(37)バルカン映画4作
[2019/4/27]

セルビアの良心

 今年もNYでは新人監督を紹介する「New Directors/New Films 」特集の季節となった。毎年春にリンカーン・センターとニューヨーク近代美術館(MoMA)が共催する今年(2019)で48回目となる伝統ある企画である。この特集からシャンタル・アカーマン、スパイク・リー、ペドロ・アルマドヴァルなどその後の世界の映画を代表する監督たちが、また日本からは森田芳光監督(『家族ゲーム』)、周防正行(『Shall We ダンス?』)、高嶺剛(『ウンタマギルー』)、濱口竜介(『ハッピーアワー』)などがデビューした。

 今年は世界29カ国から24本の長編と11本の短編が紹介された。日本からは何も選ばれなかったが、セルビアのオグニェン・グラヴォニッチ監督の『積荷』(The Load/Teret, 2018)が話題になっていたのは嬉しかった。カンヌ映画祭の監督週間に出品された本作の評判を聞いていて私も楽しみにしていたが、本監督の映画的センスと芸術作品をつくる志の高さが感じられる、素晴らしい作品であった。
 1999年コソボ紛争中に、コソボからベオグラードまで積荷の中身を知らないままトラックを運転するセルビア人の中年男ヴラダ(日本でも公開された2011年の『サラエボ、希望の街角』のレオン・ルチェフ)が主人公で、スリルに満ちたロード・ムービーとなっている。どこにも寄らずに真っしぐらにベオグラードに向かうように雇い主は厳命するが、NATO軍の爆撃の光煙が遠くの空に見える中、トラックを運転し始めて程なく爆破された橋に遭遇し、ヴラダは道順を聞くため、そのたびに車を止め、迂回を余儀なくされる。爆撃の中のベオグラードの自宅に残してきた家族も心配で、時々トラックを降りて電話をしている。しかもヒッチハイクの若者パヤ(繊細な感じのハンサムなパヴレ・チェメリキッチ)を乗せることになり、これは明らかに雇い主との約束違反なので、何か危険なことが起こってしまうのではないかと観ていてハラハラしてしまう。
 髭面、無表情で寡黙なヴラダであるが、無理やり乗って来るパヤを断れない人の良さも見せる。それは彼にも16歳の息子がいるからであることが、次第に観客にもわかってくる。19歳のパヤはバンド演奏をしていて、ドイツに向かうと言う。パヤから渡されたカセット・テープを聴いてヴラダはその演奏を褒める。二人の間には次第に温かい関係が築かれていく。
 ちょっと目を離した隙に盗まれてしまったヴラダのライターは、第二次世界大戦中の対独パルチザン戦で有名なユーゴのスチェスカの戦いを記念したもので、その戦いに参加した父から譲られたものだ。ライターを盗んだ二人の子供が、戦後ユーゴの各地に建てられていたパルチザン戦を称える巨大なモニュメントの一つの中に逃げ込んで、ライターにある文字を読む。しかし彼らにとってパルチザン戦はユーゴの遠い過去の栄光の歴史で、スチェスカの戦いと言われてもチンプンカンプンである。モニュメントもすでに無意味化しているに違いなく、アイロニーに満ちた設定である。こうして、監督の視覚的デザインには様々な意味が込められている。
 ヴラダの行く先々の風景がどんよりとした冬の雲の下の暗く寂しい灰色や黄土色を基調とした色彩で、見ていて寒々とする。監督の聴覚デザインも巧みで、トラックの後部から時おり何か音がするのだが、それが何かはっきりとわからないだけに緊迫感が生まれている。途中で一休みする田舎のレストランでは、結婚式が進行中なのだが、そんな祝いの宴でありながら、何か物悲しい。花婿はプレゼントの一つを持って外へ行く。その包み紙を開けると、中身は何かのスプレーで、仲間二人と彼はスプレーを壁に吹き付け、火を付ける風景は不気味であり、戦争中の若者は希望を持てずこうして無意味な行動しか出来ないのかと思わせる。無意味といえば、ベオグラードに積荷を届けて家に戻ったヴラダが見るのは、NATO軍の飛行機から撒かれたビラが舞う中、アパートの庭に枯れ草を積んでそれに火を付ける若者たちの姿で、彼らの娯楽がこんなことしかないことが嘆かわしいが、それだけにリアルでもある。ベオグラードの郊外でトラックを降りたパヤが道で見上げる「Just Imagine! Stop the Bombing」という大きなポスターは、亡き夫ジョン・レノンのヒット作『イマジン』の反戦メッセージを込めてヨーコ・オノが掲げたものかもしれないが、ポスターの標語ばかりが無為に風景の中に浮かんでいるのが虚しい。
 ベオグラードの指定された目的地に着いたヴラダは、待たされている間に自分が運転してきたトラックの後部から布に包まれた死体のようなものが続々と大きな穴に捨てられるのを目撃してしまう。しかしこれはほんの一瞬で、しかも窓の外は漆黒の夜の闇なので、はっきりとは見えない。
