(19)トライベッカ映画祭でのバルカン
[2015/5/15]

 2001年の同時多発テロ後、マンハッタン南部地区の復興と映画による文化交流を目的に翌年2002年春に始まったトライベッカ映画祭は今年(2015)で14回目を迎えた。本年は世界38カ国から集められた101本の長編と60本の短編がマンハッタンの数カ所で4月16日から26日まで上映され、さらに監督や俳優による映画紹介、討論会、家族向け映画やスポーツ映画のイベント、野外上映、テクノロジーのプログラムなど年々その規模が拡大、多様化していっている。本年は総観客数467,000人を記録した。
 本映画祭は専門知識のない一般の観客向けプログラムが多く、幅広い人々の参加をめざしている。それと同時にワークショップや現在制作中の映画を製作者向けに発表するプログラムもあり、映画の専門家へのサービスも提供している。映画祭プレス・リリースによれば、本年は世界40カ国から1000人の映画関係者が参加したそうだ。私は昨年初めてトライベッカ映画祭に参加したコソボ映画センター代表のアルベン・ジャルク氏と会い、以来連絡を取り合いながら日本でコソボの映画を紹介する企画を進めている。今年も彼と再会してコソボ映画センターの活動についての最新情報を聞くことができた。
 ジャーナリスト向けには試写が映画祭開始の3週間前から始まるので、体力が続けば毎年数十本の映画を一挙に観ることができる。今年私は55本の映画を観たが、その中で描かれていたバルカンのイメージについて報告したい。

アルバニアを描く映画

 アルベンが代表を務めるコソボ映画センターがイタリア、ドイツ、スイス、アルバニアと共同制作し、小説家で映画監督のノラ・エフロンの名前を冠した劇映画賞を受賞したのが『誓いの処女(Sworn Virgin)』である。私の周囲でも評判が高かった。
 映画はイタリアのある街に突然現れたマーク(最近活躍めざましいイタリアの女優アルバ・ロルバケルが演じる。彼女主演のサヴェリオ・コスタンツォ監督作品『Hungry Heart』(2014)も本映画祭で上映された)の場面で始まる。男装の女性か女性的な男性に見える彼が訪れたのは従妹リラの家族が住むアパートで、気まずい雰囲気が流れる。フラッシュバックでマークとリラのアルバニア北部の寒村の生活が度々挿入され、マークはハナという女性として生まれ、両親を失った後、叔父叔母夫婦に引き取られてリラと姉妹として育ったことが観客にわかってくる。
 アルバニアの山に囲まれた村の場面は雪が多く、曇り空で鬱々としている。因習に縛られた村では女性は家の外にも自由に出られず、村を歩いているのは黒っぽい服を着た男達のみである。男女の役割が厳然と保たれるこの村にあっても、ハナは活発で銃を撃つのも上手く、家に閉じこもっていられない。最初は怒る叔父もハナに “誓いの処女”になるという道があることを告げる。それは古くからその地に伝わる風習で、女性が男性として暮らすことを許される代わりに性交渉を一生絶つ ことを村の長老たちの前で宣誓させられるのである。
 髪を切り胸にさらしを巻いて男性の服装をして大股に歩くマークとなったハナ。一方リラは父親が決めた婚礼の直前に、かねてから密かに愛し合う恋人とイタリアに駆け落ちする。叔父叔母が亡くなった後、三十代になったマークは山を越えてリラを訪ねてきたのだ。
 西欧の都会の生活に最初は戸惑うマークであるが、反発していたリラの十代の娘ヨニダも次第に打ち解けてきて、ヨニダの通うプールで働く若い男性の肉体に惹かれていく。
 イタリアの場面はオレンジと黄色を基調とした柔らかい色調で、マークの心が次第に解かれていくのをビジュアルに表現している。プールのゆらめく水のイメージも、頑なマークの心を柔らかく誘うようだ。主演のアルバは標準的な美人ではないが一度見たら忘れられない個性的な顔立ちで、その表情は独特で、複雑な状況に置かれて寡黙ながら常に何か考えているという人物像を的確に表現している。
 本作はイタリアのローラ・ビスプリ監督の処女長編作。上映後の討論で監督は、エルヴィラ・ドネスの原作を読んで主人公のイタリアでの現在と、アルバニアの村の14歳と17歳の時という3つの時間軸で語ることを考えて、フラッシュバックを多用することにしたと述べた。アルバはアルバニア北部の方言を2ヶ月ぐらいで修得したそうだ。コソボ映画センターのアルベンによれば、ハナとリラの両親役はコソボの俳優であり、アルバニア北部のロケ地で実際に住む“誓いの処女”も出演しているそうだ。そういえば、一団の男性より背の低い人がいて、ハナの叔父が「あのように誓いの処女として過ごしている人がいる」と示した場面があった。
 映画祭開催中の4月24日のアメリカのテレビの討論番組で、元オリンピック陸上競技金メダリストでタレントのブルース・ジェナーがトランスジェンダーであることを告白して大きな話題になったこともあり、『誓いの処女』はジェンダーに関する問題として論じられる格好な題材となった。

