今回で28回目となる東京国際映画祭に2015年10月、初めて参加した。コンペテイション、アジアの未来、日本映画スプラッシュ、特別招待作品、追悼特集等、部門も数多く、とても全貌を把握できそうもない大規模なイベントである。私は最初から、普段なかなか観る機会のない東欧と辺境の地の映画にしぼって見ることにした。一般にはあまりなじみのない国の映画も切符の売り切れが多く、映画祭開催中のみのことかもしれないが映画に興味を持ち、観る人たちが多い事実に嬉しくなり、これを機会に映画観客が日本でもっと増えることを願った。
『灼熱の太陽 The High Sun/Zvizdan』
まずは私が1970年代に留学していた旧ユーゴ地域の映画である。1975年クロアチアのザブレブに生まれたタリボル・マタニッチ監督の長編第2作目の本作は、クロアチア、スロベニア、セルビアの合作。1991年のクロアチア紛争から始まり、2001年、2011年の三つの時代のエピソードに民族対立の犠牲となったクロアチア人の男とセルビア人の女の愛がテーマで、三つの異なる時代の男女を同じ俳優(ゴラン・マルコヴィッチとティハナ・ラゾヴィッチ)が演じている。
1991年版では、それぞれが隣り合う村に暮らす若い恋人同士のイヴァンとイエレナは、一緒に村を出る直前にイエレナの兄サーシャに差し止められ、イヴァンが敵兵に殺されるというストーリーだ。敵対する民族が隣り合って暮らす村では、軍隊が組織されて不穏な動きが漂う。それまでは仲良く暮らし、言語もほぼ同じ人々でなのだが、一気に民族憎悪が沸騰してしまう。サーシャもイヴァンを殺す気はなかったが、他の仲間が先走って銃を撃ってしまった。この手の話は紛争地を描く映画に常套で、私はまたかと思ってしまった。
2つ目の2001年版エピソードはそれより興味深い。戦乱でほかの土地に追われていた母と娘ナターシャが久しぶりに家に戻ってくるが、家の中は荒れ果てている。近くの墓地には戦死したナターシャの兄の墓もある。母は土地の若者アンテを修理人として雇う。母はアンテと親しく話すようになるが、ナターシャはアンテに対してよそよそしく、敵意さえ見せる。しかし小さな村の小さな空間で時間をともにする若い男女の性的緊張感は明らかだ。ナターシャが常に不機嫌なのも、アンテに男として惹かれながら、かつての敵として許すことのできないフラストレーションに依るものに違いない。健康で勤勉でもの静かなアンテを母は娘に勧めるがナターシャはとりあわない。しかし工事が終わり母の留守中にナターシャはアンテに文字通り飛びかかる。二人の愛の行為の後、ナターシャは再びつっけんどんとなる。アンテは工事費を受け取らずに去る。民族間の憎しみは1度の衝動的性交では埋められないということだろうか。
3つ目の2011年エピソードは、かつての恋人マリヤを訪ねる大学生ルカについてだ。久しぶりに実家を訪ねるルカと両親の話から、彼の母がルカとマリヤの交際を引き裂いた事が匂わせられる。1つ目のエピソードで敵の男と村を脱出しようとする娘を応援するイエレナの母とは対照的で、紛争地では恋人たちの家族もさまざまな思いをしたことが想像される。村の反対側にひっそりとあるマリヤの家を訪ねたルカは、冷たい応対を受ける。子供が生まれながらマリヤのもとを去ったルカをマリヤは許す事ができないのだ。しかし翌朝戸口に眠るルカを見てマリヤは扉を半開きにする。この二人が和解の方向へ進んでいることが示唆され、観ていた私も安心した。
本作は2015年カンヌ国際映画祭「ある視点」部門で審査員賞を受賞したそうだ。しかし、私にはバルカンでは民族対立が日常的となり個々の男女の愛もむしばむという題材に、新しいものを感じられなかった。
『ボデイ Body/Cialo』
1973年にクラコフで生まれたマウゴジャタ・シュモフスカ監督はポーランドのベテラン女性監督である。本作で2015年ベルリン映画祭の最優秀監督賞を受賞したほか、国際映画祭での受賞歴も数々ある。主役のセラピストでかつ超能力者アンナを演ずるマヤ・オフタシェフスカもベテラン俳優だ。
