(41)世界の各地から NY映画祭
[2020/10/24]

 コロナ感染が続き、どうなるか心配された2020年9月のNY映画祭(9/17〜10/11)であるが、58回目の今回はオンラインとドライブイン上映のみとなった。主催はNYの文化団体の大物であるリンカーン・センターだ。カンヌ、ベルリン、ヴェネツィア映画祭などで評判になった、世界で最先端の作品の他、地元アメリカの話題作や新作、実験映画も含めて多様な作品を上映する。NY最大の映画イベントであることには間違いない。

コートジボワールの刑務所

 厳選された25作品が並ぶメイン部門では、アフリカのコートジボワールの刑務所を舞台にした劇映画『王たちの夜(Night of the Kings)(コートジボワール・セネガル・フランス・カナダ合作)が面白かった。山奥にある刑務所は事実上、囚人たちによって支配されていて、病気の牢名主の跡目を巡って陰謀が渦巻いている。そこへ来た新入りの囚人が“ロマン”と呼ばれる語り手に指名され、一晩中囚人たちを物語で楽しませなければ殺されるというイベントの真っ只中に投げ込まれる。
 勿論、アラビアの古典『千夜一夜物語』を刑務所という場所に置き換えたものであるが、ロマンも“グリオ(griot)”と呼ばれる西アフリカの吟遊詩人の伝統にのっとったものだそうだ。囚人たちが彼の話に合わせて寸劇を演じたり、彼の語る幼馴染みの伝説的ギャングのリーダー、ザマ・キングの物語の映像を挟んだりする一方で、牢名主の跡目争いは進行している。多面的、多方向的展開の面白さは、まさに映画的テーマであると思った。
 ザマ・キングのストーリーには、神話的な賑々しい衣装を身につけた王族が登場するかと思うと、ストリート・ギャングの『仁義なき戦い』的なリアリズムに飛んだり、また派手な魔法を繰り広げる神話の世界に戻ったりと、自由自在な動きが楽しい。ギャグ団の名前“ミクロビス”は、ブラジルのスラムを舞台にした映画『シティ・オブ・ゴッド』(02)のギャング団から取っているとロマンが言うと、囚人たちが「その映画、見た」と言って盛り上がるところは、映画の越境性を見せていて興味深い。
 刑務所の映画といえば、牢名主が威張っていて女性的でナヨナヨした囚人が虐められたりするのが典型で、ここでもなぞっているが、ここでは牢名主は死期を悟ったとき自ら死ななければならないという習慣がある。彼が正装して厳かに刑務所構内の水槽へ歩いて行き、衣装を脱いで水の中に身を沈めると、囚人たちが追悼の歌を歌う。この牢名主は死んだら鹿となって刑務所の外の森に住むと言い、彼が水に沈むと森の中の鹿のイメージが現れる。死後、鹿になって蘇るというのは、この地方の民間伝承かもしれない。生前は権力を思う存分行使していた牢名主が死期を悟った途端に習慣に従順に従い、周囲も粛々とそれを見送る姿は独特で新鮮であった。
 フィリップ・ラコテ監督はコートジボワールの旧都アビジャン出身で、数本の短編を経て本作が長編2作目。長編処女作『Run(走る)』(2014)は、カンヌ国際映画祭の「ある視点」部門で上映されている。
 資料によれば、ラコテ監督が子供の頃、政治犯で刑務所にいた母親を訪ねると、待合室がなくて囚人たちが自由に歩き回り、彼らが話していることを聞いていた体験があるそうだ。また幼馴染みが刑務所から戻って刑務所内のロマンの習慣の話をしてくれた事がこの映画のストーリーの基になっていると言う。
 NY映画祭のオンライン・インタビューで監督はさらに、ザマ・キングは民衆に集団リンチで殺された実在のギャングで、この作品はコートジボワールの暴力の歴史も描いていると語った。アフリカの文化ではリアリズムと魔術的世界が共存可能であり、ザマ・キングのストーリーの中で繰り広げられる女王とその弟の魔術大合戦は、刑務所内の牢名主の跡目争いの2人の男の闘争と並行する。そしてジャン・ジュネの戯作『女中たち』で女中と主人の主従の関係が転覆するように、本作でも題名の『王たちの夜』は、囚人たちが一晩だけ王様になるところから来ている。さらに彼は、刑務所には様々な人物が集まるので、ある種の文化が生まれ、その文化から詩が創造される、と興味深い話を展開させた。
 主役のロマンになるスリを演じたのは、オーデイションで選ばれた新人コネ・バカリ。おどおどしたしながら次第に状況を自分のものにしていく様を要請される役柄を、見事に演じている。
 本作はアメリカでもインデペンデントの会社ネオンから配給予定である。

