(30)第8回シネマ・(ポスト)ユーゴ
[2017/9/4]

 6月の東京は、シネマ・(ポスト)ユーゴの季節の到来だ。2010年に3本の新旧スロヴェニア映画を紹介することから始まった本企画は、翌年2011年から、対象の映画を、1960年代から1980年代までの旧ユーゴ時代の国際的に知られる古典作品とした。2013年からはユーゴ解体後の比較的最近の旧ユーゴ各国からの作品の上映を行っている。題材は現在の社会の状況だけでなく、旧ユーゴ時代の歴史や事件を扱ったものなど多岐に渡る。今年2017年の作品はドキュメンタリー1本と劇映画2本であるが、多様なこの時代の家族のあり方をテーマにしたものであった。

チトーの眼鏡

 上智大学四谷キャンパスで上映されたドキュメンタリー『チトーの眼鏡 (Titos Brille)』(2014年、90分、ドイツ語、イタリア語、クロアチア語;英語字幕付)は、ドイツのレギナ・シリング監督によるユダヤ系クロアチア人家族の歴史をたどったものである。現在、ドイツ人の夫、二人の息子とドイツに住む劇作家アドリアナ・アルタラスが、両親の死後に彼らのルーツをたどる旅に出る。家族やユダヤ人の歴史だけでなく、パルチザン戦の神話や戦後ユーゴスラヴィアの歴史も展開するユーモア溢れる作品である。
 東京大学文学部現代文芸論研究室助教でロシアと旧ユーゴ地区研究を専門とする亀田真澄先生の紹介では、アドリアナがドイツ、スロヴェニア、イタリア、ダルマチア、クロアチアと辿る道がスクリーン上の地図に示された。また旧ユーゴ大統領となるチトー率いる対独パルチザン戦に参加したアドリアナの両親を通じて、アドリアナが両親だけでなく「チトーのドユブック(dybbuk)にも私は取り憑かれている」と語る、ユダヤ文化のキーワードの説明もされた。dybbuk とはユダヤ系伝統文化での亡霊で文学や戯曲にたびたび登場する。
 アドリアナの父ヤクブはアドリア海沿岸のクロアチア地方、ダルマチアの出身だ。親戚の一人が、そこでは第二次世界大戦前に反ユダヤ主義はあまり見られなかったと説明する。ユーゴ全体でユダヤ人の戦後の生存率が15%であったのに対し、ダルマチアでは50%であったそうだ。アドリア海沿岸は第二次世界大戦でまずイタリアに占領され、その時まだ反ユダヤ主義は目立っていなかったが、ドイツ占領によってユダヤ人虐殺や強制収容所送りが始まったと亀田先生は解説された。
 映画の題名のチトーの眼鏡とは、医師となり放射線医学の世界的権威となったヤクブが若い頃参加したパルチザン戦でチトーの部隊にいて、チトーの眼鏡が壊れたとき山奥で何も道具や材料がなかった中を工面して眼鏡を修理してチトーの信任を得たという話から来ている。
 1960年クロアチアの首都ザグレブに生まれたアドリアナは、幼稚園の頃まで住んでいた旧ユーゴでのチトー崇拝の事象を覚えている。4歳の時には、パルチザン映画『ニコレティナ・ブルサッチ(Nikoletina Bursac)』(ブランコ・バウエル監督、クロアチアを代表する本監督の作品『面と向かって』(1963)は、シネマ・ユーゴでも上映している。本コラム(6)を参照)にユダヤ人少女の役で出演もしているので、パルチザン戦はおなじみである。ところが今回の旅でスロヴェニアのパルチザン博物館を訪れたアドリアナは、館員から戦中チトーは眼鏡をかけていなかったと聞いて、父の作り話に愕然とする。そして戦中のチトーの活躍を描く戦後ユーゴの劇映画の一場面を挿入し、チトーを演ずる俳優が眼鏡をかけていないことで示される。
 しかし、父も母もチトーの理想主義を信じてパルチザン戦に参じ、戦後ユーゴの社会建設に寄与した。しかし1960年代初頭の反ユダヤ主義の中で、父はでっちあげの罪による公開裁判の末、家族でドイツへ移住することを余儀なくされる。しかしアドリアナは、母や叔母、祖母ら一族がいたダルマチア海岸のラブ島の強制収容所を解放したイタリア兵と結婚してイタリアに住んでいた叔母のところに預けられ、休暇には両親を訪ね、十代になってからは寄宿舎に送られる。従ってアドリアナは数カ国語を自由自在に話す。
