(32)東京国際映画祭で少数者の視点を見る
[2017/11/19]

 寒い長雨が一段階した東京の秋、今年(2017)で30周年となる東京国際映画祭が開催された。今回印象に残った映画は、いずれも社会の中の少数者の視点を表現するものであった。

窮鼠蛇を噛む

 カザフスタンの『スヴェタ (Sveta)』(ジャンナ・イサバエヴァ監督)は、聾唖者のスヴェタ(ラウラ・コロリョヴァ)が主人公。映画は、借金取り立ての男の声に被る正面から撮った彼女の顔のクローズ・アップで始まる。むっつり顔で、大きく手や肩を動かし手話通訳を通じて「お金は払っている」「たまに遅れたことがあるかもしれない」「取り立て調書はもらっていない」と反撃する彼女に、銀行員の若い男は取り合わない。通訳が彼女は聾唖者だから情状酌量をしてあげたらどうかと銀行員に言うと、「ローンを組んだ時は既に聾唖者だろう」と、けんもほろろである。
 帰宅した彼女は、住いを失う危機に瀕し、幼い娘と息子に夕食を食べさせながら、不安に満ちた表情で台所の中を歩き回って落ち着かない。子供たちは聾唖者かどうかわからないが、子供達は母親と手話で話している。帰宅した夫も聾唖者で、二人は手話で猛然と喧嘩を始める。仕事で疲れている、子供も作りたくなかったし、アパート購入も反対したと夫は言って、頼りにならない。
 彼女の職場は工場長をはじめ働く人全員が聾唖者で、ミシンでTシャツを作っている縫製工場だ。20人ほどいる職場で、経済不安からリストラが始まる。作業長だったスヴェタもリストラの対象となり、作業長の職にはシングル・マザーのヴァーリャがつくことになる。身体を大きく動かして再び猛然と工場長に反論するスヴェタであるが、らちがあかない。同僚がスヴェタのそばで「スヴェタのほうが仕事ができるのにね」と話しているのは、事実なのかスヴェタへのお世辞なのかわからない。
 意を決したスヴェタは、タクシーに乗り郊外の森の中でヴァーリャを待ち伏せ、彼女の背後から彼女の頭を石で殴り、物取りの犯行と思わせるために買い物袋とバックをとる。ヴァーリャの入院後、何食わぬ顔でスヴェタは作業長の職に戻り、職場の見舞金募金に参加することも、ヴァーリャの7歳ぐらいの娘を同僚の間で順番に世話をすることも拒否する。
 追い詰められた弱者が猛然と反撃に出る様は、まさに「窮鼠猫を噛む」という比喩を思い起こす。ところがスヴェタは猫どころではなく、蛇を噛むほどの強烈な生存者なのだ。しかも強者を襲うのではなく、自分より弱いものを犠牲にしていくので、観客としては感情移入ができない。次のスヴェタの獲物は、両親のいない夫を育ててくれた彼の92歳になる祖母で、彼女を毒殺して彼女が所有するアパートを手に入れることを夫に持ちかける。自分たちの住むアパートはあと5年でローン支払いが済み、祖母のアパートは人に貸せば収入になる、祖母は十分人生を生きたし、病気がちだし死んだほうが彼女のためでもあるなどと自分勝手な考えをまくしたてるので、夫はさすがに呆れる。夫を説得するのにスヴェタは子供たちに少量の毒をもって病気にさせることさえはばからない。。
 そこでスヴェタは、自分は両親がいながら施設に入れられて育ったことを語り出す。聾唖者として生まれたため、両親に捨てられたと推測される。そして彼女は施設での熾烈な生存競争を語る。弱いものは徹底的にいじめられ、美しい少女はレイプされるが、自分は美しくなかったので助かった、でも私たちの娘は美しいから施設に行くことになれば悲惨だ、などとまくしたてるのである。これでどうして夫が祖母の殺人に同意したのかわからないが、おたおたしているとあんたも殺すわよ、というスヴェタの脅しを夫が察したのかもしれない。夫は明らかに悪とわかっていながらスヴェタに反撃できない意思の弱い人間で、正反対の性格を持つゆえに惹かれあったカップルなのかもしれない。
 祖母の死後、警察は夫を疑う。工場長がヴァーリャの娘を一晩だけ託しにスヴェタのアパートに来た時、スヴェタは不満そうだが夫は優しく受け入れる。工場長の頼みで、翌朝スヴェタはその少女を施設に送っていく。送り届け、手続きが終わって外に出たスヴェタは何を思ったのか、少女のところに走り戻り、なにがなんでも生き残らなければだめ、強く生きていきなさいと涙ながらに訴えるところで映画が終わる。
 この映画は聾唖者という社会の弱者が健常者には想像もできないような苦労を重ねてタフなサバイバーになったという趣旨だと思うが、同じ題材でも、暴力が支配する聾唖者の青少年施設で生きるための熾烈な戦いを描く、ウクライナの衝撃作『ザ・トライブ (The Tribe)』(2014年、ミロスラブ・スラボシュピツキー監督・脚本)を見てしまうと、本作は二番煎じの感じで物足りない。配役について、本作も『ザ・トライブ』も演技無経験である実際の聾唖者が、聾唖者を演じている点が話題になった。
 中央アジアのカザフスタンではアジア系やアジア系と欧州系の混血のような顔をした人が多い。監督の写真を見ると、アジア系女性である。スヴェタも夫も金髪、肌の白いロシア系である。ソビエト連邦時代に支配者として現地に渡ったロシア人が、カザフスタン独立後は少数民族となったのか、この点も少し気になった。

