(39)東欧すごいぞ、NY映画祭
[2019/11/1]

 秋になると、NY映画祭の季節である。今年(2019)もまずは、東欧の映画を探して見た。そしてルーマニアの中堅監督が相変わらず頑張っている個性的作品を堪能し、若手作家の驚愕のロシア映画を見た。

口笛語?

 現在のルーマニア映画を代表する作家の一人、コーネリウス・ポルムボイウ(1975年生)については、このコラムでこれまでも度々語ってきた(11, 13, 21)。彼の新作 『The Whistlers/La Gomera (口笛を吹く人)』(詳細はこちら)は奇想天外で痛快な警察物である。主演の中年の麻薬担当刑事クリスティを演ずるのは、海外でも上映されている数々のルーマニア映画でおなじみのヴラド・イヴァノフ(1969年生)。2009年のポルムボイウ監督の若い良心的な警官の悩みを描いた『Police, Adjective/Politist, adjective(警察、形容詞)』でイヴァノフは官僚的な上司の役をしていたが、本作にはその深刻な調子がなくて、独特なリズムを持つ喜劇となっている。
 映画は船でカナリア諸島に到着するクリスティの姿から始まる。麻薬担当刑事の彼は麻薬組織から密かに金を受け取って、警察の情報を流している。しかし警察の上司に疑われていて、彼には尾行がつき、自宅には隠しカメラが取り付けられているのを、彼自身も知っている。
 彼がカナリア諸島にきたのは、ルーマニアの首都ブカレストのマットレス工場主が、麻薬をマットレスに隠して密輸していることを、内部告発されて逮捕され、工場主のガール・フレンドのギルダ(カトリネル・マルロン)という美女がクリスティに接近して来たことから始まった。彼女は「話がしたいから、隠しカメラの前では売春婦として振る舞って、貴方の部屋に行く口実を作り、カメラが及ばないところで話そうというのだ。そしてスペイン領カナリア諸島のラ・ゴメラ島(本作のルーマニア原題 は「ラ・ゴメラ」)に行って、その地で古くから使われている口笛で会話をする方法を学んで来て欲しいという、とてつもない依頼をする。それは鳥の声と思われて盗聴の危険もないし、仲間内での秘密の会話を当局に知られずに出来るという理由である。
 カナリア諸島ではギルダが豪邸で彼を迎える。土地の男が登場して、指を舌の下に入れて唇を内側に巻くような感じで音を出す「口笛語」の訓練にクリスティは入る。
 クリスティは、才能があると言われて口笛語の進歩も意外に早い。さすがに嫌気がさしたのか途中で脱出を図るが、あっけなく捕まって痛めつけられ、今度は廃屋のような場所に連れていかれて、別の口笛教師がやって来る。特訓の結果、クリスティは山に向かって吹く口笛語の卒業試験にも無事合格。ブカレストに戻って、工場主を警察から逃がす手立てをするが、彼の警察の上司の女性マグダを買収する必要が出て来る。マグダの要請で、映画のオープン・セットのスタジオに、クリスティたちは彼女のための金を埋めることになる。
 その間、クリスティが麻薬組織の人間と密会するモーテルが「オペラ」という名前で、クラッシック・オペラのレコードが常にかかっているとか、彼の母の家の地下室に隠した大金を母が見つけて教会に寄付してしまうとか、とぼけた展開が笑いを呼ぶ。ギルダがいるはずのモーテルの部屋に忍び込んだホテルのマネージャーがナイフをかざしながらシャワー・カーテンに向かうというのは、明らかにアルフレット・ヒッチコック監督のスリラー『サイコ』(60)からの引用である。クリスティが上司のマグダと秘密の交渉をするのがシネマテークで、ジョン・ウエインの西部劇『捜索者』(ジョン・フォード監督、56)が画面では展開中で、口笛語のような鳥の声が聞こえて来るなど、映画ファンにとってもたまらない場面の連続で、観客から笑いが起きた。
 そもそもギルダという名前はリタ・ヘイワース演ずる1946年のチャールズ・ヴィダー監督のフィルム・ノワールの映画題名でもあるファム・ファタール(主人公を迷わす危険な美女)『ギルダ(Gilda)』から来ているのは明白で、クリスティは危険なギルダに悩殺されてしまい、危険にはまっていく。映画好きのプロムボイウ監督のお遊び精神に満ちた作品である。
 カナリア諸島でも、廃屋にクリスティが連行される緊張に満ちた場面に、突然英語を話す若者がどこからともなく現れて、この建物のヴィジュアルが素晴らしいので映画のロケに使わせて欲しい、そのためもう少し中を見たいと頼むので、あっけにとられたギャングたちの顔を見て観客は笑ってしまった。次の場面は建物の外観、中で銃声がするので、ああ、あのかわいそうなロケーション・ハンティングの若者は殺されてしまったのだと観客は納得してまた笑ってしまった。現にカナリア諸島ではハリウッド映画のロケが行われるそうだ。殺しの場面を見せずに状況と音だけで観る者に想像させるのはよく使われる手法でもあるが、ポルムボイウの乾いたユーモアはユニークだ。
 本作の英語題名Whistler からは、内部告発者を意味する Whistleblowerという言葉が連想される。しかし、クリスティは実は正義感に溢れていて内部告発者になるという兆しも見られない。警察がどうしようもなく腐敗して、金のためなら敵側にも通じることは日本のヤクザ映画にも出て来るので、麻薬のような大金が絡めば万国共通の事態となることが推測される。しかしこのルーマニア映画の個性は、その独自な歴史にも言及していることだ。共産党のお偉方であったが決して賄賂を受け取らなかったと母が主張するクリスティの父の話も出て来て、ルーマニアの共産党時代のこともさりげなく登場する。
 ジム・ジャームッシュ監督の『ストレンジャー・ザン・パラダイス』(84)や永瀬正敏主演、フレドリック・トール・フレドリクソン監督のアイスランド映画『コールド・フィーバー』(95) に関わったアメリカ人製作者のジム・スタークが、アソシエート・プロデューサーとしてクレジットに出て来たのは嬉しい発見であったが、それらの作品にも共通するそこはかとないユーモア感覚が本作の魅力である。
 本作は私の周囲の批評家や映画関係者の間でも皆「面白かった」と言っていて、好評であった。