ロマについての2作

 ルーマニアからの劇映画とドキュメンタリーは2作ともロマに関するもので、両作とも非常に評判が良かった。
 ラドウ・ユデ監督の劇映画『アフェリム(Aferim!)』は19世紀に伝承された記録を基に、貴族の館から逃亡したロマ奴隷を追う保安官と息子の道中をモノクロの画面で展開する。この親子が旅の途中で遭遇する聖職者やオスマン・トルコの貴族、ロマのコミュニティの人々、宿の客や売春婦たちと交わす会話から当時の人々のロマ、ユダヤ人といった少数民族、支配者のトルコ人、隣人のイタリア人やドイツ人に対する様々な差別感があらわになってくる。差別感に基づきながら保安官にも息子にも彼らなりの正義感があり、捕獲した逃亡奴隷と帰り道に対等に交わす会話は、あけすけな性に関する話題を中心に、とぼけた可笑しさがある。
 ロマが奴隷として酷使されていたことはルーマニアでは一般には長く知られていなかったそうだ。題名の「アフェリム」という言葉は台詞に頻繁に出てきたが、その意味はどこでも説明されていなかったので、インターネットで調べてみるとオスマン・トルコに源を発する言葉で「ブラヴォー!」というような意味で使われるが、時には皮肉をこめて使われるとあった。コソボのアルベンにこの言葉を使うかどうか聞いてみたら、言葉は知っているが使ったことはないとのことであった。
 『トトと二人の姉(Toto and His Sisters)』はルーマニアのあるロマの家族を追うドキュメンタリーである。父は長年不在で母は麻薬所持売買の罪で刑務所にいる。残された十代のアナとアンドリーナは10歳の弟トトの面倒を見ているが、水道もガス台もない小さなアパートには叔父たちやその友人が入り込んで麻薬常習者の巣窟となっている。アナはその世界に引きずり込まれていくが、アンドリーナは必死で頑張りトトと放課後の勉強会に通い、シェルターに住むようになる。トトはヒップホップダンスの才能を見出され練習に励む。
 このトトが実に魅力的で、元気いっぱいでどんな環境でも友達と遊びまわっている。アレクサンデル・ナナウ監督はカメラをアンドリーナたちに持たせ、彼らが写す日常生活の映像を取り入れてこの映画を構成している。カメラの前で躊躇なく麻薬を注射する男たちを見つめるトトやアンドリーナの至近距離で捉えられる表情が、無表情ながら心の中ではいろいろ葛藤があるだろうと思わせる。クローズアップで捉える彼らの日常生活の瞬間瞬間の映像に迫力がある。本作に感動した私の友人でアメリカ人映画評論家のノラ・リー・マンデルは「アンドリーナにノーベル平和賞をあげたい と言っていた。