ジャングルの中の戦い

 『殺人の権利 (The Right To Kill)』のアーネル・“アルビ”・バルバローナ監督はミンダナオの部族出身で今までに何作か監督している。本作はミンダナオの山奥のジャングルで猪狩りをする原住民の夫婦の描写で始まる。裸足で草の上を歩く彼らは森を守り自然を慈しむ先祖伝来の暮らしを語り、厄をもたらす外からの侵入者を“野蛮人”と形容している。付近では、木を切り倒して鉱山を開発するプロジェクトが進行中で、道端には日本のメーカーのロゴが書かれた重機車が停まり、国際資本による開発が進んでいることが示唆される。
 夫婦は木の枝で作ったような質素な家に住み、獲物の猪を蝋燭の灯りの下で食べ、愛情深い平和な家族生活を営んでいる。夜中に赤ん坊が熱を出して死亡してしまうが、夫婦は二人の幼児とともに赤、黒、黄色などの鮮やかな色の民族衣装をつけて亡骸を土に葬る。
 子供がしばらく野菜を食べていないので、夫は豆を分けてもらいに子供たちと族長のところへ出かける。子供たちは族長に子犬をもらいうける。その帰り、反政府軍を追う政府軍の一団に夫が捕まってしまう。死んだ我が子の眠る場所に残っていた妻も、ほどなく彼らに捕まる。ゲリラ戦で6名の兵士が殺害されたので政府軍兵士たちは気を荒立たせている。この地の反政府軍の長年にわたるゲリラ戦についてはニュースで聞いたことがあるが、政府軍は実は土地開発の後押しもしているのだ。
 夫婦は服を脱がされ、こずきまわされ、泥だらけにされて、その姿を嘲笑される。それを止めようとする指揮官は、甘いと兵士に批判されて夫婦に対する暴行を続けざるをえない。政府軍は原住民が開いている小学校に乗り込んで、子供と一緒に勉強している母親たちや女性教師までも束縛する。原住民はジャングルの中で戦う反政府軍を支援していると疑われているのだ。虐待される原住民の悲しみは、彼らの顔のクローズ・アップの表情で示される。特に物言わぬ妻の眼力がすごい。彼女の悲しみから怒りへ変わる表情も、ジャングルのうっそうとした深い緑を背景にしたことで、うったえる力が強い。夫を不当に殺された彼女の反撃は、彼らの伝統的な竹槍軍法によるものだ。一方父と別れた二人の幼い子供が運ぶカンの中の豆が、ジャングルの中で雨に打たれ翌朝芽をふいているイメージも強烈だ。この地の濃厚な自然が伝わってくる。
 彼女を救出する反政府軍の一隊は、みな帽子に赤い星をつけているので共産党系と思われる。その中には女性もいる。映画の最後は、ドキュメンタリーのシーンとなり、2014年、ミンダナオの原住民の女性が政府軍により実際に人権侵害の仕打ちを受けたことを話す。映画の中で演じられた妻よりも年配の女性だが、服を脱がされ手を縛られていたので用も足せなかったことを語る。夫婦を演じたのはアマチュアの原住民ということだが、実に力強いイメージを体いっぱいで具現していた。

