官隊に向かう路上の暴動に参加している場面もあるが、この辺り私は見ていて前後関係がしっかり飲み込めなかった。その後調べてみると、1981年に南ロンドンのブリクストンで起こった暴動に参加したことで、アレックスは逮捕されて収監された。そして彼は後に作家となる。

マックイーン監督
 マックイーン監督の名前をしっかり私の心に刻みつけたのは、それまでヴィデオ・インスタレーションなどで名を挙げていたアーティストであった彼の長編映画処女作『ハンガー(Hunger)』(08)を、スペインのサンセバスチャン映画祭で見た時だ。1981年に刑務所のハンガー・ストライキで亡くなった北アイルランドの闘士、ボビー・サンズを演ずるマイケル・ファスベンダーの肉体が、衝撃的なのだ。北アイルランドに対して帝国主義的な態度をとる英国の刑務所の中で、アイルランド系活動家がどのような待遇を受けるのか、観ている私の五臓六腑に深々と響いてくる場面の連続なのだ。冷たい壁、放水される囚人たち、看守による日常的な暴力に対して、人間の尊厳を保とうとするサンズは、自らの肉体を使って抵抗するほか手段がないのだ。
 『マングローブ』について、人情味のある白人警官を配置するというようなご都合主義的配慮をマックイーン監督はしていないと言っていたニューヨークの批評家がいて、なるほどと思ったが、『ハンガー』でも政治犯に対して同情的にふるまう看守は皆無である。それが被害者としてのマックイーンの見解なのだろう。あくまで権力を不当に行使する側と、抑圧される側の決定的な対立の縮図である。
 本監督の第二作『SHAME―シェイム―』(11)も大いに期待したが、マイケル・ファスベンダーが性依存症の男性を演ずる現代劇で、私は最初から最後まで白けてしまった。
 自由人としてアメリカ北部で生きていた黒人が騙されて誘拐され、南部で奴隷として売られて12年の艱難辛苦の年月を送るという実話を基にしたストーリーの第三作目『それでも夜は明ける(Twelve Years a Slave)』(13)は、主人公を助ける立派な白人として出演もしているブラッド・ピットも製作に加わっている。アカデミー賞最優秀作品賞、脚本賞(ジョン・リドリー)、助演女優賞(ルピタ・ニョンゴ)も受賞して、マックイーンの名前が世に広く知られるようになった。しかし私にとっては、どこか通俗的な期待はずれの映画であった。
 私が本作で強烈に記憶に残っているのは、映画そのものではなく映画を取り巻く奇妙な2つの出来事である。ある有名人を集めたプレミア上映会で、映画の上映中に劇場内で堂々と携帯電話をつけて何か作業をしている金髪の女性観客がいた。光が周囲に漏れるし、近くに座った人たちは気が散るので、その問題児のすぐ後ろに座っていた女性が辟易し、彼女の肩を叩き小声で迷惑だからやめるように、そうでなければロビーに出るように言った。すると問題児は「この画面で起こっているような奴隷になれと言うこと?」と訳のわからないことを言い、警告を無視して携帯電話を操作しているので、周囲は諦め半分、怒りを貯めていた。長い映画が終了して劇場の明かりがつくと、この問題児はあのマドンナであった。
 このエピソードはあっという間にインターネットで広がり、映画監督もしているマドンナがいわば自分の仲間である他の監督の作品に敬意を払わないのは論外だと呆れる意見が多かった。テキサスのビール会社が始めた全米で人気がある劇場チェーンの経営者も怒り心頭に発し、マドンナが自分の非礼を観客に謝らない限り、自分の劇場チェーンの入場を拒否すると声明を発表し、私は心の中で万歳!を叫んだ。しかし自分が世界の中心と思っているあの歌手兼女優兼映画監督は、こんな苦情を屁とも思っていないであろう。
 2つ目の事件は、ニューヨークの黒人の映画評論家アーモンド・ホワイトに関わるものである。この人を私は直接知っているが、普段は大人しくて柔和で愛想も良い。しかし書くことは辛辣で攻撃的で、誰かがある作品を褒めるとわざとそれに反発するような天邪鬼的傾向があることで知られている。2014年1月のニューヨーク映画批評家協会の授賞式で本作が最優監督賞を受賞した時、もとより本作に対して「拷問ポルノ」であると批判的であったアーモンドは、会場の奥の方のテーブルに座っていた。受賞のために名前を呼ばれたマックイーン監督が舞台に上がると、彼に向かってアーモンドは「お前は恥ずべきドアマンでゴミ集め人だ!(その後には、伏字とされなければいけないような汚い言葉が続く)」と叫んで、会場の一同は呆気にとられた。前の方に座っている人たちは彼の言葉の全部をはっきり聞き取れなかったと言うが、後ろの方に座っている人たちは一語一句聞こえたそうだ。舞台上のマックイーン監督には、はっきりとその言葉が聞こえなかったかもしれないが、何事もなかったようにスピーチをしたそうだ。アーモンドはその後、本協会の出入り禁止となった。アーモンドの映画の評価に100%反論出来ないなあと思っている私は密かにほくそ笑んでしまったが、彼を知る人々は皆、ああ、あのアーモンドね・・・と苦笑いしていた。
 マックイーン監督第4作目の『ロスト・マネー 偽りの報酬(Widows)』(18)はヴィオラ・デイヴィス主演の犯罪ドラマで、私も観ているはずだが観たことさえあまり覚えていないほど印象にない。
 こうして第1作目の『ハンガー』でマックイーン監督にひれ伏して以来、失望する作品に辟易気味であった私は、今回の5部作を流石と評価したい。抑圧される人間たちがなぜ立ち上がることになったのか、その過程を見つめ、人間の尊厳を保つために彼らがどのような行動をとったのかを熱く描いている。今回は久しぶりにマックイーン監督の意気と映画作家としての手腕を満喫した。そして私の知らなかった英国の西インド諸島移民の人々の歴史や日常を、まざまざと感じることが出来た。その体験は常に白人の権力者たちからの不当な差別の対象でありながら、置かれている時代や場所によって多様な個人の歴史となっている。
 マックイーン監督は、「小さな斧」シリーズを、ジョージ・フロイドとその他大勢の殺害された黒人たちに捧げている。そして、本シリーズの5つの物語を家族や親戚から聞かされてきたと、個人的なつながりを述べている。映画の中で起こっている事は過去についてであるが、「今この現在についてのコメントでもある。我々がかつてどうであったか、今どうであるか、そして将来どうなりたいのかについてのコメントである」と続けている。