(38)10周年を迎えた〈シネマ・(ポスト)・ユーゴ〉
[20119/8/3]

 第一次世界大戦後に東欧ではチェコスロヴァキア、リアリトアニアなどの国が続々と独立した。バルカンでもユーゴスラビア王国が誕生して、日本と外交関係を樹立して今年は100周年であった。その記念すべき年に我々のシネマ・(ポスト)・ユーゴも10周年を迎えた。旧ユーゴやその後セルビア、スロヴェニアなどに留学してその地域や歴史に携わる日本の研究者や、日本在住の旧ユーゴ地域関係者の有志で、旧ユーゴ地区の映画(字幕付きDVD)を大学キャンパスで、紹介し討論する〈シネマ・(ポスト)・ユーゴ〉は、今年も3作品が3大学で開催された。

アジア女性のバルカンへの旅

 昨年〈シネマ・ユーゴ〉で上映した『どこでもない、ここしか、ない』(本コラム(34)を参照)の監督で、大阪に住む中国系マレーシア人のリム・カーワイ(林家威)は、バルカンの旅を続け、新作『いつか、どこかで (Somewhen Somehwere)』(2019)を城西大学で上映した。主演はマカオ出身の若い女性アデラで、クロアチアから始まり、セルビア、モンテネグロとアデラへの旅が続く。
 2年前に恋人を交通事故で失い、その遺品の壊れたスマホを彼女はザブレブのMuseum of Broken Relationship*1に寄贈したが、それを見に行く。その後、公園でサッカー選手の日本人家族と出会い、彼らに薦められた海辺の街リエカへ行く。リエカはほんの1シーンである。そこからベオグラードへの最終バスに乗り遅れ、ブラブラ・カーという乗合の白タクシーで深夜、ベオグラードへ向かう。運転手ペタールは離婚して娘にあまり会えないことで悩んでいる。翌朝到着したベオグラードで、アデラはペタールと一緒に彼の娘の住む家を訪れ、父娘の会話がセルビア語で分からないながらも、耳を傾ける。
 アデラはインスタグラムで知り合ったアレックスとベオグラードで会うことになっているが、彼は約束の場所に現れない。彼女はホステルでチュニジアのラッパーやロンドンから来たポーランド系女性と出会う。パーティーの帰りに夜の川べりで恋人と別れたカタリナと出会い、一緒に彼女の母の住むモンテネグロへ行く。カタリナはロシアで生まれ、移り住んだボスニアで戦乱となり、父は死亡、母は病気である。1999年のボスニア戦争の思い出を話すカタリナに、アデラは同じ年マカオが中国に返還された時、9歳だった思い出を話す。アデラとカタリナは、風光明媚なモンテネグロで夜を共にする。
 ベオグラードに戻ったアデラは、アレックスとの待ち合わせ場所に現れた若い女性に驚く。アレックスは入院中だったのだ。彼は、NATOの爆撃で両親を失ったその若い女性を養女として育てたが、ドイツに留学する彼女とコミュニケーションを保つためにインターネットを修得したのであった。クルカという観光名所の滝で泳ぐアデルの姿で映画は終わる。
 上映後、城西国際大学の柴宜弘教授が、リム監督に、なぜこの映画を作ったのかと聞いた。リム監督はバックパック旅行が好きで、3年前に訪ねたバルカンが気に入り、一昨年のマケドニア、クロアチア、スロヴェニアへの旅で作った前作に引き続き、昨年の旅で本作を作ったと語った。彼の映画制作はインデペンデントなのでクルーは最小限で、今回はカメラマン、録音は現地の人である。出会った人たちに出演を頼んだが、彼らのエピソードはそれぞれフィクションである。例えば、ペタールはカメラマンの友人で、娘役は街で見かけた女性をスカウトし、この二人には血の繋がりはない。実際のカタリナはレスビアンではなく、クロアチアの日本人サッカー選手家族というのも、実はモンテネグロ在住の日本人サッカー選手家族である。ただし、ベオグラードのホステルの客は全部そこに実際に泊まっていた人であるとのことであった。
 出演料を払ったのかという観客からの質問に、リム監督はアレックス役の男性は街で出会ったホームレスなので、彼にだけお金を支払ったと答えた。
 私は、アデラと彼女が出会う人々の身体的距離感が近くて一種の緊張状態を生み出していることを指摘した。ペタールとアデルはベオグラードへ行く途中に車内の隣同士で眠ることにして、しかも電気まで消している。疲れてホステスに戻ったアデラはリビング・ルームでラッパーの肩にもたれかかって寝てしまう。遊園地でアデラの跡をつけてくる男が居る。しかしいずれの場合も観客にスリルを抱かせるだけで、肩透かしを喰らわせるのである。ペタールともラッパーとも何も性的なことが起こらず、心を通わせるだけである。遊園地の男は映画の中国人エキストラを探していただけであり、しかもアデラを連れて行くと監督は中国人ではなくアフリカ人を探していると言うので、まさにそれから何も起こらないのだ。
 ずっと現れないアレックスに、私は二人の登場人物がずっとゴドーという人物を待ち続けるサミュエル・ベケット作の戯曲『ゴドーを待ちながら』を連想したのだが、リム監督は登場人物がすれ違いで会えないという映画のジャンルを意識したそうだ。いずれにしてもアデラが出会う人たちを通じて、死や別れの記憶をさりげなく観客に提示していると、私には思えた。