 かつて両親が住んでいたドイツの街グリセンを訪れたアドリアナは、父ヤクブの旧友から父にドイツ人の愛人が複数いたことを聞き、再び驚愕する。ぱっとしない容貌であった父が、常に自分より背の高いブロンド女性と親密にしていたことを聞かされるのだ。その愛人の一人は人妻で、その夫はヤクブのどこが魅力なのかわからなくて困惑してしまう。そして彼なりに出した結論が「それはヤクブがユダヤ人だからだろう。自分の妻が彼に惹かれる理由はほかにありえない」ということで、その夫は自分もユダヤ教に改宗しようとしたという父の旧友の言葉に、昨年のニューヨークのユダヤ系映画祭(私が初めて本作を見た)で観客は大爆笑していた。ほかにもユダヤ系ジョークがあちらこちらに散りばめられているが、ニューヨークに長く住む私もなぜ観客がそれほど笑っているのかその全部は理解できなかった。ましてや東京の上映では若干のユダヤ系観客を含んでいたとはいえそれほど笑いも起きなかったのは当然で、しかも映画の中の発言が多い場面では英語字幕が変わるのが早すぎたのは残念であった。
 旅を続けるアドリアナは、父の故郷スプリットのユダヤ寺院を二人の息子とともに訪ね、野外で自分の出ていたパルチザン映画『ニコラティナ・ブルサッチ』の上映をして家族や親戚に見せる。パルチザン戦中チトーがこもって会議を開いたという洞窟のあるヴィシュ島の観光案内を経験し、母の一族がいた収容所跡を訪ねる。そして裕福だった母の実業家の父親がザグレブに建てた当時は珍しかった八角形のガラス張りの邸宅が戦中独軍に没収された後、クロアチア共和国の財産となり、ユーゴ解体後返還を要求する訴えを起こしながらアドリアナは未だにその家を塀の外からしか見ることできない様子が写される。
 しかしザグレブでは嬉しい事実も明かされる。父は勤務する病院が国有化された時に放射線機材を個人に売ったという罪によって始まった1962年の裁判を戦い抜き、罪状を晴らしてからドイツに移住したという記録が当局側から出てきたのである。この件に関して、上映後の討論で司会をしたバルカン史の専門家の柴宜弘・城西国際大学客員教授は、ヤクブの裁判は権力ある者に対する反発というような政治的なもので、ハンガリーやチェコスロヴァキアに見られたような反ユダヤ主義に基づく共産党政府によるでっちあげ見せしめ裁判と性格が違うのではないかという見解を述べた。
 また観客の一人、コソボ大使館のエニス・ジェマイリ一等書記官が、コソボやアルバニアではユダヤ人を保護した人々がたくさんいて、ユダヤ人口が第二次世界大戦を通じて増加した唯一の場所であったという史実を紹介し、このような悲劇が再び最近のバルカン紛争やボスニア紛争で繰り返されたことが残念で、今の人々もこのような映画を見て第二次世界大戦の歴史を知るべきだと発言した。
  セルビア語を外務省研修所や朝日カルチャー・センターで教える岡島アルマさんはボスニアで生まれ、セルビアのベオグラードで育ち、日本に住んでいる。姉はイタリア、母はサラエヴォに住み、父はスロヴェニアで亡くなり、この映画の主人公の気持ちがよくわかったと言う。自分にもベオグラード時代ユダヤ系のボーイ・フレンドがいたが、当時は誰が何系かなんて考えなかったし、サラエヴォでは多民族多宗教が共存していたという旧ユーゴ時代の生活を紹介した。
 本作は、13歳になったアドリアナの下の息子がユダヤ教の伝統にのっとってバーミツヴァという儀式を行い、父の親戚もスプリットから駆けつける場面で終わる。場所は変わっても伝統は続けられるというユダヤ系の信仰の一場面を通じて、家族や親戚の絆が再確認される。観客はこの家族から彼らの宗教を通じてユーゴの歴史にまで思いを馳せるであろう。
 監督のシリングは、ニューヨークのユダヤ系映画祭でこの映画を作った動機を観客から質問されて「私の友人のアドリアナがあまりに面白い人なので、彼女についての映画を作りたくて彼女の旅についていった」と答えていた。東京での上映を機に現在どのような企画をしているか私がメールで質問をすると、第二次世界大戦後のドイツの文化に興味があり、戦後ドイツのテレビのヴァラエテイー・ショーの司会者たちの戦中の行動を探索することにより、ナチスの思想が戦後ドイツ社会に生き残っている事実を示せないかという仮説と格闘しているとの答えであった。