 グラノヴィッチ監督の映画の技術は、全てを見せないで観客に想像させるところにある。それだけにより恐怖が増す効果が生まれる。最初にヴラダは、道中いざという時のためにと、雇い主から1枚の書類を封筒に入れて渡される。旅の途中でパトロール中の警官に積荷を見せろと言われて、ヴラダがその封筒を渡すと警官は中の書類を読んで突然丁寧な口調になって引き下がる。権力と結びついた何かドス黒いものを想像させる書類の中身は観客に見せることはない。ヴラダもあえて見ようとしない。それは、自分がしていることをはっきり把握することを恐れているようだ。
 積荷の配達後の朝、トラックを洗うように命じられて積荷のあったところにホースで水をかけていたヴラダは、ガラスのビー玉のようなものを拾うが、それが何かは観客からはよく見えない。多分積み込まれていた人が持っていた、人の生活を象徴するものであろう。映画の最後に彼は、意を決してトラックの後部の中にカメラを持って入ってくのを遠景から捕えているが、彼が何を撮影しているのかは観客には見せない。積み込まれていた人間が残した断末魔の苦しみの跡ではないかと思われる。
 ヴラダは16歳の息子イヴァン(イヴァン・ルチェフという俳優が演じているので、レオン・ルチェフの息子の可能性がある)とあまり会話がなくて悩んでいるようだ。帰宅後アパートを出て行こうとする息子を呼び止め、外で話を始める。タバコを吸うヴラダのライターがないのに気づいた息子は、そのことを父に尋ねる。ヴラダは19歳でパルチザン戦に参加した自分の父レカと、2年年上の伯父のことを話し始める。二人の兄弟はスチェスカの激戦中に生き別れになってしまう。戦後にスチェシカの記念行事に招かれたレカは、自分の兄が胡桃の木の下に埋まっていることを確信する。兄は幸運の印として常に胡桃の実を持ち歩いていたからだ。兄の服のポケットにあった胡桃が木となって成長したのだと。そして胡桃の木の下を掘り起こすと兄の遺品が見つかったと父のレカは息子のヴラダに語った。ナチスの悪から祖国を守ったパルチザン戦の誇るべき正義の戦争の歴史が、ヴラダの家族の歴史として次の世代に語られる。そしてヴラダはそれ以上話さないものの、彼にもイヴァンにも、そして観客にも、コソボ紛争が正義のための戦いとは言えないのではないかという疑念を浮かびあがらせる。
 トラックの中でパヤからヴラダに渡され、イヤフォンで聞くカセット・テープの中の音楽は、その時観客に提示されない。ヴラダからそのテープを渡されたイヴァンが女友達とそれを聞く場面では、最初彼女が聞いているときはイヤフォンのため観客には聞こえないが、イヴァンがプレーヤーに入れて聞くと観客にも聞こえて来る。イヴァンはそれを聞いて自分もバンドをやろうと彼女に言う。もうあと一回だけと決意しているヴラダだが、この仕事を辞めることができるかどうかはわからない。しかし戦乱の中にも若い世代が、音楽を演奏するという希望を見出したところで、見ている側もホッとする。
 本作はフランス、セルビア、クロアチア、イラン、カタール合作で、グラヴォニッチのオリジナル脚本である。彼は1985年、セルビアのベオグラード北東にあるパンチェヴォ出身、ベオグラード大学で映画製作を学んだ。本作が長編処女作だが、1999年に起こったセルビア人によるコソボ人虐殺の史実を背景にしている本作と同じ題材で、短編ドキュメンタリー『Depth Two』を2016年に作り、国際的に注目された。セルビアが正式に国家として認めていないコソボで本作の撮影が出来ず、ベオグラード周辺にて30日間で撮影された。
 本作は7年がかりで準備されたが、それはセルビア政府の助成金申請が7年続けて拒否されたからで、8回目の申請でようやく助成金を受けることができた(screendaily.comの Tom Grater による2018年8月17日の監督インタビュー)。セルビア人の戦争責任についての映画なので、セルビア政府の助成機関が快く思わなかったからかもしれない。本コラム(12)で紹介したポーランドの『波紋』も、第二次世界大戦中のポーランドで、ナチスばかりでなくポーランド人もユダヤ人虐殺をしていた史実に基づく映画のため、国家映画基金からの援助を受けるのに7年以上かかったと、ウワディスワフ・パシコフスキー監督が語っていた。決して諦めない意思と忍耐力も映画監督には必要な条件の一つである。日本の若手監督も恐れずに、日本の戦争責任についての映画を作って欲しい。
 本作はアメリカの配給が決まっているので、いずれ劇場公開される見込みである。