レニングラードの戦後

 そして、恐るべきロシア映画を見た。
 第二次世界大戦後間もないレニングラードが舞台の『豆の木(Beanspole/Dylda)』(詳細はこちら)である。監督のカンテミル・バラゴフは1991年生まれなのでまだ20代、北コーカサスのカバルディノ・バルカリア共和国の首都ナリチクの出身で、子供の頃から友人とビデオを作っていた。ロシアの監督アレクサンドル・ソクーロフのことを知って彼に手紙を書き、地元の大学のソクーロフの映画ワークショップに参加させてもらい、映画専攻で大学を卒業した。
 その後、短編がロカルノ映画祭で上映され、地元の北コーカサスを舞台にした初の長編『親しさ(Closeness/Tesnota)』(17)がカンヌ映画祭の「ある視点」部門で国際批評家賞を受賞、『豆の木』はやはりカンヌ映画祭の「ある視点」部門で監督賞と再び国際批評家賞を受賞している。
 本作の脚本はバラゴフとアレクサンドル・テレショフの共同、2015年のノーベル文学賞を受賞したベルラーシの作家・ジャーナリスト、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチが第二次世界大戦の赤軍女性兵士の体験を聞き語りの本にしたものを基にしているそうだ。
 映画は真っ暗な画面に呻り声の音声で始まる。画面が明るくなると、若い女性の顔のクローズアップで、直立不動で目の前を凝視している彼女がどうしたのか心配して声をかけてくる同僚がいる洗濯場である。程なく彼女の発作が収まるが、時々このようなことが起こっていることが周囲の女たちの会話から分かる。彼女はイヤという名前だが、突出して背が高く痩せているので“豆の木”というあだ名で呼ばれている。
 戦後間もないレニングラードの通りや路面電車の窓はくすんだ黄土色で、建物は裏ぶれていてどこか物悲しい。家に戻ったイヤは幼い男の子パシュカと二人暮らし、いや戦後の住宅難で何家族もが一つのアパートの部屋を分け合い、共同の台所で諍いが絶えず、ぎゅうぎゅう詰めの生活をしている。彼女のいかにも質の悪そうな生地の服や、手編みのような素朴なセーターや帽子の衣装からも時代が感じられる。美術のセルゲイ・イヴァノフ、撮影のクセニア・セレダ、衣装のオルガ・スミノルヴァはいずれも素晴らしく、ロシア映画の技術部門の高さを感じさせる。イヤを演ずるヴィクトリア・ミロシュニチェンコ、その友人のマーシャを演じるヴァシィリサ・ペレリャゲナは、二人とも新人である。
 幼い子供を抱えたイヤの窮状に同情して、彼女の職場の病院の医師が彼女を看護婦に取り立ててくれるが、程なくイヤは発作のせいでパシュカを死なせてしまう。  そこへ訪れて来たのが彼女の戦友のマーシャで、パシュカは実はマーシャが前線で産んだ子供で、その父親は戦死してしまったことが観客に明かされる。パシュカが死んだことを知って、マーシャはイヤを誘って出かけ、途中で車を乗り回す二人の若い男に誘われる。マーシャは実に簡単に車の中で男と性交するが、イヤを誘って外に出た男はイヤに肘鉄砲を食わされて戻る。
 イヤの紹介で看護婦となったマーシャは、職場で鼻血を出して保健室で診察された時、下腹部の乱暴に縫われた帝王切開の痕を見た医師に妊娠できない身になったことを告げられる。何としても子供が欲しいマーシャは、代わりに妊娠して子供を作るようにイヤに半ば命令し、イヤはそれに従う。相手はマーシャが弱みを握った中年の上司のやもめの医師である。医師は時々見かねて重症の兵士の頼みで安楽死を施していて、医師に信頼されていたイヤがその実行を手伝っていたのだ。脅された医師は観念してイヤとベッドを共にすることに同意するが、イヤはその条件としてマーシャも参加して3人で寝ることを主張する。
 一方マーシャは偶然に再会した車での一件の彼氏、サーシャが貴重な食料を持って訪ねて来るのを拒まず、イヤの嫉妬の対象となる。この辺りで私は人心を操りおぞましい計画を実行していくマーシャがすっかり恐ろしくなり、反発しか感じなくなってしまった。