映画の中のバルカンの表象

 バルカンが他国の映画でどのようなイメージで出てくるか、私には非常に興味があり、思わぬ映画にちらりと登場するバルカンの映像も見逃せなかった。
 『水曜日の4時45分(Wednesday 04:45)』はギリシャ、ドイツ、イスラエルの共同制作で監督のアレクシス・アレクシオウはギリシャ出身、これが長編二作目。舞台は現代のギリシャの首都アテネで、ギリシャもバルカン半島に属するが、ここで主要な役を占めるのが隣国ルーマニアのギャングである。主人公のステリオスは長年の夢をかなえてジャズクラブを経営し新進のミュージシャンを紹介している。ところが以前ルーマニア人から借りた金の返還を水曜日の朝4時45分までにと迫られ、金策に追われる不安な数夜を過ごす。
 映画はほとんど夜に撮影されているフィルム・ノワール(暗黒映画)で、侘しいネオンサインの下やいかがわしいクラブや人気のない道路でストーリーが展開する。そしてステリオスも頻繁に麻薬の白い粉を鼻から吸っているような男だ。最後にステリオスは警官の兄から盗んだ銃を持ってルーマニアのギャングの親分のところに単身のりこむ。こうなると日本のヤクザ映画とあまり違わない構成である。日本のいわゆるヤクザ映画でも、戦後直後の広島を舞台にした「仁義なき戦い」シリーズでは韓国系ギャングがいたり、最近でも新宿歌舞伎町の裏町の闘争を描くギャング映画では中国系ギャングがよく登場する。社会の中でマージナルな場所に追いやられた隣国からの人々という設定は普遍的なものに思えた。
 ロンドンの暗黒街を舞台にしたイギリス映画『ハイエナ(Hyena)』は、イギリスのコマーシャル界出身のジェラルド・ジョンソンの長編2作目。主役の刑事ローガンとその部下はギャング組織のガサ入れで取り押さえた現金や麻薬をピンハネし、ギャングからは賄賂をもらう。映画の題名のハイエナとはローガンたちを意味しているのに違いない。ローガンはかねてから麻薬捜査の対象になっているトルコの売人と通じているが、トルコの組織とアルバニアの組織の対立が始まると、トルコ側を裏切ってアルバニア側とつるむ。その一方、警察内の汚職捜査委員会の調査も始まり、四面楚歌の状態になっていくローガンの焦燥感がロンドンの夜の裏町に展開する。ここで描かれるアルバニアのギャングは獰猛、冷酷で危険極まりないが、彼らも親戚の結婚式などでは民族音楽に合わせて、強面暴徒ではなく普通の家庭人のように踊る。このシーンはギャングでもやはり人間なのだという肯定的イメージが表出されているのかと一瞬思ったが、男が踊りながら札束をまき散らす伝統的慣習のシーンが2、3分続くと、イギリス人が「いや、やはりアルバニアの文化は遅れたものだ。男が家父長として威張っていて、経済を握っていることを誇示している踊りだ。我々には理解できない文化だね」と言っているような気がした。
 今やアルバニア人やルーマニア人は危険な暗黒街の犯罪者として西欧の映画に登場するのが目立つ。そうでなければ戦火の地の人々としてであろう。アメリカの外交官リチャード・ホルブルック(1941-2010)の業績を息子のデヴィット・ホルブルックが描くドキュメンタリー『外交官(The Diplomat)』では、1960年代のベトナムから始まりアフガニスタンとパキスタンに至る世界を股にかけた赴任地での活躍が次々と紹介される。リチャードの業績のハイライトのひとつは紛争中のバルカンでの平和交渉である。当時、アメリカ国務次官補のリチャードはボスニア紛争に際し、セルビア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの三者首脳をアメリカ中西部オハイオ州のデイトンに招き、およそ合意など不可能であろうと思われた三者に対しアクロバット的交渉術で1995年の和平合意に導いていったのである。