パルチザン映画万歳!

 東京大学文学部の「旧ソ連・東欧の映像と文学」のコースの一環として上映されたのが、『ヴァルテルがサラエヴォを守る(Valter brani Sarajevo)』(ハイルディン・クルヴァヴァツ監督、1972)である。第二次世界大戦後の旧ユーゴでは、パルチザンによる対独レジスタンスの戦いをテーマにした「パルチザン映画」が数多く作られていた。圧倒的に優勢な独軍の侵略に対し、ユーゴのパルチザンは勇敢に立ち向かい、勝利を導いた、ユーゴ人の誇りの歴史の映画化である。本作はその中でも最も有名なものの一つで、パルチザンの英雄を演ずる俳優として国民的人気を誇っていたバタ・ジヴォイノヴィッチを主演とする、アクションとスリルに満ちた作品である。
 映画の舞台は1944年の独軍占領下のサラエヴォである。劣勢になりつつある独軍は、巻き返しのために、鉄道を使って武器や燃料を前線に輸送する計画を立てる。現地の対独レジスタンス運動の執拗な抵抗に遭って、苦戦している独軍は、その首謀者ヴァルテルを捕らえようとしているが、その消息は謎である。独軍はレジスタンス側にスパイを送り込み、何とかヴァルテルを見つけ出そうとする。それに対するレジスタンス側は、その試みを砕くために、一つ一つ反撃に出て、最終的に勝利を収める。映画を通じて、登場人物が敵味方のどちら側についているのか分からない状態が続き、ヴァルテルの正体も次第に明らかになるというサスペンス仕立てになっている。
 上映後、私の司会で、東京大学講師の山崎信一氏が本作についての詳細な解説をした。山崎氏は映画の中で描かれている歴史的背景を明らかにし、この映画の人気がその後のユーゴ、および旧ユーゴ地域の文化に及ぼした影響にまで言及した。
 映画で描かれていることは当時のユーゴでは誰もが知っている話で、実際のヴァルテル(本名ヴラヂミール・ぺリッチ、1919−1945)はサラエヴォ防衛戦中に25歳で死亡し、その記念碑がサラエヴォに建てられている。サラエヴォにはヴァルテル博物館も建立された。また、ベオグラードにはヴァルテルの名を冠したチェヴァプチッチ(肉団子)屋チェーン店が流行っていて、ヴァルテルのレガシーは現在にも及んでいる。
 ヴァルテルを演じたジヴォイノヴィッチの他、レジスタンス側の主要人物の写真屋のジズを演じたリュビシャ・サマルジッチ、実在のレジスタンス運動家で本作では時計屋として登場するシアド・カペタノヴィチを演じるラデ・マルコヴィチの3人の俳優は当時人気が高く、この3人は悪役を演じないはずなので、観客は彼らが登場すると敵方スパイでないことがわかっていた。またシアドはムスリム であるが、ヴァルテル、ジズといったコード名の人種が分からないようになっているのは、多民族のサラエヴォやユーゴで民族を超えて人々が対独レジスタンスに参加したことを強調するものである。
 本作の中では一般市民がレジスタンスに参加したことが重要な点であり、最後にサラエヴォの街を見下ろすドイツ将校が、「これがヴァルテルだ(Was Ist Varter)」と言うのは有名なセリフとなった。つまり、レジスタンスが個人的奮闘ではなく、サラエヴォの街全体が協力して戦ったということを、ドイツ人も認めざるを得なかったのである。後に、「Was Ist Varter」というポップ音楽のレコードがユーゴで出たが、その中で「弱いドイツ兵の役をやって殺されるのはゴメンだ」という歌も入っている。本作は何度も劇場でリヴァイバル上映され、テレビ放映も繰り返しされるので、国民的映画となっている。この映画の中でヴァルテルがドイツ兵を何人殺すか数えたりする人までも出てきた。正解は47人だそうだが、高倉健や鶴田浩二演ずる日本のヤクザ映画のヒーローや、阪東妻三郎などのチャンバラ映画のヒーローは、もっと多くの敵を殺しているだろう。ヒーロー映画では、ヒーローは超人的活躍をすることが強調されるのである。