ジョージアの不思議な無機質さ

 南コーカサスのジョージアからは、34歳の新人女性監督デア・クルムベガシュヴィリの『始まり(Beginning)』が出品された。地方での布教に身を捧げる若い夫婦の教会が何者かによって放火されるが、警察は犯人を逮捕する気がない。敵意を持つ周囲の環境に、この夫婦がどのように対してゆくかを見せる映画かと思ったが、次第に映画は妻ヤナ(イア・スヒタシュヴィリ)の内面に集中して行く。
 この地方を去るべきではないかというヤナに、夫はここで頑張れば組織内の出世につながる、今は教会を再建することが重要で、ひとまず長老たちに会いに行くので同行するようにとヤナに求める。夫の度重なる同行への要求に、ヤナは頑に同意しない。この会話で、夫はヤナが結婚前はたいしたことのない俳優だったと言って、彼女の人格を軽視するが、彼女のほうは、夫の大切な仕事に協力しないことを貫くことで、この夫婦の間の心理的緊張感を漂わせる。
 夫の留守中に来た刑事と名乗る男は、夫が出した被害届を取り消すようにヤナに言い放ち、性的なきわどい質問を重ねて彼女を陵辱する。しかし数人の子供たちを教えているシーンや、教会の活動を仲間と行う彼女の日常の描写には、どこか無機質的で冷たい雰囲気によって、彼女が夫や教団との生活に満たされないものを抱えているのを感じとれる。
 また夜に扉を叩く音がして、しばらくしてヤナは一人で外に出ていく。夜のとばりに身を漂わせ、草叢で刑事に暴行される場面は遠景、長回しで感情移入なく撮られる。起こっていることは劇的なのだが、このシーンには感情を盛り上げるような音楽がなく、突き放されたような時間の経過のみが展開する。
 息子を連れて森に出かけ、落ち葉に覆われた地面に仰向けになって身を横たえ、目を閉じるヤナの姿も、彼女の孤独感が高まっていく不思議な感覚の映像である。ここでも音楽が排除され、鳥の声、木々の葉の風にざわめく音など環境音だけで処理されている。
 夫が旅から戻り、ヤナを詰問して妻の受難を知るが、彼女に対する心遣いはない。警察への被害届を取りやめ、彼らは首都のトビリシに転勤となる。教会の再建祝いの席でも、ヤナに高揚感は感じられない。
 教会が放火される直前に、子供も含めて30人ぐらいの信者たちに夫が話しているのは、聖書のアブラハムの話である。彼は、息子を生贄として神に捧げようと、まさにナイフを空中にあげる動作をし、その時に何が起こったのか信者たちに問う。それに対し「神がアブラハムに語りかけた」「それはエホバを通じて」と信者たちが答える。神に対する信仰のためには辛苦に耐えることを夫は実践しようとしているように見えるが、その夫の動機に教団内の出世という世俗的自己利益を見た時に妻は、夫にも信仰にも疑いを持ったのではないか。それが意識されているかどうかはわからないが、彼女の揺れ動く不安な心情がこの映画のテーマに思える。
 NY映画祭のオンライン・インタビューでクルムベガシュヴィリ監督は、本作は女性とその人生を描くことが目的であり、映画は、文字表現では得られない何か、人生の影のようなものの積み重ねを表現できるのではないかと、思いを語った。
クルムベガシュヴィリ監督はロシアで生まれ、ジョージアで育った。名前から見るとジョージア系のようだ。NYのニュー・スクール大学でメデイア学を、コロンビア大学のフィルム・スクールでは映画製作を学んだ。短編『Invisible Spaces (見えない空間)』が2014年にカンヌの新人賞にノミネートされている。これからも楽しみな女性監督である。