父を訪ねて三千里

 東京大学本郷キャンパスでは、『父 (Babai)』(2015年、104分、アルバニア語、ドイツ語;英語字幕付)が上映された。コソボ映画は、数年前に私がニューヨークのトライベッカ映画祭で会ったコソボ映画センターの若きデイレクター、アルベン・ジャルクさんから映画や製作者の紹介をしていただいている。今回はアルベンがこの作品を紹介してくれたので、まずインターネットで送られてきたリンクでシネマ・ユーゴの委員たちが作品を観て上映を決め、バルカン史を専門とする東京大学講師の山崎信一委員がこの春コソボに調査に出かけた時に製作者に会って、上映素材を受け取って来た。
 本作はセルビア軍が駐留する1990年代のコソボからドイツに移住した父を追う10歳の少年ノリを描くヴィサル・モリナ監督による劇映画である。因習と貧困に縛られる故郷の生活から逃れようと、命がけの非合法の旅の果てに西欧で難民としての不自由な生活を強いられる中で、父と息子が試練に遭うドラマがリアルに展開する。
 コソボと言っても知らない人が多いと思うので、この上映ではまずコソボ大使館のジェマイリ一等書記官のスライドによるコソボの歴史と社会文化の紹介をしていただいた。地図や年表を見せながら、1989年独立をめざし国連暫定統治を経て2008年独立したコソボの歴史を紹介したジェマイリさんは、突然「カエルの歌が聞こえてくるよ」と日本語で歌を歌い始めた。コソボの人たちは日本の経済や技術援助を多く受けていることを感謝していると、14歳で日本人から習ったというこの歌を通じて、コソボと日本の浅からぬ関係を紹介したのだ。そしてリオのオリンピックではコソボの選手が柔道で金メダルを得たことも紹介。続いて伝統的風物や風光明媚な山の写真を見せ、日本外務省によって、もはや危険地帯に指定されていないコソボへの観光に是非来てくださいと強調していた。
 そしてモリナ監督は1979年生まれ、15歳でドイツへ移民し、本作が最初の劇映画であることを紹介した。司会の私も、モリナが監督賞を受賞したチェコのカルロヴィヴァリ映画祭でのインタビュー映像を紹介した。
 上映後に山崎先生の解説があった。本作は1990年代コソボ紛争が本格化する前の、将来が見えない時代の閉塞感がリアルに描かれている。例えば主役の少年ノリの笑顔が一度もなく、必死に旅をした後のドイツでの父との再会場面でも彼は笑わない。またコソボの伝統的社会では父権制で家族のつながりが強い。映画でノリの叔父の意思に反して、結婚相手を決める家長の様子が見られるように、結婚は重要であり、現在でも地方にいけば、多くの場合親が相手を決めることもあるようだ。
 2014年から2015年にかけての欧州の難民問題が顕在化する以前から、旧ユーゴ、そしてコソボから西側への移民は経済的な観点から「ゲストアルバイター」というかたちで既にあり、最近の難民の辿るバルカン・ルートは以前コソボの人たちによって使われていた。コソボでは今も高い失業率が社会問題になっていると山崎先生は締めくくった。
 私は映画学研究者の立場から、ノリが見る窓の外の景色が、病院と難民センターにおいて同じ構図で繰り返されることや、ノリと父がドイツの電車の中で犬を可愛がる男をじっと見る場面の映像的表現を通じて、父と息子の関係が緊張したり緩んだりの変化をすることに言及した。またドイツで父がいつも自転車を引きながら息子と歩いているイメージがイタリアの戦後ネオリアリズム映画の『自転車泥棒』(1948年、ヴィッドリオ・デシーカ監督)を想起させることを指摘した。その映画も貧困が重要なテーマとなっている。しかし本作では自転車の乗り方を教えようとして息子がそれを望まず、無理強いされて倒れる場面があるのは父子の間の感情に亀裂も表彰している。観客の中にいた日本コソボ友好協会会長のミッキー・ハクシスラミさんが、映画の中では自転車は一度も乗るために使われていないことを指摘した。
 学生から、ノリが難民の一群と小さなボートでイタリア領海に入り当局の船が近づいてきた時、密輸業者が子供を海に放り投げる場面の理由がわからなかったという質問に、ミッキーさんは業者が難民に対して力関係を示すために威嚇したのだろうという見解を述べた。家族の絆の強いコソボの世界から身寄りのないドイツに父と息子が放り出された時の難民の苦節がリアルに感じられたという別の学生のコメントに、ミッキーさんは今では難民も携帯電話で自分のいる場所を調べたり他の人と常に連絡をとることができるが、1990年代に設定された映画の中では、ノリに同行する女性ヴァレンテイナは、固定電話でドイツに着くおおよその予定を、夫に言っておいたのだろうと推測。難民が到着する地点はよく知られていて、だいたい夜中、人目につかない時間に待ち合わせ、また旅の途中で妻の姿を見た人から話を聞いていたかもしれないとかなりリアルな説明があった。
 リュブリャナ大学のアンドレイ・ベケッシュ教授は、最初ノリを裏切っていたヴァレンテイナが、結局助け合って難民の旅を一緒に続けるという二人の関係の展開が興味深かったと述べた。それに対して、コソボ大使館のアーバー・メフメテイさんやミッキーさんは、実際にコソボでは生活が困難なため皆助け合っていたと主張し、上映会共催の東京大学現代文芸論研究室の沼野充義先生は、映画や小説は現実を必ずしもそのまま反映していないかもしれないが、それは芸術家の解釈であると指摘した。

