(31)今年のNY映画祭の東欧
[2017/10/30]

 NYの映画界で最も重要なイヴェントであるNY映画祭は今年(2017)も9月末より10月中旬まで開催された。その中で見ることができた旧東欧関係の映画を紹介したい。

西への思い

 『西側(Western)』は、ドイツのヴァレスカ・グリーゼバッハ監督の三作目で、脚本は監督のオリジナルである。同監督は2001年に処女作『Mein Stern』、2006年に2本目の作品『Longing』を発表しているので、実に10年ぶりの作品だ。
 舞台はギリシアに近いブルガリアの小さな村で、ここに水道を引くための工事に来ているドイツ人の男たちが、村人と起こす軋轢を丁寧に描いている。
 山の中の景観豊かな場所の工事現場。映画の導入部に中年の痩せた男マインハルド(マインハルド・ノイマン)の動きをカメラが追うので、特に風采のあがらないこの人が主役でよいのだろうかと思ってしまうが、次第に彼は存在感を増していく。
 夏の暑い中、工事現場では飲料水や工事用の水を近くの川から汲んで来なければならないし、注文した砂利は届かない。予定した工事日程に間に合わないので、現場監督ヴィンセント(ラインハルド・ヴェトレク)の焦燥感と怒りがつのっている。ここから村までかなりの距離があり、まるで隔離されたような場所にいる男たちはやることもなく退屈で、憂さ晴らしもできない。その中で、寡黙な新入りのマインハルドは、一人で村まで出かける。村のバーで煙草を売ってもらえないのは、第二次世界大戦中のナチス占領への恨みがまだ人々の心に残っているからだろうか。しかしブルガリア語ができない彼を助けてくれる村の男たちが現われ、ドイツ軍は清潔で賢かったなどとお世辞を言う人もいる。マインハルドが川の近くでみつけた馬の持ち主のアドリアン(シュレイマン・アリロフ・レフィトフ)に村人たちから紹介され、その甥のヴィンコに馬の乗り方を習い、彼は次第に村の人々と話をするようになる。
 こうして村の人々と交流を始めた彼は、外人部隊としてイラクやアフガニスタンに行っていたと村人たちに話す。村人の中にドイツ語がわかる人もいて、マインハルドは近隣の3つの村が水源を分け合っている現実を知る。工事現場のドイツ人たちは、村人たちと交流するマインハルドに反感を強めていく。自分たちは現地の人々を文化が遅れた場所の輩たちと馬鹿にして交流する気もないのだが、自分たちに従わないマインハルドが目の上のタンコブ的存在になっているようなのだ。
 現場監督のヴィンセントは水が欲しいばかりに、水源で水を盗む細工をした時、使っていた馬を事故で大怪我させ、そのまま逃げてしまう。それに加えて、村の若い女性ヴェネタ(ヴェネタ・フランゴヴァ)をめぐるドイツ人の男たちの対立も緊張感の高まりに加わる。
 しかしこの映画が単純でないのは、高度工業社会のドイツが後進国ブルガリアを経済侵略する構図で善悪を対比するのではなく、ブルガリア側の問題も描いていることだ。外の人間に対し、特に女性をめぐる不信感を、ヴィンセントやマインハルドに向ける村の男たちのむき出しの感情が表現されている。また、マインハルドは村人たちの間に溶け込んでいたかと思うと、突然夜中に村の男たちに襲われたりもする。なかなか一筋縄ではいかないのだ。
 この溝を埋めるのは人と人の個人のつながりしかないと映画は言っている。アドリアンは三人の息子がアメリカとイギリスに留学していて寂しく、甥のヴィンコの両親は出稼ぎでいないと、しんみりとマインハルドに話すと、マインハルドは弟を失ったことを話し涙ぐむ。するとアドリアンは自分がお前の兄弟だと言って、言葉の通じない二人はハイタッチをする。その夜マインハルドはアドリアンの家のソファーで寝て、アドリアンの老母の世話になる。
 そして映画はドイツ人と村人たちが同席する野外宴会の会場から抜けて、ヴェネタを探すらしいヴィンセントとマインハルドの姿で終わり、すっきりとした結論を呈示しない。マインハルドとヴィネタはどうなるのか、アドリアンとは友人でいられるのかなどの疑問の答えは観客に任されている。製作者の一人が、ルーマニアに進出したドイツの会社に勤務するドイツ人女性を描く『ありがとう、トニ・エルドマン』のマレン・アーデ監督であること(私のコラム(27)を参照のこと)を見ると、ドイツの近隣東欧諸国の経済的格差、文化的摩擦などについて、この2人の若いドイツの女性監督が考察していることが感じられる。

