スウェーデンの監督リューベン・オストルンド(Rueben Ostlund)の名がアメリカの映画ファンの間でさかんに挙げられるようになったのは、『Force Majeure(不可抗力)』(スウェーデンの原題は『Tourist』)が最近全米劇場公開されてからだ。それまで映画祭などで彼の以前の映画は上映されていたが、一部の人たちの間で話題になっている程度で私も今まで見逃していた。『不可抗力』はスイスにスキー休暇に行った若夫婦が直面する心理劇だ。本年度アカデミー賞外国映画部門にスウェーデンから出品され、ノミネートされるとの呼び声が高かったものの残念ながらショートリストに留まった。オストルンドはニューヨークのホテルでノミネーションの発表を製作者と聞いている姿を映像にしてYouTubeに掲載している(https://www.youtube.com/watch?v=hYTWqLmnjt0)が、固定カメラにこだわるスタイルは、彼の映画で見られる特徴だ。
『不可抗力』(邦題は『フレンチアルプスで起きたこと(仮)』で今夏公開の予定)では、裕福そうな美男美女で可愛い息子と娘に恵まれ、何一つ不自由でなさそうなスウェーデンの一家が、カフェで休んでいる時に突然目の前の氷河が崩れてヴェランダに向かって来る。その時に夫が一人で逃れてしまったことに妻や子供たちは衝撃を受ける。幸い雪崩はすぐに収まり、人々はテーブルに戻って食事を再開するのだが、夫は自分が家族を一瞬見捨ててしまったことを認めない。妻と知り合った別の若いカップルがその夫婦の論争に居合わせ、後者も自分たちの関係を見直す。
夫婦の間で次第に増殖する心理的亀裂が観る者に絶え間なく不安感を与える。しかもその展開が乾いたスタイルで、突き放されたような感覚を観客の心に生むのだ。この映画を見て気になる作家だったので、リンカーン・センターのオストルンド監督特集(詳細はhttp://www.filmlinc.com/films/series/in-case-of-no-emergency-the-films-of-ruben-oestlund)に行って彼の過去の作品を観た。
不安を盛り上げる乾いた作風
オストルンドは1974年生まれ。スキーをテーマにしたドキュメンタリーの短編をいくつか作りそれを基に映画学校に入る。長編は『不可抗力』が4本目。短編『Autobiographical Scene Number 6882(自伝的場面6882番)』(04)では、既に後の作品に見える要素が見出される。ここでは遠景で橋の真ん中にいる6人の男女が固定カメラで捕え続けられ、我々は彼らの会話をサウンドトラックで聴くことになる。一人の男が服を脱ぎ始め、肝試しをするかのように橋の上から川に飛び込もうとするが、直前に通りかかった人に止められる。計画中止をなじる仲間の言葉に挑発されて最初の男が、止める仲間たちの必死の説得を無視して飛び込むところで終わる。カメラの位置が遠いので彼らの顔の表情は見せず、現実音と台詞の声だけで高まっていく緊迫した状況が設定される。ある人物が自分が勇敢であるなどというイメージを保つために、周囲の人々に心理的波紋を起こす。こうしたスタイルやテーマが、その後の彼の長編に共通してみられるのである。
『Incident by a Bank(ある銀行の近くの出来事)』は2010年のベルリン映画祭の短編部門の金熊賞(最高賞)を授賞し、この監督は国際的に注目されるようになった。これは実際にストックホルムで起こった事件を再現するものだという字幕がまず現れる。固定カメラが捕えるのは、道路の向こうのオフィス・ビルである。祭りの山車のようなトラックが騒がしく通り過ぎる。手前で二人の若い男が話をしていると、近くにいる覆面をした二人連れが銀行強盗ではないかと一人が言い出すが、二人は話を続ける。するとカメラが左に動き、覆面の二人がオートバイで近づき降りて道を渡り、オフィス・ビルに入るところを見せる。手前の二人は黙って見ていると、中で何か起こったようなのだが、まだ二人は何もせず、そのうち一人は携帯電話を使ってこれから眼前で起こることを撮影しようと準備を始める。