検死官の父を持つ若い女性オルガは母の死後に父との関係が悪くなり、拒食症となってアンナのセラピーを受けている。アンナのセラピーを受けているのは一団の若い女性たちで、身体を動かしながら自分の肉体についての意識を高め、そこから精神の問題をつきとめ解放しようようとするもののように見えた。
オルガの父はいつも死体ばかりみているので、死体を見ても無感覚になっていて検死官として職業的処理のみを行っている。娘のことも理解できず、アンナのセラピーも超能力も馬鹿にしている。しかし父は机の中に死んだ妻からの自分宛のメッセージを発見して驚き、死んだ霊を呼ぶというアンナの儀式にオルガともに参加する。
久々のポーランド映画で私はものすごく期待していた。そのせいか、この映画は物足りなかった。死体を検分するオルガの父の仕事からもう少し生と死を見つめる何かが出てきてもよさそうだし、アンナの身体を使うセラピーには特に新鮮味がない。さらに、何かを強烈に訴えたいという欲望が感じられない映画で、その意味であっさりしすぎていた印象を持った。
『家族の映画 Family Film/Rodinny film』
チェコの有名な映画大学FAMUを卒業したオルモ・オメルズは1984生まれ、スロベニアの首都リュブリャナの出身で、本作はオメルズの長編2作目である。旧ユーゴ時代からFAMUに留学した映画作家は、エミル・クストリツアやゴラン・パスカリェヴィチなど数多く、ポーランドのアグネシュカ・ホーランドも1960年代の反ユダヤ主義で国内の映画学校に入ることができずこのFAMUを卒業している。オメルズを「チェコの新しい世代の監督」とチェコ映画界が誇りにしている様子が微笑ましかった。
登場人物は広いアパートに住む中年夫婦、高校生のアナ、中学生のエリクと愛犬のオットーである。夫婦が子供たちは置いて、犬を連れて一足先に海外に休暇に行ってしまった留守中に、エリクは学校をさぼり始め、南太平洋でヨットに興じている両親はスカイプで連絡を受け、夫の弟マーテンにエリクの世話を頼む。そのうち両親は海上で遭難し行方不明となるが、救出される。しかし肝炎となったエリクに対する肝臓移植をめぐって夫婦の秘密が浮かび上がる。
子供に対して理解がある両親、素直でよい子供たちから成る理想的と思われていた家族に亀裂が生まれるが、この家族が再び家族として再生できるかが見所となる。この映画の後半で夫婦と旅をしていて海の遭難で生き別れてしまった犬のオットーが波の合間を泳いで離れ島にたどりつく。飢えや雨露をしのぐオットーの艱難辛苦が延々と描かれていく。海や森の音や犬の悲しそうな声のみで、台詞がないこの長い長い場面はサイレント映画のようで、視覚面のみに神経が集中するので海岸の砂や雨に濡れる森の中に絡むつる草をしげしげと眺めることになった。
結局最後に救出されたオットーがばらばらになりつつある家族を一つにまとめる役割を果たしそうだというところで映画は終わる。メイン・コンペ部門に出品された本作は最優秀芸術貢献賞を受賞したが、犬が大活躍したからだろうか。この映画も久々のチェコ映画、私の特別の思い入れのあるスロベニアの監督で期待しすぎたせいか、見てみるとあまりに淡々としているので拍子抜けしてしまった。
『カランダールの雪 Cold of Kalandar』
本映画祭で最も感銘を受けたのは2本のトルコ映画のパワーだ。『カランダールの雪』のムスタファ・カラ監督は1980年生まれ、ドキュメンタリー作品が多い。本作は長編2作目で、あたかもドキュメンタリーのような印象もところどころ受ける作品である。舞台は「黒海近く村」と解説にあったが、海辺というよりは山の中の村のような感じであった。登場人物のほとんどは、粗末な家に住む5人の家族だけで、この5人が雪の多い過酷な自然の中で生活する閑談な時間のリズムが主題のような映画だ。139分の上映時間は確かに長い。直径20センチぐらいの殻をかぶったカタツムリがびっしりと上から下まで張り付いた扉の家の中には電気がなく、常に暗い。そのせいか、この映画はモノクロ映画であったような記憶を私は抱いてしまった。一家の慎ましい生活をじっと見つめるミニマリズムに徹した作風が強烈で、監督の「この時間の流れが必要なのだ」と言っているような意思が、長いなあと思いつつ納得もできてしまう気がする。それほど監督の熱情が感じられる作品だ。