崇高な高原の人々

 オーストラリアの『スイート・カントリー (Sweet Country)』は、原住民アボリジニの血をひくワーウィック・ソーントン監督が撮影監督も務めている。ソーントン監督は現代のアボリジニの人々を描く一作目『サムソンとデリラ』(2009)ですでに国際的に注目されていた。本作も、実際に1920年代に起こったアボリジニの事件を映画化したもので、原住民の役はアマチュアによって演じられている。
 この地でも先祖伝来の土地に住む原住民にとって、外から来た白人の“野蛮人”たちは彼らの土地を奪い自由を束縛した侵略者以外の何者でもなかった。原住民の土地を取り上げ、彼らを奴隷のように酷使し、いとも安易に生命を奪う白人の卑劣で奢った行動がなまなましく再現される。
 主人公はサム・ケリーという白人の名前を与えられた原住民の初老の男で、酔って銃を乱発する近所の男ハリーを正当防衛で射殺してしまい、妻のリジーを連れて高原に逃れる。それを追う町の保安官の一団の追跡劇が雄大な自然の中に展開する。保安官はコチコチの人種差別主義者であるが、一団のなかには、すべての人間は神の前で平等であると信じる良心的な白人の牧師もいる。保安官をブライアン・ブラウンが、牧師をサム・ニールが演じているが、いずれも国際的に知られた俳優である。
 昼間は灼熱の太陽の下、地面には毒牙を持つサソリもいる。その中で白人たちは苦闘するが、こうなると土地を知る原住民にとっては勝手を知った自分の庭先での勝負のようで、俄然優勢となる。サムは余裕しゃくしゃくで、妻と身振り手振りを入れながら温かいやりとりをして、逃避行を続ける。
 奥地で裸の原住民部族の一団が突然現れ、弓矢によって白人同行者が一人殺され、白人たちは保安官以外、街に引き返してしまう。あくまでも犯人逮捕にこだわる保安官は簡単には引き返さない。砂漠の中で瀕死状態になった保安官はサムに助けられ、街に戻る。保安官が「この土地は甘くない」とバーテンダーの女性にベッドで語る言葉が反語となり、「甘い土地」という映画の題名になっている。
 しかし翌朝、つわりに苦しむリジーを見たサムは、彼女を伴い街に出頭してくる。縛り首だと息巻く町の白人たちを見ていると、同様の運命の下、リンチで殺されたアメリカ南部の多くの黒人のことが私の頭によぎった。そこに白人の判事が送られてくる。公正な裁判をしようとする判事に向かって、この町の持ち主は俺だと保安官が威圧する。若い判事は、自分は(英国)国王に任命された職務を全うすると反撃する。住民に正義をもたらすのも、当時植民地であったオーストラリアでは植民者英国の君主の権威であることがアイロニーを感じさせる。
 映画後半は、この裁判の行方が緊張感をもって展開する。街には集会場も教会もないので、人々は野外で低いラウンジ・チェアーのような布の椅子に座って裁判を傍聴する。リジーは恐怖からか証言できない。サムは、逃げきれるはずの自分がわざわざ戻ったのは、妊娠中のリジーの身体をいたわったからだと告げる。しかも妻を妊娠させたのはハリーで、姪のナンシーにも色目を使っていたとサムはさらに証言する。
 ほかの証人たちの証言も聞いて、判事はサムに正当防衛による無罪判決を下す。町の白人たちのごうごうたる抗議の中、サム夫妻は牧師に伴われて町を出ることになり、保安官はあっさりと町の境界線まで彼らを護衛する。町を出た地点で、どこからか襲ってきた銃弾がサムを殺害し、血にまみれたサムを前にリジーと牧師は絶望する。
 彼らの周囲に、アボリジニ女性との間に息子を持つ白人ケネデイや、ケネデイに雇われている白人に従順なアボリジニの老人アーチーなど、登場人物はカラフルである。その中で突出しているイメージを残すのはサムを演ずるハミルトン・モリスである。ちょっと太めの体形ながら長身の姿勢はよく、黒い顔に刻まれた皺にも味がある。白人を前にしても堂々としていかにも賢明だ。どこまでも広がる朱色の夕焼けの風景の中に彼が立つと、人間の尊厳を感じさせ、それは崇高でさえある。
 白人が、立派な大人のアボリジニに対しても「ボーイ」と蔑んで呼ぶのは、アメリカ南部の黒人に対する人種差別的な白人の態度と共通するものがある。また、町の人々が野外でサイレント映画を見る場面があるが、これはネッド・ケリーというオーストラリアの無法者を主人公にしたもので、このような細部へのこだわりも興味深い。