 ところが、である。サーシャに求婚され彼の両親に会うことになったマーシャが案内されたのは王宮のような大邸宅で、サーシャの母は以前病院に物資を持って慰問に来た美人の党の幹部であった。サーシャの母はいとも簡単にマーシャを拒絶して追い払おうとする。それに従わずサーシャは、マーシャを連れて母と食事中の父のところへ行くが、そこでサーシャの母とマーシャの対決となる。そのマーシャの毅然とした意気に私は彼女を見直してしまった。
 前線の兵士であったなら男性の兵士と関係を持っただろうというサーシャの母の言葉に、マーシャは鼻血を出してしまう。しかし、前線で女性兵士の相手は一人ではあり得ず何人とも関係を持ったと言い返し、次第に二人の女性の心理的位置が逆転して行くのが見事である。中絶を繰り返したために不妊症になってしまったことを堂々と告げ、前線で女性兵士は皆将校と関係を持ちたがったが、私は違っていた、私が狙ったのは物資所轄部門の責任者で、そうしなければ食べ物が確保できなかったし、危険な場所に送られてしまったから生き残ることができなかった、とマーシャは続ける。
 そして広々とした邸宅の豪華なテーブルに座し、美しく化粧を施し高級で趣味の良い服に身を包んだ優雅なサーシャの母親に向かって「貴方なら到底生き残れなかったでしょうね」と言い放つ。すると母親は、こう見えても私たちも人に言えない苦労をして来たと反論するが、この二人の心理戦の優劣は覆せない。
 帰路に向かう路面電車の窓から見えるマーシャの顔は微笑んでいる。突然電車が止まり、身投げをした女性がいたことが乗客たちに伝えられる。胸騒ぎを抑えながら事故現場に足を急がすマーシャであるが、死体の顔は見えない。家に戻ると旅の準備をしているイヤがいる。マーシャはイヤと固い抱擁を交わすところで映画は終わる。
 イヤの発作も彼女の耳の下に見える傷の説明もされないが、多分戦争の後遺症であろう。後遺症はマーシャの鼻血や帝王切開の痕のように肉体に表れるものばかりでなく、二人の女性の精神にもいかに深い傷を負わせているのかを、この映画はひしひしと観る者に感じさせるのだ。
 そして戦争での女性の置かれた立場をまざまざと考えさせる。私はこの映画に心の中をえぐられるような気分になった。自国の女性を性的搾取の対象とするのは、占領地や植民地の女性を組織的に性的に搾取するのとは意味合いが違うが、それでもマーシャに言によれば男の兵士に頼らなければ生存できなかったので、女性兵士は男の兵士の性的搾取の対象になるほか選択がなかったという。アメリカでも訓練中や前線で男性兵士や上司に暴行されたという女性兵士についてのドキュメンタリー『The Invisible War 』(カービー・ディック監督、12)がアカデミー賞長編ドキュメンタリー部門にノミネートされていた。
 イヤが前線でどのような行動をとっていたのか説明されない。しかしその体験から彼女は男性恐怖症になりマーシャに依存するようになったのかもしれない。戦争が女性にどのような影響を与えるのか深く考えされる作品で、日本ではなぜ若い世代の監督が自分の国の歴史に切り込む映画を作らないのかとずっと私は本作を見ながら考え続けていた。
 一般上映の後行われたバラゴフ監督との討論をNY映画祭のウェブサイトで見ることが出来た。それによると、監督はアレクシエーヴィッチの本に感銘を受けたとともに、自分と同世代の若者を描く映画を作りたかったそうだ。司会者が、本作のペースがゆったりしているのは理由があるのか尋ねると、(戦争直後で)登場人物が皆疲れているからとの答えだった。主役2人は両方とも新人であるが、どのように発見したのか問われて、最初のオーデイションで2人共に選んだそうだ。それで卓越して背の高い女優を選んだために題名も変えたのかと聞かれて、ロシア語の原題には背が高いだけでなく「不器用」という意味もあり、むしろこの要素が大きいと述べた。
 観客からの質問で、衣装の色の中で赤と緑が目立ったがその意味はと問われ、イヤやマーシャが着る赤は欲望、またマーシャがサーシャの両親に会いに行く時に知り合いの仕立屋に借りて着るドレスの緑は希望を表象しているということだった。裸の場面については、監督はそこに欲望がないことを強調したかったと言う。またイヤとマーシャの関係についての質問は今までもよく聞かれたが、簡単な言葉で定義するよりも2人の人間性を描きかかったそうだ。次の作品は男性が主役になるとのことである。
 尚、上記両作ともアメリカでの劇場公開が決まっている。