犬への愛情

 『トリュフ・ハンター(The Truffle Hunters)』(イタリア・アメリカ・ギリシャ製作)は、北イタリアのピエモンテ地方の森で昔ながらの手法で犬を使って超高級キノコのトリュフを採集する老人たちのドキュメンタリーである。白地に黒縁の混じったポーンターや、見るからに精悍そうで猟犬らしい黒い犬ばかりでなく、一見愛玩用のようなムク犬もいる。この犬種はロマーニョ・ウオーター・ドッグというトリフュ採取犬である。彼らには、森の中の地面を少し掘ったところにある岩のようなベージュ色のキノコを嗅ぎ出す特技がある。犬たちは飼い主たちの重要な仕事のパートナーであるだけでなく、家族でもある。
 本作では4名のハンターと、仲買人、コンクールやレストランでトリュフを吟味する紳士が紹介される。老齢のハンターによって秘密裏に行われて来た伝統が、ハンターの引退や死とともに消え去ってしまう。そのため犬を譲って欲しいとか狩の場所を教えて欲しいとハンターのもとに仲買人が持ちかけてくるが、ハンターは応じない。
 伝統が頑なに守られていると感じたのは、キノコの仲買の値段の交渉が夜に野外で行われることだ。ここでは仲買人の父もハンターたちと馴染みで、小さなコミュニテイで採集からレストランに届くまでのやり方が脈々と何世紀も続いているようだ。しかし最近は気温が高くなって土が乾燥してしまい、質の高いキノコが採れないなど地球温暖化の影響がこの地にも及んでいる。
 映画の中でインタビューされるハンター4名のうち唯一結婚しているカルロ爺さんは、怪我をして奥さんに怒られている。「足元が危ないから、夜キノコ狩りに行っては駄目だと言ったでしょう。」「でも、しーんと静まり返った夜の森がいいんだ。フクロウの声がきれいだ」「フクロウの声は家の中で聞きなさい。森の自然は昼間楽しみなさい」「……」  きっと、カルロ爺さんは懲りずにまた夜出かけるに違いない。
 食事を一緒にしながら、ムク犬に延々と話を続ける老人もいる。「お前を売ってくれと言って来た奴に、自分の子供を連れてくるように言ったんだよ。子供は連れて来なかったが、金額を書いていない小切手を持って来て、わしに金額を書き込むように言うんだ。そこで言ってやった。お前も自分の子供をそうやって売るのかってね
 柿の木の手入れをしているハンターも、自分は森の中で自然を楽しんでいるのだが、最近は商業主義で高いキノコを手に入れて金儲けをしようとする不埒な輩が多いと嘆く。トリュフは選ばれた高級レストランだけで賞味される珍味だけに競争も激しく、仕掛けられた毒入りの罠を食べて死んでしまう犬もいる。そのためこのハンターは、特別に誂えた口輪を犬に付けざるを得なくなる。映画の終わりで彼は、このような世知辛い時代ではやっていけないと引退を宣言する。
 秘密の伝統を守る頑固な老人たちと犬の交流が、とても微笑ましい。彼らがいつまでこの伝統を守っていけるのかという不安もあるが、森の落ち葉や木々の美しさとともに、心に残る映画だった。共同監督のマイケル・ドウェックはNY生まれで、物語性のある写真で著名なヴィジュアル・アーティストであり、かたやグレゴリー・カーショウは劇映画やドキュメンタリーの監督、撮影、製作をしていて、活動の場はアメリカのようだ。本作は2020年初頭のサンダンス映画祭で話題となった。一般に食べ物や動物を扱う映画は人気であるが、本作にはその両方がある。しかも「今まで見たことも聞いたことのない世界」(『LAタイムス』)という特殊性が鍵だが、「古代の知識とそれを支える贅沢なマーケットの世界を垣間見ることができる魅惑的的な作品」(『ハリウッド・レポーター』)というように、秘儀的に伝えられているきのこ狩りの様相の神秘性と、庶民には手が届かないグルメの閉鎖的世界の舞台裏を見せる面白さ、そして「ゴージャスでユニークで楽しくて、詩的なヴィジュアル」(前出)というように、秘儀の伝統を支える老人たちの人間性とユーモアを魅力に描いている。サンダンス映画祭では、独立系大手のソニー・ピクチャーズ・クラシックスが150万ドルで世界配給権を買ってニュースとなった。アメリカでは年末に劇場公開の予定である。

南チロルの不安

 何本か見た短編で印象深かったのは、18分という短さの中で歴史を考えさせられたリカルド・ジアッコーニの『エクフラシス(Ekphrasis)』である。題名はギリシャ語を源にする“言葉による芸術作品の詳細な叙述”と言う意味で、本作では北イタリアに位置するドイツ語圏の南チロル地方のファシズムの歴史が次第に浮かび上がってくる構造となっている。
 山肌に描かれたスワスチカ(かぎ十字)や十字架が現れて、いつのことかとぎょっとすると女性の声のナレーションで過去のことだとわかる。その後、ちょっと古ぼけた感じのイメージが1分間ずつ画面に現れる。イメージとイメージの間は画面が暗くなって映写機の音がする。クレーンに鎖で繋がれた死体。地面に座る顎がない骸骨と不吉なイメージが、チロル風民族衣装で三つ編みをした金髪の少女たちや鷲の意匠の旗と重なり、ナチス時代を喚起させる。
 「Alexander Walcher Sau」という壁の落書きのイメージに解説はなかった。誰だろうと思いインターネットで調べたら、アレクサンダー・ワルヒャーは1995年に自殺した南チロルのインテリ、「sau」はドイツ語で雌豚なので、彼を貶めた落書きのようだ。意味がわからなくても、そこはかとない恐怖を呼び起こさせるイメージである。
 私は1990年代半ばに学会で北イタリアのトレントに行ったが、ゴツゴツとした岩肌の山の向こうはオーストリアと聞いたので、この辺りの地方のことだと思い至った。じわじわとした不安感を生じさせる見事な短編であった。