悩める母

 4年前のシネマ・(ポスト)ユーゴで上映された『お父さん(Oca)』(2010年)の監督、ヴラド・シュカファル作品『ママ (Mama)』(2016年、90分、スロヴェニア語、イタリア語;英語字幕付)は、筑波大学東京キャンパスで上映された。ほとんど台詞のないこの映画では、薬物中毒の若い娘を、イタリアの田園の中の修道院に付属するコミューンのようなリハビリ・センターへ連れてきた母親が、自分も自然と対峙しながら心を通わせていく過程を詩的で静謐なイメージの中に描く。
 上映前にベケッシュ教授が、地図を見せながら映画の舞台になったのはスロヴェニア国境近くのイタリアで、スロヴェニア人コミュニテイがあることを解説した。
 個人的付き合いもあるシュカフェル監督については、詩人、映画評論家でスロヴェニア独立後できたスロヴェニア・シネマテークや、前衛的なイソラ映画祭の運営にも関わり、独自のスタイルを保持する作家と紹介した。
 上映後に司会の東京外国語大学講師イエリサヴァ・ドボヴシェク=セスナ先生が、自然や歌に癒されるというのはいかにもスロヴェニア的であるとまず口を切った。それからシュカフェル監督とスカイプで討論をした。監督は観客に自由にいろいろ解釈して欲しいとまず述べた。ジェマイリさんがこの映画は色彩の素晴らしさが、顕著で、後半の娘が島に座っているところを上から捕らえるカメラが次第にズンズン上に向かって行く印象深いシーンはどのように撮ったのかという質問をした。監督は、カメラマンが野心的にクレーンと望遠レンズを駆使して自分の知らないところで撮ったと答えた。また娘を助けるためにコミューンにきた母であるが、助けが必要なのはむしろ母ではないのかという観客のヴィヴィアン・青木さんの意見に対して、人を助けていると思っている時には実際に自分を助けていることが多いと監督はコメントした。そして製作者は母と娘が一緒に過ごしている場面をもっと描けと要請したが、それはむしろ陳腐なアプローチと思ったという。そこで手紙やアートによる母娘の間接的なコミュニケーションのほうがパワーがあると思ってそのように表現したが、観客の想像に委ねたいと強調した。
 この映画は最初に霧の中の年上の女性と若い女性のイメージが湧いたそうだ。今まで子供(2009年のドキュメンタリー『子供への手紙』)や父をテーマに作ってきたので、周囲が冗談のように次は「母」だねと言っていたので、それではと作ったと監督は言う。母を演じた女優ナターシャ・テイッツ・ラリヤンは自分の映画では珍しくプロの俳優で、しかも舞台の経験もある。彼女が時として老いた男や少年に見えることを狙ったそうだ。そして映画は単にストーリーを追う娯楽となる以上に、非常に自由なアートの形態であると持論を展開した。
 私もそれに同調する。映画の中で、娘は冬のジャケットを着ていたが外は雪が降るほどではなく真冬ではないが寒い季節という感じの一方、母親は薄手のシャツ、スカーフ、セーターのシーンが多く、暖かい季節を想起させた。時間を超えたものを監督が表現したかったのかもしれないが、それと同時に石で枯れ木を立たせようとしている娘の場面など、娘は寒くて不毛な印象の一方、水に身を浸す場面もある母親は、逆に開放的なイメージで、娘と対比されていたように思う。