他者とは誰か

 『他者の言葉の物語 (Tales of the Otherwords)』はインドネシアのB.W.ブルバ・ヌガラ監督の長編処女作。1948年の第二次反オランダ闘争に参加したまま帰らない夫の消息をたずねて、夫の墓の隣に葬られることが望みという95歳の妻が旅をする。結婚を控えた孫の青年がそれを追うロード・ムービーである。一度祖母に追いついて一夜を一緒に過ごした孫を残して、翌朝老女はさらに一人で旅を続けるので、孫はまたそれを追っていく。
 老女と孫が実際にどのくらいの距離を旅したのかはわからないが、二人はバスに乗り、時としてトラックの荷台に乗せてもらう。そして強い太陽の下、ほこりの舞う田舎道をてくてくと歩く場面が多い。
 夫の名前を言うと、その人ならこの村にいたと妻に向かって証言する村人がいる。独立軍の兵士が確かにこのあたりでオランダ軍に攻撃を受けて死んだので、盛り土をして弔っていると言うのだ。しかしその墓も村もダムの建設で水の底に沈んだと村人が言う。語っていた村人は、はじめのうち老女の夫がダム建設のため木を切り倒しに来た企業側の人間と思い、それなら我々の敵だと言う。それは村人が独立後も近代化の波の中で、困難に遭遇したことを意味する。ある朝突然予告なしに浸水が始まり、家の中が水浸しとなりすべてを失ったと語る村人もいる。老女は長旅の間もしっかり離さず持っていたバックから籠を出し、その中の紅やピンクの花びらを水に浮かべて死者を弔う。
 しかしどうも人違いであったようで、さらに老女の旅は続く。このあたりから孫は老女に追いつくことなく、映画は老女のみを追うことになる。老女の夫はオランダ軍に捕まり、その場で射殺されるかスパイになるかの選択を迫られ、味方の居場所を教えたのだと証言する村人もいる。村人たちが作った、家畜を略奪するオランダ兵についての歌を歌う老人もいる。そして人々の話をたどりながら、老女はとうとう夫らしき人の墓がある村にたどりつく。
 その人なら知っているという村の老人が、二つある村の墓場の中で、彼女の夫の墓がない方を教えるが、それがなぜかは後で観客にわかる。教えられた墓地に向かったが夫の名前が墓標にないので、老女はそこにしばし座り込む。がっかりして家に帰ることにする老女は、帰りのバスの運転手になぜここまで旅をしてきたのかを語る。運転手が、その墓場は違うと言って、夫の墓があるはずのもう一つの墓場に案内してくれる。
 そこで彼女は、夫の名前の刻まれた墓の前まで来て倒れる。ショックのあまりなくなってしまったのかと私は思ったが、彼女は再び起き上がる。1985年に亡くなったとある墓の横に、その2年後に亡くなったその男の妻と書かれた墓がある。夫は戦闘に参加し、生き残ったあと家に帰らず、その地で妻をめとって戦後を生きていた。老婆は箒で夫の墓を掃除して花びらを墓の上に散らす。そして再び箒を手にするとその横の妻の墓も掃除して、花びらを散らす。
 夫を半世紀待ち続けた老女に向かって、さまざまに語られてきた夫についての言葉は、夫のものではなく他者のものであったということが題名になっているようだ。そして他者とは、支配者の立場からインドネシアの民に物語を語る植民者オランダのことも指しているのであろう。本作で老女役を演じたのは、演技経験のない農婦だそうだ。今まで記してきた四作品のすべての主要な役がアマチュアによって演じられ、彼らの持つパワーが銀幕に強烈な印象を残しているのだ。