覆面の二人が出てきて、さらに隣の銀行らしきところにも入っていく。中では走る人などの気配がしている。外では覆面二人組が残したオートバイを、老人が動かそうとするがうまくいかず、あきらめて物陰に隠れる。手前の二人は相変わらず撮影している。そしてとうとう覆面の一人がでてきてオートバイに乗って待ち、もう一人が出てくるとそれを追って警備員か警官のような制服の二人が覆面の二人を追う。そして一人は捕えられる。手前にいる二人は相変わらず、画像がよくないという話に夢中になっている。
ここでも音楽なしの現実音と台詞の音声のみ、ほとんど固定カメラ、遠景で状況が凝視されるスタイルが踏襲されている。そしてカメラの前で起こっている緊張感に対して、それには反応しない手前の二人の青年との心理的ずれが、観る者の居心地を悪くする。
長編第一作『The Guitar Mongoloid(ギター・モンゴロイド)』(2004)では、社会の外側にいる人たちの描写を断片的に積み上げていく。路上でギターを弾いて歌っている10歳ぐらいの少年が題名の由来となっている。彼と仲良くしている青年がいて、二人は恋人たちのような時間を過ごしている。4人の不良グループが波止場から駐車されている自転車を盗んで、その一つを苦心の末街灯のてっ辺から落として絡ませる。その持ち主の中年の女性の自転車探し。酔って愚かな子供じみたことをカメラの前で演じる二人の青年。太った二人のバイカーと一人の痩せた男のロシアン・ルーレットのゲームなどが淡々と順繰りに進んでいく。この作品では遠景ばかりか、人物の胸から上ぐらいのバスト・ショットも多い。私にとってイマイチの作品であったのは、登場人物に興味が持てなかったからだろう。
無理を押し通す結果
長編第二作目『Involuntary(自発的ではなく)』(08)はスウェーデンの2010年度のアカデミー賞外国語映画部門への出品作で、この頃からオストランド監督は国内でも評価が高くなったようだ。乾いた作風はここでも顕著だ。まず画面に含まれるイメージが極端に制限される。登場人物の身体の一部しか見せられないので、全体像がつかめず観ているとフラストレーションがたまってくる。カメラは固定されて動かない。感情移入を誘うような音楽もない。会話のシーンでは、一人、あるいは二人と居合わせている数人のグループの一部しか画面に含まれないので、会話の主である人物たちを見ることができず、やはり欠如感に悩まされる。しかし見えない部分、見えない人物の表情を観客は自分の想像力で補うしかない、という意味では観客参加型映画といえる。
大きな家の晩餐会に続々と到着する人々の膝から下だけの映像からこの映画は始まる。そのエピソードは、主人の誕生祝に集まった家族や友人だとわかるのだが、全部で5つのエピソードがあちらこちらに飛びながら少しずつ展開していく。
2つ目のエピソードは長距離バスに乗り合わせた中年の女優を中心に、3つ目は十代の二人の少女の酒に溺れる無軌道な一晩、4つ目は森の保養地に集まった数人の男たちの間の性的遊戯がひき起こすある夫婦のわだかまり、5つ目は理想主義的な若い女性教師の直面する教育現場の問題である。そのどれもが、登場人物たちの心理的緊張感が高まる過程を丁寧に見つめている。
バスの乗客の女優のエピソードは特に興味深かった。女優がバスの中の狭いトイレの中にいるイメージから始まる。バスの一番前に座る女優に気が付いた後席の女性がしきりと彼女に話しかけるが、休憩時間の場面まで後席の女性の姿は映らない。女優の前に30代の運転手と若い女性の助手がいて、彼らの会話が続くが、これも彼らの後姿しかしばらくの間我々は見ることができない。運転手は若い助手を相手に、自分が妻に捨てられた話をたらたらとしているのだが、休憩後に運転手が客たちに向かう場面で、初めて彼が中々端正な顔をしていることがわかる。
運転手は休憩中に車内に忘れ物がないか確認している時に、トイレの窓のカーテンレールが破損されていたことに気付いたので、誰の仕業か申し出て欲しいと、それまでバスの後方で騒いでいた若者の集団に向けて話す。すると若者たちは自分たちではないと反論。誰も名乗り出ないので、運転手は犯人が自首するまでバスを動かさないと外へ出て行ってしまう。
