(33)映画的な、あまりに映画的な
[2018/3/23]

言葉の迫力

 『若き日のカール・マルクス(Le jeune Karl Marx)』(2017、英語題名はフランス語原題名と同じThe Youngj Karl Marx。日本では2018年4月28日より『マルクス・エンゲルス』として岩波ホールほか全国順次公開。本作予告編は公式サイトより見ることができる)は、ハイチ出身のラウル・ペック監督の期待される新作で、ニューヨークで滅多に満員になることがないマスコミ試写が珍しく事前に満員になった。アメリカではマスコミ試写には事前にメールで出欠席を知らせなければいけないが、カップルがアメリカ社会の最小限の単位であるため、マスコミ試写も普通はゲスト同伴をして良い。しかし、この試写に限って同伴は不可と通知があったほどの人気である。なぜこれほどの人気かというと、2017年度のアカデミー賞ドキュメンタリー部門にノミネートされ、賞は逃したもののNYの上映では、フィルム・フォーラムとリンカーン・センターの2会場とも入場者が記録的となったジェイムズ・ボールドウィンの伝記映画『私はあなたのニグロではない(I Am Not Your Negro)』(2016、日本では2018年5月12日公開予定)の監督だからである。
 映画は深い森の中で薪を集める村人の一団から始まる。ナレーションはマルクスからの引用で、彼らを襲う騎馬隊、逃げまとう村人たちの姿から、資本家に不当に抑圧される労働者の立場を位置付ける。そして映画はマルクスと妻のジェニーへと移って行く。彼らは幼な子とともにパリで亡命生活を送っている。マルクスは出版社を訪ねたところで警官の手入れに遭い、出版社の人々とともに護送車に乗せられる。その車の中で、他の雑誌の編集者がマルクスに論文掲載を頼む。マルクスたちが常に官憲の監視下、果敢に出版活動に関わる様子がこうして描かれる。
 マルクスはすごい勢いで喋る。出版社の人には家族を養うために原稿料が欲しいと四六時中訴えている。家では貴族階級出身のジェニーと革命思想を語り合う。
 一方、父親がマンチェスターで紡績工場を営む、フリードリヒ・エンゲルス。劣悪な環境に反対する労働者たちを率いて堂々と雇い主に文句を言い、その場でクビになる若い女性メアリー・バーンズ。その彼女の気概に惹かれ、アイルランド系の労働者たちが集うバーに、彼女を追うエンゲルスのドラマが展開する。イギリス労働者の働く環境をリサーチした論文を発表したエンゲルスは程なくパリに渡り、運動家たちの集まりでマルクスと再会し意気投合する。
 エンゲルスもよく喋るが、彼と出会ったマルクスはさらに喋る。この二人のドイツ人が最初はフランス語で話しながら、いつの間にかドイツ語に変わり、再びフランス語に戻り、その変わる速度もすごい。パリを追放されたマルクスがブリュッセルに落ち着くが、ロンドンで国際共産党同盟を形成する集会でも、この二人は英語で喋りまくる。労働者の団結の動きが欧州では国際的であり、19世紀の欧州の知的階級における文化環境が多国籍言語であったことが、音から再現されるのが実に映画的だ。音声だけならラジオ・ドラマでも良さそうだが、本作では喋っている登場人物の顔の表情や、彼らのいる部屋や建物、そして通りの風情も加わって実に迫力ある表現となっている。
 マルクス役はクエンティン・タランティーノ監督の『イングローリアス・バスターズ』やアンジェリナ・ジョリー主演の『ソルト』にも出演していたアウグスト・ディール。エンゲルス役は金髪で青い目が印象的なシュテファン・コナルスケで、若い頃パリに住んでいたため、フランス語が流暢らしい。
 ジェニー役はルクセンブルグ出身のヴィッキー・クリープスで、ポール・トーマス・アンダーソン監督、ダニエル・デイ・ルイス主演の『ファントム・スレッド』で一躍注目されたが、昨秋の東京国際映画祭のコンペ参加していたルクセンブルグのゴヴィンダ・ヴァン・メール監督の『グッドランド』にも出ていた。
 ペック監督自身がコンゴ、アメリカ、フランスで育ち、ドイツの大学で学んでいるので母国語のフランス語のほか英語やドイツ語も流暢らしい。現在はフランスの映画学校の校長をしていて後進の教育にも熱心なようだ。