 その後バルカンでは90年末にコソボ紛争が起こり、リチャード・ホルブルックは再びバルカンに何度も足を運び平和解決に向けての努力を始める。しかしこの時にはセルビアのミロシェヴィッチ大統領の合意が得られず1999年3月のNATO軍によるユーゴスラビア空爆となる。
 息子のデヴィットは父リチャードが平和交渉に向けて並々ならぬ意欲で臨んでいたことを証言するアメリカの元外交官やバルカンの元・現首脳たちを次々と登場させる。そしてコソボにはホルブルックの努力を評する“トリッキー・デック”(「トリッキー」とは小賢しいとか一筋縄ではいかないというようなニュアンスで、「デック」はリチャードの愛称)という名前のカフェがあるのに、ボスニアには父の名前を記した碑や通りがないことを嘆いている。これはどのような事情によるものなのか私にはわからないが、アメリカの介入が疎まれている場所もあるのかもしれない。
 数々の映画の中のバルカンのイメージにはやれやれという思いだったが、劇映画最優秀賞を取ったアイスランドとデンマークの合作の『未踏の山(Virgin Mountain) 』の一場面でセルボ・クロアチア(セルビア・クロアチア)語が聞こえてきた時には、私は思わず微笑んでしまった。本作はアイスランド出身のダグル・カリ監督が劇映画最優秀脚本賞も同時に受賞、主役を演じたグンナー・ヨンソンも劇映画最優秀俳優賞を受賞した作品で、私の周囲でもすごい傑作ではないけれど、ほろりとする作品だと褒めている人が何人かいた。
 主人公はフシという名前の巨漢だが、臆病者で43歳になっても女性を知らずいまだに独身で母親と暮らしている。空港で客の荷物を運搬する仕事をしているが、同僚の格好な揶揄の対象となっている。フシの仕事ぶりは真面目なので、彼の上司は気を使ってくれるが、フシは同僚のいじめを訴えようとしない。
 母親とその男友達にダンス教室に通うよう手配をされてしまい、渋々向かったフシであるが、自分と同じように交際が苦手な女性ショフンと出会う。二人は理想のカップルと思えたのだが、ショフンの精神不安定な症状が始まり、心優しいフシは懸命に尽くす。
 ゴミ収集の仕事を無断欠勤したショフンがその仕事を失わないようにと、フシは自分の職場で休暇を取り、ショフンの代理としてゴミ収集所で働き始める。そこで同じ人間として同等に扱い、仲間にしてくれるのがセルビア・クロアチア語を話す数人のグループだ。この男たちはおそらくセルビア、クロアチア、ボスニア、あるいはモンテネグロからアイスランドまで出稼ぎに来ている人たちという設定なのだろう。フシはゴミ収集の仕事にも全く差別感を抱いていない。確かにこの仕事は言葉がよくわからない外国人には向いているかもしれない。飛行場の職場では同僚たちと食事のテーブルを一緒にしていなかったフシに、ここでは南からの移民の彼らが話しかけ、一緒に食事をして、仕事の後も一緒に遊びに出かける。心が温まる瞬間であった。
 太っていて気が小さいフシは自分が属する社会で差別の対象になっているために、アイスランドという異国で差別に遭っているに違いないセルビア・クロアチア語を喋る一団がフシに親しみを感じて仲良くしてくれるという「差別される者同士の連帯感」が存在したかもしれないことは否めない。しかしこの場面では実に自然にバルカン出身の集団が普通の人間として外国で普通の人間と関わるという感じが出ていた。
 戦火で社会のインフラが破壊されたバルカンでは、非合法な仕事に関わざるを得なくなった人々も実際にいるであろう。しかし以前映画の中で麻薬といえばコロンビア人が出てきたのに成り代わって、今や麻薬や人身売買といえばセルビア、モンテネグロ、アルバニア、ルーマニアの人々が登場する。方や「テロリスト」といえば、パキスタン人やイスラム教信者である。こうして安易にある役割をある地域に当てはめる配役や設定は文化的ステレオタイプを補強し再生産する。その意味でも、何気ない普通の人をバルカン出身として表象していた『未踏の山』のような映画がもっと増えてほしい。