自然と生きる

 最近また国名を巡って隣国ギリシャとの調整を続けている旧ユーゴの南部のマケドニア、「マケドニアとは我が国の一地方の名前である」というギリシャの主張で対外的には「北マケドニア共和国」という国名に現在は収まっているが、自分たちは自国を従来通り「マケドニア共和国」と呼んでいる。今回見た映画『ハニーランド(Honeyland)』は、そのマケドニアの山岳地帯の僻地の村に住むトルコ系住民の女性が題材である。この作品に音楽はなく、時折聞こえる鳥の鳴き声や雨、風の音だけで構成されている。静けさの中に、ひっそりと暮している日常生活を捕らえている。茶色の野を歩く人が米粒のような大きさで登場するところから映画は始まる。カメラの位置が遠景から近づくと、それが黄色のブラウス、茶色の長いスカート、緑のスカーフという衣裳の女性であることがわかる。次のショットで、周囲の自然と調和した色調の服装の彼女にカメラがさらに近く寄る。彼女が山の岩に被さった石のふたを開けてミツバチを育てている作業が捕らえられ、養蜂作業中の彼女は素手で、顔にマスクもしていないので、かなり熟練した養蜂者であることが想像できる。
 村の家に帰った彼女(ハティジェ)は老母と二人暮らしで、電気も水道もない生活であることは夜の闇の中のロウソクの灯や、雪を溶かして飲料水にすることから解る。へこんだアルミニウムの皿の真ん中に穴をあけて、棒に結びつけて屋外に立てることで、電波を辛うじて引き入れてトランジスター・ラジオを聞くことができる。
 自宅の近くでも彼女はミツバチを育てていて、そこでは顔にマスクをするが、相変わらず素手である。蜂蜜を集めて瓶詰めにして汽車に乗り、彼女はマケドニアの首都スコピエの市場にそれを売りに行き、そこで得た金でバナナを買って老母に食べさせる。外界から閉ざされた彼女の生活を一変させるのが、放牧の牛の群を引きつれて、キャンピング・カーで登場した子供7人の夫婦の一家である。彼らの会話を聞いて老母は「あの人たちはトルコ人だね」と言う。
 キャンピング・カーをハティジェの家の隣に停め、隣人となった彼らは、牛の世話をしながら、ハティジェに養蜂の方法を習う。子供たちは彼女になつき、彼女も孤独を癒される。しかし仲買人にそそのかされた隣人の男は、ハティジェが固く守っている「蜂蜜の半分は自分に、半分は蜂に残す」という鉄則を無視して全て収穫してしまう。そのせいで、男の蜂どころか、ハティジェの蜂まで全滅してしまう。絶望した彼女に老母は「彼らに罰が当たるように」と言うほか、何もできない。しかし、不思議なことに程なく男が連れていた牛が50頭も病気になってしまう。そして男一家は残った牛を連れてキャンピング・カーで去っていく。
 春になり、山の岩の蓋を開けたハティジェは、ミツバチが飛ぶのを見る。ああ、この山の蜂たちは生き延びたのだとホッとするところで映画は静かに終わる。
 ハティジェの身体や顔から発するパワーは忘れ得ぬ印象を残す。1964年生まれと彼女が言う場面があるので、彼女は50代半ばで、母は85歳。自分が結婚できなかったのは自分が若い頃に求婚された時、両親がその男の申し出を受けなかったからだと、彼女は母に訴える。母は、それは自分ではなくお父さんのせいだと言う。その村ではトルコ系やアルバニア系の少数民族の住民は皆去ってしまい、マケドニア系の住民しかいないことも、キャンピング・カーの男との会話から明かされる。ハティジェの陽に焼けた顔には皺が刻まれ、前歯の一部は欠けている。彼女はスコピエで髪を染める材料を買い、栗色に髪を染め、隣に来た一家と祭に出かけて人々と交わり、笑い、隣の男が作ったブランコに乗る。彼女のシンプルな生活の中の慎ましい喜怒哀楽が次第に観るものに伝染してくる。
 タマラ・コテフスカとリュボミル・ステファノフ共同監督である本作は、3年をかけて撮影された。二人ともマケドニア出身で、コテフスカは1993年、ステファノフは1975年生まれ。アメリカで注目されるサンダンス映画祭で、ドキュメンタリー撮影賞、審査員賞、「変化を起こすインパクト賞を受賞し、アメリカでの配給も決まっている。思わぬドラマもあり、しかしあまりに淡々と描かれる日常生活の中で、そういったドラマ的出来事も劇的には感じられない。むしろ日常生活の限りない延長の中の一つの挿話という感じで、静かに自然の中に浸っていくのである。
 

