(21)ニューヨーク映画祭での東欧
[2015/10/30]

 毎年9月に入るとニューヨークでは様々な文化的催し物が並ぶ。夏はニューヨークを離れて休暇に入っている人も多いので、どの文化団体も9月初旬の連休明けから一挙に催し物を始める。ニューヨーク映画祭は(詳細はこちら )9月末から10月初旬まで約2週間、リンカーン・センターを会場に開催され、今年(2015年)は第53回を迎えた。本映画祭にコンペ部門はなく、本来はカンヌ、ベルリン、ヴェネチアの各映画祭で話題になった作品を中心に選りすぐられた20数本の新作をじっくり見せるものであった。この10年ほどで会場が増え、メイン部門のほかに特別部門、ドキュメンタリー、実験映画、回顧展、新しいテクノロジーを紹介する部門、また映画作家による講演も数多く、とても全貌を追いきれない忙しい映画祭となっている。
 私が注目する東欧や旧ソ連邦共和国からの作品は、今年はメイン部門でルーマニアのコーネリウ・ポルンボイウ監督の『The Treasure/Comoara(財宝)』(詳ドリー・ベル1細はこちら)、特別部門でハンガリーのラスロ・ネメシュ監督の『Son of Saul/Saul fia (サウルの息子)』(詳細はこちら) の2本であったが、その2本とも映画の可能性を探求する野心作であった。また、ドキュメンタリー部門では、セルビア出身のイヴァ・ラジヴォエヴィチ監督が欧州の難民の実態を描く短編『Notes from the Border (国境から)』(詳細はこちら)が紹介された。

財宝探しの巧みな話法

 NY映画祭ではおなじみのポルンボイウ監督。私も彼の作品については当コラム(11)と(13)で書き、2008年にブカレストでインタビューをした記事もある。本監督は1975年生まれの今年40歳。本作品は長編5作目で、舞台は現代のブカレドリー・ベル2ストである。役所で働くコスティ(トマ・クジン)は6歳の息子と妻と平穏に暮らしている。ある夜、隣人のアドリアン(アドリアン・プルカレスク)が訪ねてくる。ルーマニアが第2次世界大戦後、共産党政権になった時、裕福だった祖父が財産をこっそり裏庭に埋めたものがそのままになっているので、一緒に探そうという提案である。祖父の家はブカレストから3、4時間車で行ったところにあり、宝探しに必要な金属探知器を扱う人を雇うお金がアドリアンには払えず、コスティに協力を頼んだのである。
 金に困っているアドリアンの言っていることは信用できないだろうなあと私が思いながら見ていると、思慮も分別もありそうなコスティが見事にアドリアンの言葉に乗ってしまうのだ。コスティの貯金では払いきれない額の経費なので、彼は妻に義父から借金をするように頼む。コスティに輪をかけて堅実そうな妻がそんな誘いに乗るのかと思って見ていると、何と次のシーンでコスティは金属探知機操作を依頼しに行くので、妻が借金をしたことがわかる。こうして次々と私の予想は裏切られて行くのだ。妻は、アドリアンの祖父の家のある村は、19世紀になって先進国に留学体験のある富裕層の大地主たちによって近代化革命が起こった場所なので、ほかに財宝がある可能性もあるとまで言い放つのだ。こうして財宝探しにつきものの胡散臭さに信憑性が加えられていき、観客は財宝の存在の可否を簡単に推測できなくなってくる。
 金属探知機操作の費用は高く、また第二次世界大戦前のルーマニア製のコインや紙幣は国家財産として警察に届けなければならず、美術館に納められてその価値の三割しか還元されないという法律があることも、コスティは説明される。事務所を出たところでコスティはそこの小使いのような男、コーネルに話しかけられる。コーネルはこっそり週末にこの仕事を半額で請け負うし、警察への届け出も不要と持ちかける。こんなコーネルに頼んで大丈夫なのかとまた私は心配になるが、次のシーンでは既にコーネルが雇われて現場に向かっている。
 アドリアンの祖父の家の裏庭でコーネルが金属探知機を取り出して神妙に動かしていくと、ブザーが鳴り始める。金属探知機自体が眉唾物ではないかと私は思ったのだが、コンピューターと連動していて金属の質によって異なる数値が表示されるなどとコーネルが説明し、かなり高度なハイテクもののようである。しかもコーネルは二種の機械を見せて、その二つをもっともらしく使い分けるのである。探知機がブーッという音を発するたびに、観客はその原始的で間延びした音に笑ってしまっていた。