外は次第に暗くなってくる。このままではフェリーの時間に間に合わないと外に出て運転手に文句を言う男の客がいる。運転手は申し訳けないが、これを見逃すと次はトイレの氾濫など大事に発展するかもしれないからここは妥協できないと反論。
一端車内に戻った運転手に最前列の女優が抗議する。しかし誰も自首しないので再び運転手は外へ。周囲は真っ暗になった頃、5、6歳ぐらいの男の子を連れた男性が車内にいた助手に、この子が一人でトイレに入った時にカーテンレールを壊したのかもしれないと言って来る。金髪で美人の助手が男の子に本当にそうか尋ねると、男の子はふにゃふにゃと何かつぶやく。それを聞いた助手は正直に言って偉いと男の子を褒めて運転手を呼びに行き、バスは動き始める。女優がトイレ内にいて、急に揺れるので慌てる場面が挟まれ、彼女の動きの詳細はわからないが犯人は実は彼女だったのだろうという推測を私はした。そうして結論も曖昧に終わる。
もしこの女優が犯人とすれば、最初はバス後方の若者たち、次には幼い男児が犯人にされても名乗り出ない彼女の自負心の高さが気になる。多分数時間バスの中で待たされた客たちは、誰でもよいから犯人を差し出さなければならない状況となり、幸い幼い子供が犯人になれば運転手も多分怒らないと推測し、集団で男の子を差し出すことに決めたのかもしれない。あるいは、そういった周囲のプレシャーを感じて父親が自主的に子供を差し出したのかもしれない。ほかに小さな子供がバス内にはいなかったので、この男児は恰好な生贄である。そして運転手も一度言い出したことを引っ込められない。どう考えてもフェリーの待ち合わせに遅れる乗客が出ては行き過ぎとしか思えないのだが、頑固な運転手は自分の前言を素直に撤回できなかったのだろう。
何気ないことが思わぬ波紋を産み出す過程が秀逸に表現されていた。
人種差別を逆手に
長編第三作目の『Play(プレイ)』 (2011)は各地の映画祭で話題となった(第24回東京国際映画祭出品)。本作では5人の黒人の十代の少年グループが、彼らより少し身体の小さい白人の子供たちから携帯電話を取り上げる過程を凝視する。前作同様に、身体の一部やグループの一部しかカメラが見せないスタイルは踏襲され、遠景を中心とした固定カメラの長廻しで各場面が進行する。そうして登場人物の間に心理的緊張感が高まり、不協和音を奏でていく過程も同様である。
舞台はスウェーデンの地方都市のショッピング・センター。白人の兄弟が買い物の途中でお金を失くしたと話しているそばで、5人の黒人の少年たちが相談して前者に近寄って来て携帯電話を見せてくれと頼む場面が遠景の途切れないカットで捉えられる。黒人の少年たちの一人の弟が最近携帯電話を失くし、今見せられた携帯電話にそっくりだと彼らが言いだし、白人の兄弟はその勢いに押されて反論もままにならない。そうではないことを証明したいなら自分たちと一緒に弟に会いに行こうと黒人のグループが提案し、そのあたりでその場面は終わり、それから別の被害者グループに話が移る。
まず被害者側の3人の少年たちが紹介される。大きな事務所に両親を訪ねた白人のアレックスとその友人で白人のセバスチャン、もう一人はアジア系のジョンである。3人はショッピング・センターへ行き、スポーツ用品店で黒人少年グループに出くわす。ここで黒人少年たちはサッカー・ボールを悪戯していて、店員に咎められるところをアレックスたち3人組が近くで見ているが、いかにも何か不吉なことが起こりそうで不安を煽られ私はハラハラし始めた。この場面はかなり長く途切れない固定カメラのショットでじっと追っている。既に黒人少年たちの手口を最初に見せられている観客は、この3人組が同じ運命に遭うことを容易に想像できる。
次は市電の中の3人組が不安に怯えながら喋っている場面となる。彼らはほかの客に助けを求めることもなく、近くにいるらしい黒人5人組から逃れる相談を小声でしている。
そしてセルフサービスのカフェに飛び込んでくる一人の少年の場面となる。ほかの2人は既に5人組に捕まってしまっているようだ。店の店員たちはまだ何も起こっていないからと警察に連絡してくれない。覚悟を決めてこの少年は街路にでていき、5人組と話を始める。5人組は3人を自分たちのテリトリーへ移動させる。