貧しさの中で懸命に働く妻ハニフェ(ヌライ・イエシルアラズ)を顧みず、夫のメフメット(ハイダル・シシマン)は金鉱探しに没頭している。十代前半の上の息子イブラヒムは賢く、祖母とともによく働いて家計を助けているが、次男のムステイは精神障害を病んでいるようだ。金鉱探しの夢が一段落すると、村で耳にした闘牛の賞金を狙ってメフメットは今度は牛の訓練を始める。その成果が出て競技会でよいところまでいった牛が決戦の前に行方不明になってしまう。
霧のかかる山の中を、草をかき分けながら牛の名前を呼び必死で探すメフメット。そしてハニフェとイブラヒムもそれに続く。留守番をしていた祖母も見かねてムステイを置いて牛探しにでかける。観ている者は、ムステイが一人で外に出たときから、この子がどこかでよろけて死んでしまう悲劇で終わるのではないかと予測を始めてしまう。
しかし結末は意外にもハッピーエンドであった。牛が見つかっただけでなく、牛が閉じ込められ動けなくなっていた穴に降りたメフメットは、そこで金鉱をみつけるのである。夢を追うメフメットは何も見えなくなっていて夢遊病者のようで、非現実的な夢を追い続けるメフメットには観ていて苛々させられる。それでも家族は不満を言いながらも家長を助ける。その家族の絆が厳しい自然の中で浮かび上がる。
メイン・コンペ部門で上映された本作は最優秀監督賞とWOWOW賞を受賞した。
『錯乱 Frenzyt/Abluka』
同じくトルコのエミン・アルペル監督は1974年生まれ。経済学と歴史学を収めて博士号をとり、イスタンブール工科大学で教鞭をとるインテリである。長編1作目の『Beyond the Hill』(12)がベルリン映画祭の新人に与えられるカリガリ賞などを受賞しているが、2作目の本作もヴェネチア映画祭審査員特別賞を受賞して本映画祭での私の周囲の評判もすこぶるよかった。重厚な心理的スリラーである。
テロが多発する都市の情景から映画は始まる。監獄からあと1年で刑期を終える囚人カディル(メフメット・オズギュル)に警察の高官のハムザ(ミュフィット・カヤジャン)が白羽の矢が立て、条件付きで釈放する。その条件とは、ゴミをあさって爆発物などのテロ行為が疑われる物質を探し出してテロリスト被疑者をリストアップすることである。
カディルが19年ぶりに再会する弟アフメット(ベルカイ・アテシュ)は市役所で野犬狩りの仕事についていた。妻子に逃げられ孤独な生活を営むアフメットは、なぜか兄とあまり打ち解けない。ある日撃ち損ねた犬が家の前にいるのでアフメットは招き入れて看病し、情が移ってジョニーという名前をつけて可愛がる。それは明らかに法律違反で、そのことで彼がこそこそしているらしい。
アフメットに紹介された親切なアリとメリル夫妻の住む家の2階にカディルは間借りするが、美しいメリルに何となく関心を抱き、階下の音を床に耳をつけて盗み聞きする。メリルはこっそりアフメットを訪れているらしく、それもアフメットの打ち解けない理由のようだ。
カディルは仕事に励み、ゴミをあさって近所の八百屋が怪しいなどと、詳細なレポートをハムザに提出する。しかもカディルとアフメットの間にいて行方不明になって久しい真ん中の弟はどうも反政府運動をしているようだ。いつも近所でオートバイを飛ばしている男がどうも彼らしいのだが、彼の顔ははっきりと見えず、呼びかけても答えないのだ。
しかしカディルの行動が妄想から来ることなのか現実なのか、その境界線をこの映画は繰り返し曖昧なものとしている。彼が起きると夢だったという構成が続くのだ。それは誰がテロリストなのかわからない不安感、誰でもテロリストに仕立て上げてしまう強引で恣意的な権力者とそれに協力せざるを得ない者の不安感の表現のように思われた。