 また思想的には、敵よりも敵との協力者を決して許さないという主張があることを山崎氏は強調した。本作では敵側のスパイの1人は敵に見捨てられて殺され、もう1人はドイツ将校の格好をしているヴァルテルに独軍協力者の名前をペラペラ喋って銃殺になる。
 観客からは、ドイツ兵を演じる俳優のドイツ語は本物のドイツ人の発音であるかという質問があった。山崎氏は、それまでの映画では、ユーゴ人がドイツ兵の役をしていたことが多かったが、本作ではドイツ兵は東ドイツの俳優が演じてリアリティを増していることを指摘した。また映画の中で繰り返されるマーチ風の音楽についての質問に、山崎氏は、本作は007シリーズ的な陽気なアクション映画で、音楽を担当したボヤン・アダミッチも数々の映画音楽に関わった重要な作曲家である。また、実際の主要なパルチザン戦は山の中で行われたが、本作は都市を舞台にしていることが特徴であることを指摘した。私も、ユーゴのパルチザン映画では前線の兵士の苦労を描くものが多いが、本作は誰が敵で誰が味方かわからないサスペンス的要素が強調されていることを付け加えた。山崎氏はさらに、ユーゴのパルチザン映画では常にヒーローであったヴォイノヴィッチが独軍の制服を着ての登場したことに、当時の人々はかなりショックを受けたのではないかと述べた。
 パルチザン側の勝利の歴史を知っている観客の我々は、いわば安心してこの映画を見ていられる。基本的にはパルチザン側は正義の味方で、ナチス・ドイツが悪の権化と表現され、パルチザンは勇敢だが独軍は卑怯であると全てが対極的に描かれる。例えば、仲間を助けるために自分の命も厭わないシアドらのパルチザンに対して、独軍は、赤十字のマークをつけた列車から怪我をした自国の兵士たちをも放り出して武器を運ぶという卑劣さである。これは怪我人もすべて置いてきぼりにせず、「誰も後に残していかない」というパルチザンの標語ともなった人道的政策に対比されるものである。独軍側にも怪我人の保護を訴える人間的な将校がいるが、冷酷な将校に押し切られる。この武器と燃料の輸送を阻止するため、パルチザン側の列車をめぐるアクションシーンの連続が、この映画の見せ場の一つである。一方、この作戦を指揮した独軍将校は、最後に大失敗の責任を独軍側に取らされ、見事な勧善懲悪の結末を迎える。
 映像的迫力を見せる場面をいくつか紹介したい。独軍の待ち伏せに遭い殺された若者たちの死体が広がるところに、翌朝、その親族や市民たちが集まって来る。死体を引き取りに行けば独軍に射殺されるという状況で、親族たちは苦悩の表情を見せるが、シアドは意を決し、娘の死体を取りにゆく。するとそこに集まっている市民全員が死体に向かって進んで行く。はじめ、横から市民たちの歩みを捉えていたカメラが切り替わり、上からの鳥瞰的視点となる。この市民たちの迫力に押されて、銃を構えた独軍兵士たちは、発砲を止めるように将校から命令されるのである。また、独軍を待ち伏せしているヴァルターを援護するため、シアドは時計屋の助手に自分の代わりになるべく、後のことを頼み、死を覚悟して待ち合わせ場所のモスクに向かう。銃撃戦が始まり、シアドが倒れる姿が横から捉えられた後、カメラは上に移動してその姿が鳥瞰的に捉えられると、モスクの塔から鳩の一群がバーっと飛び立つ場面も印象深い。
 パルチザン戦に一般市民のほか若者も参加していたことも描かれるが、子供や十代の若者も勇敢に抵抗運動に参加していたことは、ユーゴだけではなくアルバニア、ブルガリア、ルーマニア映画でも、私は見たことがある。本作には当時16歳のエミール・クストリッツア監督がパルチザンの若者役で出演していて、台詞も一言あるのでクレジットの最後に出演者として名前が出てくる。)  