次には5人組に囲まれて3人はバスに乗っている。上機嫌でほかの乗客にもちょっかいを出す5人に対して、後者3人はじっと黙ったままである。そこへ突然屈強の男性の何人かが電車に乗り込んできて8人ともどもに襲い掛かる。警官かと思ってみていたら、かつて携帯電話をとりあげられた被害者の身内が組織した自警団のようだ。周囲の乗客はあっけにとられているが、一人の女性が犯人はこの子たちだと中にはいってくるものの、彼女が正しく事実を指摘しているのかどうかは見ていてわからない。黒人1人とセバスチャンは椅子の下に隠れて自警団から免れる。この時、一人の中年の男性の乗客がセバスチャンに名刺を渡して、自分はすべて目撃したから困ったことがあれば連絡するようにと言ってくれる。
セバスチャンは何となくその黒人少年から逃れられずに一緒にバスを降りて二人で歩きはじめる。この二人の雰囲気はいくらか緊張感が薄らいでいて、黒人少年の人の好さまで感じさせるが、まったく緊張感がなくなってもいないという感じだ。この二人がしばらく単独で時間を過ごしたあと、残りの少年たちと再び合流する。最終的にはアレックスたち3人は、携帯電話のみならずジョンの大切なトロンボーンやジャケットやその他貴重品を取り上げられてしまう。その途中、アレックスが木に登って抵抗を試みるものも、結局仲間に説得されて、あるいは諦めたのか降りてきてしまう。黒人側はあくまでも強気で、心理的圧力で押し切る。被害者3人の控えめな抵抗に対して、加害者側は話しかけられたとき無防備に対応したのが間違いだったのだと言い切る。
黒人の少年たちは強く出る者、それを和らげようとする者など、役割分担をしている。それゆえ、題名である「プレイ」となるのだ。それとともに、被害者側も時として加害者側と控えめに交わり、共犯関係らしきものを演ずるという意味でも「プレイ」である。ジャケットを取り上げられたジョンが寒そうなので一人の黒人少年は自分の薄いジャケットと交換しようと言い出し、さらにジーパンの交換を申し出る。
十代の白人とアジア系の少年が黒人少年の理不尽な振る舞いに抵抗できないのはなぜなのだろうか。なぜ彼らは周囲の大人に助けを求めないのだろうか。それは誰も何もしてくれないのを見越しているからなのか。その理由は、人種差別主義者と言われることを恐れているからなのだろうか。このように次々に人種について考えざるを得なくなるのだ。
最後に場面は冬から夏に変わっていて、ある黒人一家のアパートから木製のゆりかごを息子が弟と公園に持ち出す。このゆりかごは、それまでのストーリーに時々挟み込まれるエピソードに出てきたもので、都市と都市を結ぶ列車の中に置き去りになっていて、車掌がしきりに車内放送で持ち主を探していたものだ。公園の向こう側にセバスチャンともう一人の男の子を連れた男性二人がやってきて一度通り過ぎるが、男たちが黒人少年のところに戻ってきて、セバスチャンの携帯電話を返せと言いにくる。黒人少年は自分は貧しく家には収入がないのでしかたないなどと反論していると、近くを通りかかる女性が、移民の無力な少年を苛めるとは何事だと白人の男たちに抗議してくるところで本作は終わる。
スウェーデンの地方都市で2006年から2008年までの間に12歳から14歳の移民の子供5人が40組もの子供たちから所持品を取り上げた実際の事件を基にしているが、当事者たちの不安な心の襞を丁寧に見せていく、見事な映像である。そして清潔で整然として無機質的なスウェーデン社会が多民族社会になった結果、ひっそりと生まれる緊張感がリアルだ。監督のインタビューを読むと、スウェーデンが多民族社会になったのは比較的最近のことだが、都市では移民たちの住む区域と、非移民の住む区域がはっきり分かれ、お互いに相手を知らないところから恐怖や固定概念が生まれると言う。またなぜゆりかごのエピソードが挟まれているのか私は不思議だったが、監督によれば自分が車内で何度も車内放送を聞いた経験から、何か規律を乱すものが出現すると即座にそれを対処しようとするスウェーデン社会を象徴するものと説明していたのが興味深かった。
オストルンド監督の作品を観て、どの時代にも世界の各地から次々と問題意識を持った新しい表現の映像が生まれて来ると実感できる作家を発見した思いであった。