 狙いを定めてアンドリアンが土を掘り返し始める。2メートル掘っても何も出てこないので、コーネルは帰ってしまう。残された二人は夜になっても掘り続ける。そしてかなり深く掘ったところで金属製の箱が出てくるのだ。しかし箱が開かないので、二人はブカレストに戻って開けることにする。
 二人が車を出そうとしているまさにその時にパトカーが現れるので、観客は大笑いになった。近所の人がこの家の庭の不審な動きを報告したようだ。警察で箱が中々開かないので、近くのプロの泥棒が呼ばれて箱を苦心して開ける場面では再び観客は爆笑となった。箱の中には何やら大きな紙が束になって入っている。ドイツで出稼ぎしていた泥棒だけがドイツ語を読め、これはメルセデス・ベンツ社の社債だと告げる。ドイツ製のものならルーマニアの国家財産にはならないはずだとアドリアンとコスティは主張して、二人は中身ごと箱をブカレストへ帰る。共産党時代にアドリアンの祖父の立派な屋敷は政権に没収されたが、闇の賭博場となっていたことをアドリアンは話す。
 こうしてこの映画のストーリーは紆余曲折し観客の杞憂をよそに進行するのが見事である。心配性の私はこの社債がもう価値がないということで映画が終わるのではないかと危惧し始めたが、何と二人はこの社債が莫大な財産に匹敵することをメルセデス・ベンツ社のルーマニア支社で告げられる。ここで宝探しの物語の定石である二人の仲違いも起こらず、二人は仲良く社債を山分けする。手始めにコスティは宝石店へ行き、たくさんの宝石類を買い込む。妻へのプレゼントだろうか、ここで妻とひともんちゃくという意外な展開になるのだろうかなどと思っていると、またここで私は肩すかしを食わされた。小汚い箱の中にざくざくと宝の山が入っていないことに失望した息子のために、コスティは光り輝く宝石類を買い求めたのであった。これを公園で遊ぶ息子に見せて、集まってきた子供たちにも分けるところで映画は終わる。
 このような結末を迎えると、それまでの話の展開もどこか寓話的である。しかし音楽を使わず、センチメンタルな感情移入の余地を与えないこの監督の作風は本作でも引き継がれている。登場人物に対する距離感が乾いたユーモアを生み出してもいる。さらに、出演する俳優がみな、ルーマニア映画の数々を見ている私さえ認識できない新しい顔なのだ。この点は映画祭の試写会場でよく顔を合わすルーマニア人の映画評論家も、同じ理由でこの作品はルーマニアの観客にとっても新鮮な印象があると言っていた。

アウシュヴィッツの恐怖

 ルーマニアの地方都市で生まれ育ったポルンボイウ監督に対して、ネメシュ監督は1977年ブタペスト生まれで映画監督を父に持つが、子供の頃一時パリで過ごし、NYにも留学していた国際派の38歳だ。ハンガリーを代表するベラ・タール監督のもとで2年間働いていたほか、短編を何本か撮っている。長編第1作の『サウルの息子』がカンヌ映画祭で最高賞のパルムドールに次ぐグランプリを受賞して、一躍国際的注目を集めることになった。
 第二次世界大戦中のナチス・ドイツによる強制収容所を描く映画は数多くある。上映後の記者会見でネメシュ監督は、幼少の頃アウシュヴィッツで亡くなった祖父ドリー・ベル1母のことを聞き、収容所の映画を作ることを考えていたが、この映画では今まであまり描かれなかった「ソンデルコマンド(Sonderkommando) という囚人の屍体処理係に焦点を当てたと言う。屍体処理係は一般の囚人よりいくらか食べ物と待遇がよいが、通常数ヶ月で殺される。彼らは到着した人々をガス室に能率よく誘導して、ガス室の扉が閉められるやいなや人々の衣服から宝石や金目のものを探し出して集める。ガス室から阿鼻叫喚が聞こえなくなると、屍体を積み上げ、ガス室の床と壁を掃除し、屍体を焼却炉に運び、灰を河に捨てるまでの作業をものすごい早さでしなければならない。皆脇目もふらずに駆け足でこなすその仕事の細部が、映画の冒頭で紹介される。このソンデルコマンドのサウルを演じたゲーザ・ローヒグは、同胞の始末をするというこの仕事ほど人間の尊厳を奪い残酷なものはないと記者会見で述べた。