自然の感触

『Leaning Into the Wind - Andy Goldsworthy (風に傾く アンディ・ゴールズワージー)』(2017) は、前作『Rivers and Tides: Andy Goldsworthy Working with Time (川と潮 時間に挑戦するアンディ・ゴールズワージー)』 (2002) でも題名にあるアーティスト、アンディ・ゴールズワージーを紹介したトーマス・リーデルズハイマー監督の新作である。私はこのドキュメンタリー作家もゴールズワージーも知らなかったが、リーデルズハイマーは日本の彫刻家、新宮晋(しんぐう・すすむ)についてのドキュメンタリー『ブリージング・アース 新宮晋の夢』(2012)を製作しているので、日本のアート界では知られているのかもしれない。私は新宮も知らなかった。
 ゴールズワージーは1956年イギリスのチェシャー出身で、現在スコットランドに住む。この新作のイメージは、映画の公式サイトから見ることができるが、彼の作品を追って、映画は地元スコットランドからスペイン、アメリカのニュー・イングランド、セントルイスの美術館などへ旅をし、それぞれの土地で作られる作品を追う。
 ゴールズワージーの作品は木、川、風など自然と一緒に作るものだ。川の流れの中に横たわる木の幹に、近くの木々から集めた細い枝を一つ一つ結びつけ、小さな棘のある茎で結えつける。木の葉に白い粉を振りかけて、その後に幹を揺らし白い粉が風に舞う。自分の手のひらに柏の黄色く色づいた葉や鮮やかなケシの赤い花びらを丁寧に隈なく貼り付け、それを川の流れに浸して葉や花の細かい片が水に流れていく。あるいは雨が降り出すと、丘の上でも都会の舗装された歩道の上でも彼が寝ころび、程なく起きて立ち去ると彼の体の形に沿って雨に打たれていない地面の色が浮かび上がるが、それも次第に雨に打たれて消えていく。
 このように、はかなくも瞬間にしか存在し得ない、あるいは時間とともに形状を変えていく物体や事象に惹かれているのがゴールズワージーである。時の流れによっていつしか形状を失っていく事物も、「その場、その時間」を求めるアートでありながら常にカメラで記録され、恒久なものとなってしまうという矛盾をはらみながら、本作は作られている。
 息をのむ鮮やかな色彩が浮かび上がる映像に、アーティストの息使いや、ほのかに木々が風にそよぐ音、雨の感触などが加わって圧巻な映像体験となっている。