自由の森から

 その後フィルム・ソサエテイー・オブ・リンカーン・センターでは、今年で第6回目を迎える「Art of the Real 」が始まった。ノンフィクション映画のジャンルを切り開く作品紹介を目的とした特集で、今回は合作を含め世界21カ国から長編19本、短編18本が紹介された。特集では松本俊夫(1932〜2017)の『薔薇の葬列』(69)、『修羅』(71)、実験映画6本とドキュメンタリー3本、また本年亡くなったレバノン出身の女性監督ジョスリン・サーブ(1948〜2019)の3本が上映された。バルカンからは2本選ばれている。
 スロヴェニアとクロアチア合作の『自由の森から(Greetings from the Free Forests)』は、第二次世界大戦中に対独パルチザンが立てこもったスロヴェニアの森がテーマである。ドイツがスロヴェニアに侵略したのは1941年で、対独協力者は都市部に多かったので、パルチザンたちは迷路のような深い森の中に集結した。司令部など、最初は1年ぐらいのつもりで雨露を凌ぐ程度の簡単な小屋が立てられたが、戦いは結局1945年まで続いた。パルチザン兵士たちは森に点在するカルデア洞窟にもこもるが、森も洞穴も寒くて湿気が多く、そこでの生活は大変だったと現地の人が森を歩きながら説明する。
 本格的にしっかりと作られた地下塹壕には現在、映画フィルムが保存されている。低温で暗い環境が映画フィルムにも良いのだ。パルチザン部隊が持ち歩いたカメラで撮られたニュース映画や、戦後作られたパルチザン礼賛映画の何本かのシーンも紹介される。
 本作には今日的な思想的観点も入れられている。第二次世界大戦後の戦争映画では、パルチザンが勇敢で有能、そして自己犠牲も問わない崇高な英雄として描かれている。しかし本作では、パルチザンたちが対独協力者たちを、戦後、裁判もなく無惨に殺してしまったのはどうなのかと、地元の人が語る。また森にこもったパルチザンたちは食べ物と水をどのように調達したのかという疑問も挟まれる。最初はパルチザン側の人たちから分けてもらったのだろうが、戦争が進行すると食べ物が不足してきて、農民から強制的に接収したのではないかという人がいる。少数民族や社会的弱者を撲滅するというナチスの思想に共鳴した地元の協力者のことは、現在の人々も到底容認できないだろうが、パルチザン側も常に品行方正であるはずはないという観点も現実的であろう。「戦争は全て何かを所有するための戦いで、立派なスローガンは全て包み紙のようなものである」という発言が印象的であった。
 撮影、編集も担当したイアン・ソロカ監督はアメリカ人で1987年コロラド生まれ。コロラド大学、マサチューセッツ工科大学、チェコの映画大学FAMUで映画を学び、フルブライト研究員としてスロヴェニアの映画アーカイブに調査に赴いた成果の結集が本作で、長編1作目である。本作の題名は、パルチザン戦のプロパガンダの歌から採られている。