 そして映画を通じて、主人公のサウルやサウルと話す人々以外の周囲の風景やもの、人には意図的に焦点がはずされてぼやけている。この手法について監督は、サウルにとって次の瞬間は何が起こるかわからない状況を映し出すものだと説明した。人間の生命があまりに大量に簡単に恣意的に奪われる日常にさらされる主人公の体験がこうして展開する。
 その中でガス室から出されても呼吸を続ける8歳ぐらいの少年に、サウルの目が釘付けとなる。その後、この少年は医師によって殺され、検体にまわされるのだが、サウルはこの少年が自分の息子だと周囲に言ってユダヤ教の教義にのっとって埋葬することに執着する。まずハンガリー人の医師がこっそり検体後5分間だけ一緒に時間を過ごすことを手配するとサウルに約束するのだが、このこと自体規則違反で、もし見つかったら医師もサウルも生命が危ないのだ。サウルは少年の埋葬という目的の前で、次々と周囲の人々を危険にさらしていく。
 この映画ではサウルが少年の埋葬をできるかどうかという点がサスペンスとなるが、劇法上それを達成するために、サウルは生存を続けなければならない。従って手に汗を握る状況が続きながら、サウルだけは殺されずに生存していくところがご都合主義にも思えるが、実際に生と死の境界線は限りなく恣意的で偶然に支配されたなものであったのだろうとも思わせる。実話を基にしたポーランドのアグネシュカ・ホランド監督の『僕を愛したふたつの国/ヨーロッパ ヨーロッパ』(1990)を見ても、ユダヤ系の主人公はまさにもう終わりという危機に際して一回ならずとも偶然に爆撃が起きたり、兄に再会したりして救われるのである。
 サウルは埋葬で経文を唱えるユダヤ教の牧師を探すのだが、そのために看守を買収し、弱みを握って脅し、または仲間をひたすら情熱で説得する。こうして巻き込まれていくほかの囚人や看守は次々と生命を落としていくのだが、サウルは一瞬もひるまない。「死んだ者より今生きている者のことを考えろ」とサウルに言う仲間の台詞があるが、サウルにとって周囲の人々の状況は見えないのだ。
 折しも収容所では囚人の蜂起と脱走計画が進んでいるが、サウルの個人的な目的はこの集団の利益と相反するものである。しかもその少年がサウルの息子なのかどうかも曖昧なのだ。仲間はサウルに「お前に息子なんていないじゃないか」というのだが、サウルは「妻からは生まれていない」と言う。
 そうなると、この少年はサウルの私生児という可能性もありそうだが、この息子という少年の存在は象徴的なものかという観客からの質問に、ネメシュ監督は非人間的環境で人間の尊厳を求めたサウルの願いという意味だと答えた。ローヒグは、収容所からの解放には物理的に桎梏から解かれることがまずあるが、それ以上に絶望的状況の中で他人のために何かすることで精神の解放という意味合いもあり、人間らしく少年を埋葬することこそサウルにとっての魂の救済で解放なのだと思うと述べた。
 主人公の周囲をぼかす視覚デザイン効果など、芸術家として史実をどこまで自分のスタイルとして変えていくのかという質問に対して、ネメシュ監督は収容所に関する記録を読み、生存者の話を聞いて細部までリアルに再現した。特に囚人がどのような場面で帽子を取ることを強要されるかなどの規則を調査し、史実の基本からはそれていないと答えた。また映画の中でサウルに同情を寄せる医師の役は、収容所のドイツ人医師で人体実験でも知られるヨーゼフ・メンゲレの助手を務めたトランシルヴァニア出身のハンガリー人医師が実際にいて、この映画のモデルとなっているとも述べた。
 本作の音の処理に非常に感銘を受けたという観客からの感想に、監督はこの映画では機械の音や人々の声が氾濫しているが、音源はあまり示されていない、すべてを説明するよりも観客の想像力を刺激することを目的としたと答えた。さらにサウルやその仲間はお互いに名前も知らず、あまり完全ではないイデイッシュ語を話しているが、ドイツ語ほかハンガリー語、ポーランド語など8カ国語が喋られている。その言語の混乱状態がそのまま収容所の混乱した雰囲気であるとも述べた。。
 収容所を脱出したサウルは布で覆った少年の遺体を抱え、河岸で埋めようとするも時間がなく河に遺体を持って入る。そして河の波にその遺体をさらわれてしまう。対岸についたサウルと何人かの仲間は森の中に逃れ、一瞬の休息を小屋の中でとる。扉の向こうに近隣の家から来た少年の自分たちをじっと見つめる姿を見て、サウルが初めて微笑む表情がクローズアップで捕らえられる。その金髪の少年は死んだユダヤ系の黒髪の少年と似ても似つかないのだが、おなじ少年である。しかし少年が森に駆け出した後、顔は見えないがドイツ兵の一団が来て少年はその一人に口をふさがれる。カメラはその位置に留まったまま銃声が響き、我々はサウルたちの運命を推し量ることになる。