曇りの日の多い撮影で、都会の片隅で慎ましい庶民が暮らす街角は人通りがなく暗い。暗色で包まれた街には、明るい色調がないのだ。カディルの夜の行動も多く、悪夢をみているようにも感じる。街全体が捕われているような状況なのだ。人々は物音も立てるのもはばかられ、ひっそりと暮らしている雰囲気だ。しかしその内面は、何かがくすぶっている気配の不安感が、巧みに映像化されていた。そして最後には、警官隊がアフメッドの家を囲み、アリとメリル夫婦もテロリストの一味とされてしまう。カディルは街の人々に囲まれて処刑される。しかし、これもカディルの悪夢なのか現実なのかはっきりしない。
私は映画祭が設置していた関係者のためのカフェで偶然本作のアルペル監督とその製作者の男性と、隣り合わせとなって話をした。本作の俳優は地味だが渋くてよい味を出しているので、アマチュアかどうか尋ねてみた。監督によれば、俳優はみなプロだが、あまり知られてない俳優が多いそうだ。そして、アフメット役は舞台の役者で映画にはあまり出ていないとのことだった。私が夢と現実がはっきりしない構成が良かったと言うと、監督も製作者もそれには特に反応せず、期待はずれであった。
私には、イスタンブールの大学で映画学を今年まで数年教えていたアメリカ人の友人がいるが、かねてからトルコの刑務所には数多くのジャーナリストが監禁され、言論の自由の保証が懸念されるということを聞いていたのだ。私はトルコの言論弾圧の実態については詳細を把握していない。しかし、パリでの11月13日テロ事件のあとの、日本政府の対応を見ていると、この映画がひどく現実的に思えてくる。
最後に、東京国際映画祭に初めて参加して感じたことは、メイン・コンペをはじめとする上映作品の質の問題である。『錯乱』のような招待作品は一応のレベルを保っている。またメイン・コンペでも『カランダールの雪』は欠点もあるが、すごいパワーで私は圧倒された。このような作品が上映されてよかったと思っている。しかし、「なんでこれが?」と思うような作品も多い。それは東京映画祭がコンペにこだわるからだと思う。コンペは通常プレミア上映(世界初上映)でなければいけない。またコンペ以外の部門でもプレミア上映と決めている映画祭もある。しかしカンヌ、ベネツイア、ベルリンの世界最高の映画祭をやめて東京のコンペに出そうという映画人はいないだろう。前述3つの映画祭の次に来る第二ラウンドのサンセバスチャン、ロッテルダム、ロカルノなどの映画祭で落とされた作品しか来ないという現実もある。アジアでは釜山や香港のほうがずっと評判がよい。
東京映画祭も発足当時はバブル時代でもあり新人を対象にしたコンペに多額の賞金がついて、世界中の新進映画人が応募してきてそれなりの話題になった。しかしその制度もなくなり、現在はそこそこの賞金付きの通常のコンペである。コンペがなければ世界で一流の映画祭とみなされないと思っているのは明らかに間違いだと思う。
ニューヨーク映画祭は最初からコンペがない。コンペをしないことにより、プレミア上映にこだわらなくてよいので、良質の作品を持ってくることに集中できる。カンヌ、ベネツイア、ベルリンなどで話題となった現在世界で一番人々の関心があり、映画として最高水準にあると思われる作品を上映することができるわけだ。現在北米で最も重要な映画祭の一つとされるトロント映画祭も、カナダ映画部門と観客賞以外にコンペはなく、それによって質の高い映画を集めることができて評判になってきたのだ。
世界の最も話題になっている映画を上映することが、真に観客のためになることだと思う。またニューヨーク、トロントといった重要な映画祭は映画会社も注目しているので、上映には監督やスターを派遣して盛りあげる。重要な映画祭と認識されれば映画界の協力も得ることができるのだ。しかし、そもそも日本はハリウッドにとって切符売り上げ額の多い重要なマーケットである点から考えても、東京の映画祭に協力しないはずはない。
とはいえ東京国際映画祭にも期待できる点がある。今年はアジア部門の充実に目を見張るものがあったし、日本映画を積極的に紹介しようという意欲も見ることができた。この方向で頑張って欲しいと願っている。