肉体は眠り、魂は出会う

 ハンガリーの女性監督イルディコー・エニェディ監督の作品を見るのは27年ぶりだった。カンヌ映画祭の新人賞を受賞し、1990年にアメリカでも公開された『私の20世紀 (英語題名My 20th Century, ハンガリー語原題名Az en XX. Szazadom)』(1989)の内容はあまり覚えていないが、モノクロの美しい画面だったことが心に残っている。本監督の新作『肉体と魂について( 英語題名On Body and Soul、ハンガリー語原題名はTestrol es lelekrol)』(2017、日本では2018年4月14日より邦題『心と体と』で全国順次公開。本作予告編は公式サイトより見ることができる)は2017年ベルリン映画祭金熊(最高)賞を獲得し、2018年アカデミー外国映画賞にノミネートされた。ほんのりと楽しく展開するロマンス・コメデイである
 映画は森の中の鹿のイメージから始まる。鹿の毛1本1本まで見えるクローズ・アップの連続は、静謐な森の中に佇む鹿の呼吸が聞こえてきそうだ。そして舞台は一転して屠場となる。牛が殺され、肉におろされ、床に集まる血が水で洗われる。人々は黙って作業をしている。
 事務所にカメラが移る。中年男が窓の外を何気なく見ると、若い女性が歩いているのが見える。その後、彼が注意をして見ると建物の陰に立つその女性が見える。女性は新しく入った検査員で、堅苦しく杓子定規で扱いにくいと眼鏡の小太りの同僚が主人公の中年男に言う。小太りの方は人事部長で、細身でなんの変哲も無い主人公は財務部長のエンドレである。
 エンドレはこの新しい検査員のマーリアに興味を持って、昼食のカフェテリアで彼女のテーブルに座る。会話を始めた彼に、マーリアはぶっきらぼうに彼の左手が不自由なことを指摘し、エンドレは失望する。マーリアは職場の人々のお喋りにも溶け込めず、厳しい検査結果を下すので、職場で浮いてしまっている。その間、鹿の映像が何度も唐突に挿入される。鹿は角のある牡鹿と角の無い雌鹿で、川の辺りで一緒に水を飲んだり、森の中を歩いたりしている。
 屠場で何者かが牛用の媚薬を盗んだことから、警察が呼ばれ、犯人探しのために職員全員が精神科医の診断を受けることになる。セクシーな女性の精神科医はきわどい性的質問を皆にし、昨晩見た夢について訊く。そこで何と森の中の鹿の夢を、エンドレとマーリアが二人とも見ているという展開になる。精神科医は二人が示し合わせてそういう答えをしたのだろうと疑うのだが、一番驚くのはエンドレとマーリアの本人たちである。夢の中でエンドレは牡鹿、マーリアが牝鹿で同じ夢の中で行動を共にしていることを二人は発見する。
 それから二人の距離が狭まってくるのは時間の問題である。また信じがたいことに、マーリアは並はずれた記憶力の持ち主で、エンドレと交わした会話を全て覚えているとエンドレに打ち明ける。その前の場面では、なぜ厳しい検査結果を出すのかエンドレに聞かれたマーリアが、「この食肉処理場の牛は規定より2ミリ皮下脂肪が厚いので最高点はあげられない」と答える。牛の皮膚を手で触り1ミリ単位まで皮下脂肪の厚さを見極めてしまい、規定の厚さと比較して判定を出す、という異常な精密さに、エンドレはまさかという表情をする。この場面は観客の笑いも誘っていた。
 反発し合う男女が最後には結ばれるのはハリウッド映画に戦前からある一つのパターンである。また奇妙な登場人物が活躍する喜劇は「oddball comedy」と呼ばれているが、本作もリンカーン・センターの上映の解説に「oddball romance」とあった。これもマーリアが驚くべき記憶力の持ち主で几帳面で潔癖症であり、適当にだらしないところがある通常の人間とは違って一風変わっていることからきている。そして彼女がエンドレに恋してからは、自分が普通ではないことを次第に悩み始めるところが笑いの素となるのだ。 
 しかし主人公たちの恋が難なく成就してしまってはドラマにならない。二人は危機を乗り越えて、ハッピー・エンドになる。
 上映後、まだ学生のように若々しく、地味な雰囲気のエニェディ監督が登場し、映画について語った。本作は彼女のオリジナル脚本。エンドレ役のゲーザ・モルチャーニは本作が映画出演初めてとなった素人で、出版社の役員だそうだ。監督にとってエンドレは存在感のある男性をキャストしたかったそうで、彼が理想的だったが、今後映画出演を続ける気は毛頭ないという。一方、マーリア役のアレクサンドラ・ボルベーイは役柄と正反対に非常にセクシーでピチピチした女優で、強さと弱さを兼ね備えたこの役には演技力が必要と思ったそうだ。当初は精神科医の役をお願いしていたが、そのうちにマーリア役は彼女でなければいけないという確信を持ったという。
 男は女に何となく惹かれながら、いざ話してみるととても会話が成り立たない。しかし不器用にしか振る舞えなかった彼女は自宅で彼との出会いを思い出している。この二人が意外な接点を見つけて、それからは一緒に並んで夢を見ようとしたり、トランプをしたりして親しくなっていく。遠慮深く繊細で、しかも心温まるロマンスである。考え抜かれた台詞も気が利いているだけでなく、捻りがあって面白いが、それ以上に二人の顔の表情や身体的な動きのさりげない表現は、やはり映画でなければ表現できないものだと感じた。