 私は強制収容所のような人間性を抑圧した状況の狂気の中では、サウルのような狂気しかなかったのではないかと映画を見ながら考えていた。血も繋がっていないかもしれない少年を人間らしく埋葬したいという願いはあまりに人間的であり、その人間性こそがアウシュヴィッツのような途方もない狂気の氾濫の中ではむしろ狂気であり、狂気に特有な強靭さをその中で発揮しているのだ。
 ローヒグはNYのラジオ局のインタビュー(詳細はこちら)で興味深いことを話している。今思うと、自分のこれまでの人生がこの映画でサウルを演ずる準備を着々としてきた結果となっていると言うのだ。4歳で父を亡くした彼はハンガリーからポーランドへ渡り、19歳の時に初めてアウシュヴィッツを訪ねた。そこで深い感銘を受けて近くに住まいを借り、1ヶ月毎日収容所に通った。その体験を処女詩集として出している。その後小説を書いたり映画に端役で出たりロックバンドを組んだりしていたが、NYのユダヤ教学院に留学して以来、15年間NYに住み、4人の子供の父となった。少年をきちんと埋葬したいというサウルの気持ちは崇高なもので、その瞬間からサウルは幸福な人間になったと思うとローヒグは語っている。そして、人類の蛮行はナチスの時代で終わっていない。カンボジア、ルワンダ、そしてイスラム国と現在まで世界中で蛮行が続いていると彼は訴えている。それゆえに『サウルの息子』には実に今日的意義があるのだ。

難民の日常を捕らえる

 ドキュメンタリー短編『国境から』を紹介したのは「Field of Vision(フィールド・オブ・ヴィジョン)」という製作会社である。CIAの情報収集活動を暴露したエドワード・スノーデンをインタビューした作品『シチズンフォー(Citizenfour)』で本年度のアカデミー賞長編ドキュメンタリー賞を受賞したローラ・ポイトラスが、映画作家のA・J・シュナック、ドキュメンタリー映画のプログラマーのシャーロット・クックと共同で先月(2015年9月)発足したばかりである。世界で話題となっている題材を短編ドキュメンタリーとして新人を起用して製作し、1年に40〜50作品の製作をめざす。この斬新な企画はNY映画祭で紹介され、同時にインターネットでも配信された。
 その第一弾2本のうちの1本が、イヴァ監督の9分の短編である。ドイツをはじめとしてEUの国をめざす中東からの難民の大群がトルコ、ギリシャ、マケドニアドリー・ベル2、セルビア、ハンガリーと国境を越えることで各地の政府や住民の非情な対応が世界の注目を集めた。そしてどのように難民に対処したらよいのかという問題が欧州を超えた先進各国に問われている。マスコミのニュース写真や記事では捉えきれない国境の緊迫した現場の様子や難民の寝起きする日常生活が、この作品では生々しく描かれている。
 本作はギリシャ国境に近いマケドニアで始まる。最初のイメージは列車の窓から外を見る少年である。画面が黒くなり、字幕が場所と時間、難民が続々と到着してマケドニア政府が非常事態を宣言したという概観を説明する。時は2015年8月である。その映像が編集されて一ヶ月後にはもう地球の反対側のNYで上映され、ネットで世界中の多くの人々が見ているスピードにまず私は驚いた。今やテクノロジーはこのようなことを可能にしているのだ。
 線路に溢れ出た難民たちの中には若者もいれば、ベールを被ったムスリム系と思われる女性たちや子供もいる。彼らに指示を与えている警官が次第に強硬な態度になり、騒動になったと思ったら、カメラが激しく傾き画面が黒くなる。撮影禁止の指示が警官から出される音声が聞こえる。
 次の場面はトルコ国境に近いギリシャのコス島である。海岸に早朝到着する小さなボートから上陸する数人の難民たちは警官に点呼され、臨時に収容されるホテルへ向かう。Nというシリアからの難民の男性が戦乱を逃れてきた身の上を話す音声が流れる。