1世紀前のバルカン女性のアジアへの旅

 『いつか、どこかで』はアジア女性が現在のバルカンの旅をするものであるが、1920年代にアジアをはじめオーストラリア、ニュージーランド、アフリカ、北中南米と広く旅をしたバルカンのスロヴェニア出身の女性をテーマにしたドキュメンタリーが『アルマ・M. カルリン 孤独な女性の旅(Alma M. Karlin: Samotno potovanje)』(マルタ・フレリフ監督、2009)である。アルマ・M・カルリン(1831−1950)はオーストリア・ハンガリア帝国(現在のスロヴェニア)に生まれた。その地は第一次世界大戦後はユーゴスラビア王国となったので、1920年代に彼女はユーゴスラビアのパスポートを持って世界を旅し、日本にも1年滞在した。旅行記を欧州の新聞や雑誌に寄稿し、アフリカ、南米、アジア、オセアニア各地の地勢、植物、人々の生活、文化などを紹介した。彼女の作家としての功績を、専門家のインタビューやアーカイブ映像、再現ドラマによって語った作品である。
 学習院大学講師のイェリサヴァ・ドヴォルシェク=セスナ氏とリュブリャナ大学のアンドレイ・べケッシュ教授が、その著作をドイツ語で執筆していたカルリンの特殊な立場を説明した。第二次世界大戦ではスロヴェニアを占領したナチスに協力せず、監獄に入れられたカルリンは、ドイツ語で執筆していたことで戦後ユーゴスラヴィアでも受け入れられなかった。1970年代になってスロヴェニア語に旅行記が翻訳されて、ようやくスロヴェニアでもこの女性旅行者のパイオニアのことが知られるようになった。
 上映後のスカイプによるフレリフ監督との討論では、セスナ氏からまず、この映画を作るきっかけを質問した。フレリフ監督は、スロヴェニアの知られざる、しかし歴史を変えた勇敢な女性の芸術家について12年間調査していてカルリンの仕事を見つけたそうだ。小国スロヴェニアから世界を旅行したカルリンの文化的アイデンティティについて、観客からの質問に、監督はカルリンの父親はオーストリー=ハンガリー帝国の軍人で、帝国への帰属感が強かったと思われ、母親は教師で、インテリ家庭の中で育った彼女は、まずロンドンで外国語を学んで様々な外国文化に触れたと言う。彼女は基本的に外国文化についてロマンテイックな概念を持っていたが、仏教は平和主義なところが気に入ったようだと述べた。
 日本でのカルリンの活動についての質問に、スカイプの監督側発信元のリュブリャナ大学日本語学科で同席していた重盛千賀子教授が、この件について研究しているそうで、重盛教授はカルリンは1919年から20年にかけて日本に住んだのは1年足らずだが、強烈な印象を持ったようだと語った。東京の有楽町近くに住み、工場の事務に関わったり明治大学で語学を教え、ドイツ大使館でも一時働いていた。鎌倉、天の橋立、伊勢神宮、別府などに旅行したが、日本人の友人に連れて行ってもらったようだ。
 私は再現ドラマでカルリンを演じた女優について質問をした。主演女優はドイツ語が話せることが条件で、ドイツ、オーストリアの演劇界で活躍していたスロヴェニア女優ヴェロニカ・ドロルツをキャストしたそうだ。
 なぜ映画の題名が「孤独な女性の旅」となっているのかの疑問を挟んだ人もいたが、カルリンは台湾で日本人男性と婚約までしながら結婚に至らず、また晩年スエーデン女性と一緒に住んでいたものの、一生独身で過ごした。ひたすら知られざる地の人々や風土・文化について書き続けた姿が何か孤独感をまとっているのかもしれない。女性の社会進出に伴う紀行文学の伝統に興味を持った人もいた。1878年に日本への旅をして紀行文を書いた大英帝国のイザベラ・バード(1831−1904)*2に遅れること半世紀、カルリンの場合はオーストリー=ハンガリー帝国内のエリートとはいえ少数民族に属した不満やコンプレックスがより広い世界への渇望となったのかもしれない。 

*1クロアチアのザグレブに実在する失恋をテーマとした博物館。失われた恋人の所持品を、簡単な説明とともに展示している。
*2著作には『日本奥地紀行』(1856)などがある。