大阪の少数者たち

 本映画祭で上映された日本映画の多くを見たが、相変わらずどうでもよい話を弛緩したスタイルで描いているものばかりで失望した。その中で唯一、映画を見る意義や喜びを感じさせてくれたのがドキュメンタリー『Of Love & Law』(日本=イギリス合作)である。日本映画スプラッシュ部門で作品賞を受賞したこともうなずける。戸田ひかる監督は10歳からオランダで育ち、イギリスで活動し、本作撮影のために22年ぶりに日本に住んだと解説にあった。やはり外から日本を見ている人だからこそ、このような日本社会の問題を描くことができたのであろう。
 本作は大阪のゲイの弁護士カップル南和行さんと吉田昌史さんの仕事と私生活を追ったものである。結婚式も挙げた彼らは一緒に弁護士事務所を開き、均一性を求める日本社会からはみ出すさまざまな人々や社会的弱者の弁護を引き受けている。南さんはカミングアウト(自分がゲイだと告げること)した時に、母は泣き崩れ、兄は国によってはゲイであるという理由で死刑になるところもあると思って当惑したと語り、そこで観客はどっと笑った。映画ではその後しばらくして、自分の家族の反応は彼らがゲイの人たちを知らなかったからで、そういう反応もしかたないと南さんは言っている。やはり知らないことに人間は警戒心を抱くのであろう。南さんの母は、今では息子たちの事務所で働き、兄も彼らを家族ぐるみで受け入れるよき理解者となっている。吉田さんは子供時代、家がサラ金問題に悩み、それが困っている人を助けたいという今の気持ちにつながっていると語った。
 南、吉田両氏が弁護団に参加しているのは、女性器をアートとして発表して公然猥褻罪で起訴された“ろくでなし子”や、国歌「君が代」斉唱に不起立で処罰された教師、そして現在日本に約1万人も存在すると言われている無国籍者などである。ろくでなし子の事件はニュースで片鱗を知っていた私であるが、彼女が福島の原発や宗教を風刺する作品を発表していることや、彼女の行動を勇気あることだと、尊敬しサポートする素晴らしいお父さんがいることは知らなかった。
 アメリカでは今年の夏頃から、トランプ大統領の人種差別的発言や政策に抗議して、フットボール試合の前の国歌斉唱の際、主に有色人種の選手が起立することを拒否してひざまずいたり同僚と手をつないで立っている。それを批判したトランプ大統領に対してすぐさま「表現の自由だ」と選手を擁護する声明を出したり、そのような選手たちに賛同して一緒に手をつないで立っているチームのオーナーたちがいた。アメリカでは政府をきちんと批判するマスコミや裁判所、検察が存在しているので、表現の自由は基本的人権の問題だと理解して実践する人々がいる。これはアメリカの民主主義が機能していることを実感させられる。そして、国歌斉唱に対する日本社会との違いを感じた。
 無国籍者が生まれるのは、離婚した母親が6ヶ月経たなければ再婚できない法律が現在の日本にあり、その6ヶ月の間は離婚前の夫以外の男性との間に設けた子供の認知を受けることができず戸籍を取得できない場合があり、裁判で子供の実際の父親が認められてもその後のお役所仕事に時間がかかるためである。法律は国民を守るためにあるはずなのに、法律の隙間で悩む人々を救済できない現状に対し、南さんと吉田さんは戦っている。
 彼らが人権問題の講義に行く場面もある。同性結婚を認められないという聴衆がいるのは、やはり現実であろう。私自身はNYでゲイの友人が多く偏見はまったくないが、、日本でも彼らの権利を異性愛の人々と同等に認めて欲しいと思う。南さんカップルは施設を出なければならなくなった十代の少年のかずま君を家に預かり、親子のような生活が始まる。彼ら3人を南さんの母や兄の家族が自然に受け入れているのが素晴らしい。その後かずま君はガールフレンドと同居し始める。そして、自分が世話になっていたカップルが同性婚をしていると彼女に告げると彼女は驚く。かずま君は自分が知っているカップルの中で南さんと吉田さんは最も幸せそうな二人で、彼らは「普通」だと言う。人々が差別に向かうのは、対象が別の人種であれ、性的嗜好であれ、その人たちのことをよく知らないことから起こることが多いのではないかと思わせる場面である。それはその前の南さんの「家族がゲイのことを知らなかったから(当惑したのは)しかたない」という発言にもつながる。それとともに、カメラの前で仕事の悩みだけでなく個人生活の問題も話合う二人を見ると、彼らの人間性のさまざまな側面を感じることができる。このような場面を撮影できたことが、この映画の力である。
 二人は同性愛のために差別されたことが原因で自殺した息子の母の弁護を担当し、その息子が通っていた法科大学院を訴え、また大阪ではゲイのカップルとして初めて養子縁組をしたというテロップが最後に出る。日本社会を少しずつでも変えている人々の姿を見ることができたのは収穫であった。