動物愛の極致

 『獣道(Spoor/Pokot)』はポーランドを代表する監督、アニエスカ・ホランドとホランドの娘、カーシャ・アダミクの共同監督。原作の小説の著者オルガ・トカルチュクがホランドとの共同脚本である。舞台はチェコとの国境近くのポーランドの山の中で、映画は、一人暮らしの初老の女性、ヤニナ・ドュシェイコ(アニエスカ・マンダット=グラブカ)が早朝二匹の犬に起こされ、散歩に出かけるところから始まる。自然と動物を愛する彼女が我慢ならないのは、静けさの中に響く鉄砲の音だ。堂々と法律違反の狩猟が行われ、それに手を染めるのは土地の有力者たちである。)
 彼女はいちいち頭に血を昇らせて狩猟場に抗議に赴く。警察に抗議しても、相手にされない。教会では神父に、動物は人間より劣るので動物のために人間は祈ってはいけないと諭される。彼女の気持ちはわかるが、その熱意はちょっと面倒くさい狂信的という域に入り、極言すれば“動物保護テロリスト”とも形容されるかもしれない。
 以前中東で技師をしていた関係で英語を覚えたヤニナは、パートタイムで小学校の英語教師をしている。そして出会った人の性格を星占いで推測するのが趣味だ。彼女の二匹の愛犬が行方不明になり、彼女は狩猟者たち、そしてそれを支える土地の男たちに戦闘を挑む。彼女に味方するのは、洋裁店を営む若いシングルマザーと、警察でITの仕事をする若者、そしてヤニナの隣人の孤独な初老の男、それにチェコから昆虫研究に訪れた大学教師だ。そのうちに、次々と狩猟の首謀者たちがまるで動物に復讐されたような謎の死を遂げていく
 この映画は、ヤニナが権力に立ち向かっていく戦いが成功するかどうかという点でハラハラドキドキの展開をする。彼女はクラシック音楽を聴き、本を読むインテリであり、初老・独身女性という社会の弱者的立場にありながら、不屈の精神で粗暴で横柄な成金や警察、市長、神父といった男社会に攻撃をしかけるのだ。ヤニナがファースト・ネームではなく、常に“ドュシェイコ”とうい苗字で呼ばれることを主張し、ほとんどの人が間違える彼女の苗字の発音を、常に指摘して直すことも、彼女が男社会に負けないという自負と一徹さを感じさせるのである。
 彼女は犬の屍体が見つかった隣家で見つけた写真や、警察署の廊下で見た狩猟のカレンダーなど、証拠品となりそうなものを素早く掴み取る。また権力者たちの腐敗についてタラタラ文句をいう郵便配達員にもすぐに同調せず、むしろ懐疑の念をやんわりと示し、慎重な態度を保つことでしっかりと自己防衛している。それらは、彼女が、どこに当局のスパイがいるかわからず、うっかり反体制的言動に同調すれば当局に通報されるという恐れがあるポーランドの共産党独裁時代を生き抜いて来たことを思わせる。
 それでいて、ヤニナは小学校の子供たちにいつも囲まれてしたわれているし、困っているシングルマザーやIT専門家の若者、市長に虐待される妻には援助を惜しまない。その優しさが魅力的で、観客は彼女の戦いを応援したくなる。
 朝方のうっすらモヤがかかった時間や夜の撮影と対比させ、最後の陽がさんさんと注ぐ場面は、ヤニナたちの生活がそれまでの鬱積した狭い村社会の抑圧から解放されて、ユートピアのような表現になっている。しかし、ヤニナが殺された犬とそっくりな二匹の犬を連れて草むらを歩く場面は、ヤニナがスローモーションで消えていくので、これは現実ではないかもしれないとも思わせる。つまりハッピーエンドかどうかは、観客の想像に任されているのだ。

ボスニア出身の姉妹監督

 『鏡の間(Hall of Mirrors)』は、ボスニア出身の若い姉妹、イネス・タラキッチとエナ・タラキッチのドキュメンタリーである。学生時代にケネデイ大統領暗殺を調査するウオーレン委員会の内容に異議を唱える著書(『Inquest: The Warren Commission and the Establishment of Truth』未邦訳)でデビューしたNY出身のジャーナリスト、エドワード・J・エプスタインは、ダイヤモンドの国際カルテルの存在について、或いはメデイアのニュースの信憑性を問う著作など多数あるが、最近はエドワード・スノーデンをテーマにして彼の赴任地であるハワイから、日本、香港、ロシアまで調査に赴いた。本作は、そのエプスタンの姿をイネスとエナが追ったドキュメンタリーである。
 「世間で通用している説に疑問をはさむこと。別の見方がないかをいつも考えること」を信条としているエプスタインは、スノーデンが内部告発という善意があったのは確かかもしれないが、アメリカ政府の情報をロシアに渡したという諜報活動者としての面があったことは否定できないと主張する。上映後の会場のジャーナリストたちはエプスタインの著作を読んでいる人が多く、さまざまな質問があがった。その中でおもしろかったエプスタンの答えは、自分が学生の身分の時はどんな著名人でも会って話をしてくれたが、今は必ず「チームで働いているから」とエージェントを通すように言われることだと言っていたことだ。そして、ウオーレン委員会についても、誰も疑問を挟まなかったが、自分は各委員の仕事時間など基本的な情報を集めて、腑に落ちないことを聞きに行ったと言う。
 オーム真理教の取材を直接教団に問い合わせるメデイアがなかったので、自分が手紙を書いて教団の広報担当に会いに行ったと述べていた映画『A』(1998)の監督、森達也を私は思い起こした。
 イネスが5歳、エナが4歳の時に戦乱のボスニアを出て、彼らはまずドイツに行き、のちイタリアに住んだ。イネスはチェコの映画学校で映画製作を学び、エナは写真とデザインをイタリアで習得した。またイネスはバイオリン、エナはピアノを弾き、映画の中の音楽はエナが弾いているという多才な姉妹である。現在は2人ともNYを拠点とし、長編映画は本作が初めてで、2人だけの撮影隊であった。本作は、4年前にNYのパーティでテラスの端にたたずみ客たちをじっと観察しているエプスタインを見た姉妹が、この人には何かあると感じて話を始めたのがきっかけで、それ以来スノーデンについての調査を始めたエプスタインの訪問先各地に同行したという。
 ボスニアといえば戦乱や難民などのイメージが先行するが、若くて魅力的なイネスとエナ姉妹の輝くような姿と作品に圧倒された。