観光国、ボスニア=ヘルツエゴヴィナ

 ボスニア=ヘルツエゴヴィナ(以下、「ボスニア」と略)とカナダ合作の『石の発言者(Stone Speakers)』は、1990年代の戦乱後、観光国として生まれ変わろうとしているボスニアを描いている。本作では代表的な観光地を4つ紹介している。
 一つ目は、聖母マリアが1981年以来出現していると言われる南部の山中にあるメジュゴリエである。今やドイツ、イタリア、スイス、ギリシャなどの近隣ヨーロッパのみならず、韓国からも国旗を掲げて多くの巡礼者が集まり、沿道には蜂蜜やお札を売る露店が並ぶ。訪れる若者のためのコンサートも開催され、一大観光地となっている。土地の人は素朴な聖母信仰に共感を示す人もいるが、大規模なホテル整備などの商業主義には批判的な人もいる。
 二つ目は、中部の山岳地帯の“ピラミッド”である。円錐形のいくつかの山の形がピラミッドに似ているので古代ピラミッドと信じている人たちがいる。その主張の真偽は不明であるが、地元民たちは観光客の到来に感謝している。
 三つ目は、ノーベル文学賞を受賞したボスニア出身の作家イヴォ・アンドリッチ(1892〜1975)の故郷、ヴィシェグラードである。16世紀にオスマン・トルコ帝国によって建てられた橋をテーマにしたアンドリッチの歴史小説『ドリナの橋』(1945年に出版)で知られる。ボスニア出身の映画監督、エミール・クストリッツァ(1954〜)がスポンサーになって開発した歴史文化保存の街、“アンドリッチグラード“が新たな観光客を呼び込んでいる。その街にある映画館には、彼の処女作『ドリー・ベルを憶えている?』(81)から「ドリー・ベル」と名付けられた壁があり、一方にはこの街の建立に貢献したクストリッツァなどの人々、もう一方には第一次世界大戦の勃発となったオーストリー=ハンガリー帝国皇太子夫妻暗殺事件を起こし、地元では愛国者として称えられているボスニア青年党のメンバーたちが描かれている。また現在クロアチア領、当時オーストリア=ハンガリー帝国で生まれたセルビア系の発明家ニコラ・テスラ(1856〜1943)の名前が付けられた広場もある。地元の人々は自分たちの歴史に誇りを持たせてくれたクストリッツァに感謝している。
 最後はボスニア第三の都市トゥズラで開催された対ファシズム蜂起75周年記念行事である。パルチザン兵士を率いたチトーと共産党を讃える詩の朗読が行われ、民族衣装を着た男女がコロという民族舞踊を踊る。この行事は一見、観光とは無関係でローカルの人たちが熱い思いで参加している行事に見える。しかし、この行事を映すシーンが短いながら本作に含まれているのは、観光と無縁ではないという監督の視点がうかがわれる。ボスニアでは熾烈なパルチザン戦が行われ、多くの逸話、伝説が語り継がれ、映画が作られてきた。ナチスの強制収容所があったポーランドのアウシュヴィッツや、ニューヨークの同時多発テロ「911」で襲われたワールド・トレード・センターの跡地を訪れる観光客が絶えないと同様に、ボスニアのパルチザン戦にゆかりの場所も観光地化している。当事者の記憶を風化させない努力と商業主義とをどのように折り合わせるかという、東日本東北大地震で論議された被災地ツーリズムの問題にも通じるものがある。
 イゴール・ドウルリャチャ監督はボスニアのサラエボ出身で、本作が長編三作目。本作は地元の男女が画面の真ん中に立っている姿を正面から固定カメラの映像で捕らえながら、彼らの発言がサウンドドラックで流され、ほかの映像も加えられるという手法をとっている。固定カメラの映像は絵葉書や観光番組の解説を思い起こすところもあり、この手法も「観光」というテーマを考えたものとともに、題名にある「発言者」の多くが実際には生身の人間で、石のように年月とともに風化したものについて語っているという意味に思えた。