 ホテルではマットレスが並べられているだけの簡単なものであるが、ここで私は5年前の東日本大震災後の避難所の映像を思い出してしまった。当たり前のことが当たり前ではない状態になると、屋根があって寝られる場所、水と食料という生きていく基本のものがいかにありがたいか見ていて痛感される。今や難民を扱う業務をマフィアがしきり、料金は高いが身の安全は保障されないことがNによって語られる。この島は観光地なので、テニスをしたり自転車に乗る観光客風ののんびりとした人たちが難民と一緒に道を歩いているのが何とも奇妙である。難民の中で運のよい人たちは書類が整ってギリシャ本土へ向かい、旅を続ける。
 トラックで運ばれているうちに窒息死したり船が難破して溺死した難民の事件を、字幕が伝える。そして映画はセルビア国境に近いハンガリーへ移動する。この田園地帯では、舗装された道を何人かの難民が歩いている。字幕が「Nは既にここに到着していた」と出て私はほっとすると同時に、Nの今後の旅の無事を思わず祈った。
 イヴァ監督のインタビューを読むと、彼女は幼少の時にバルカン紛争を逃れて家族とキプロスに難民として移住している。その体験を『Evaporating Borders(蒸発する国境)』という長編ドキュメンタリーにして、注目をされた。今回の企画では当初アメリカの軍事産業についてのテーマを与えられたが、諸事情でそれが実現できなくなり、折しも世界で難民のことが話題となり始めたので難民のテーマで短編を作ることを彼女の側から製作者に提示したそうである。
 難民の直面するあまりの現実の絶望的状況に、イヴァは「自分は何ができるのだろうか」と問い続けていた。情報を伝える以上のことをしたい、記録というよりは、自分が何を感じているかを伝えたかったと言う。そのために、まずインタビューをしないことにしたそうだ。自分は難民たちに寄り添い、自分が体験したことを映像で表現しようとしたと言う。Nをはじめ12名の難民グループと知り合い、2週間寝食をともにした。また彼らとビリヤードや海岸やクラブに一緒に行ったそうだ。それだけに、Nたち難民が直面する不安やフラストレーションが、私には画面から感じられた。
 このインタビューを読んだ人が、「難民がビリヤードやクラブに行くんだろうか。お金はどうするのか。自分が知っている難民はそれどころではない」と書き込みをしていた。すると別の人が「難民といっても、日常生活的な楽しみがなければ息がつまってしまう。現在中近東から来ている難民の多くは中産階級なのだ。国を出れない人たちはもっと悲惨だ」というコメントを書いていた。そう言えば映画の中でNは「GPSで自分たちのいる位置を調べる」と言っていた。難民の人たちがGPSを使っていることは、ニュースでも読んでいたが、ああこの人たちはスマートフォンかタブレットを持っているのだ、そういった機材を買える金銭的余裕がある人たちなのだ(必死の思いでお金を貯めて買ったのかもしれないが)と私は思った。
 ここで私が思い出したのは水俣病を描く1970年代の土本典昭監督のドキュメンタリーのシリーズの作品である。確かに水俣病の患者さんたちの病状は悲惨である。しかし彼らにも日常生活があり、漁師のおじさんが海に行って蛸を釣り上げた時の喜びの表情も捕らえられ、それを見て私はほっとした。彼らの喜怒哀楽の「喜」や「楽」の部分も描かれていたからだ。それは新潟阿賀川の水俣病の被害者を描く佐藤真監督の『阿賀に生きる』(1992)でも、患者さんたちの日常生活が綿密に描かれていた。それだけに水俣病の悲惨さが声高に言わなくても静かに湧き上がってきていた。小川紳介監督の1960年代から70年代にかけての成田空港建設反対の「三里塚」ドキュメンタリーのシリーズでも、農民の人たちの日常の話や食事の場面が彼らの闘争以外の場での生活を描いていた。そしてこれらの映画作家もイヴァと同じように対象となる人々と一緒に暮らして、彼らの体験を自分の体験として描いていたのだった。
 もう一つイヴァ監督へのインタビューで強烈だったのは、コス島に来る難民たちがボートから降りて避難所に去ると、現地の漁師たちがボートのエンジンや部品を奪っていくという描写だ。ギリシャは経済危機で庶民の暮らしがひっ迫している実例だという。難民を受け入れる側のEU加盟国でも、ギリシャをはじめとした経済危機にある国々はさらに問題を抱えることになる。それぞれの場の人たちの生活の断片が多面的に紹介され、こうして色々な側面が見えて来ることこそ、映像の果たす役割であると感じた。