ラドゥ・ガブリア監督特集
2014年10月にNYのルーマニア文化会館主催でラドゥ・ガブリア監督(1937生)特集が3日間開催され、10本の作品が上映された(詳細はこちら)。私はこの監督の作品の中で、第二次世界大戦中のユダヤ人虐殺についての『グルーヴァーの日誌Gruber's Journey/Calatoria lui Gruber』(09)と、チャウシェスク大統領夫妻の最期をドラマ化した『クリスマスまでの3日Three Days Before Christmas/Trei sile pana la Craciun』(当コラム(7)で紹介)を見ているので、今回は『砂丘を越えて(Beyond the Sands/Dincolo de nisipuri)』(73)と『エヴァのような男A Man Like Eva/Ein Mann wie Eva』(84)を見た。
ガブリア監督はユダヤ人問題をよく扱うので、ユダヤ系とばかり思っていたら、そうではなかった。父は農民出身のルーマニア人、母は経済的に恵まれたドイツ系で、ともに大学教授である。家族はユダヤ人街の近くに住み、両親の生徒にはユダヤ系学生が多かったそうだ。サルトルが言う「人々がそのように見るなら自分もユダヤ系といえる」という意味では自分もユダヤ系だと監督は言う。また今回初めて知ったのは、『クリスマスまでの3日』で、エレナ・チャウシェスク夫人を演じていた女優で製作者のヴィクトリア・コチアスが1993年以来ガブリア監督夫人ということで、彼女も今回は同行して質疑応答に監督とともに参加していた。
『エヴァのような男』は、ガブリア監督が『砂丘を越えて』で起こした問題(後述)の後故国を去り西欧に移住した後の作品で、ドイツで製作、全編ドイツ人俳優によるドイツ語の映画である。エヴァ・マテスという女優が男装をしてライナー・ヴェルナー・ファスビンダー監督の役を演じている奇妙な映画で、ファスビンダーの映画製作についてのフィクション映画だ。それなりに興味深くはあるが、今回はルーマニアでのガブリアの映画『砂丘を越えて』に集中したい。
『砂丘を越えて』は驚愕の映画であった。第二次世界大戦をはさむ1934年から48年にかけての農村の話で、ファヌシュ・ネアグの原作はルーマニアでは知られているらしい。英語字幕が全部読み切れなくてストーリーの詳細は追いきれなかったが、半ば夢うつつのようなカメラワークや、不吉でありながら高揚する音楽が続き「これは一体何?」と思わせる展開なのだ。映画の始まりは霧の中の風景。王族の一人が飛行機操縦に夢中になり、邸に隣接した土地に飛行場を作るということでそこに住む13家族の農民に立ち退きを命じる。王族の番頭が農民を騙してダニューブ川の対岸に3倍の広さの土地を用意したというので、農民たちは旅立つというナレーションが入る。明け方の霧の中、女と密会する男がいる。その後旅をしている一群の人々を騎馬隊の警官が囲んでその男を連行し、彼は翌日逃げようとして射殺される。その男性の息子イオンが、父の敵を討つための旅に出るというテーマである。
「あなたはすごいハンサム」と女性の台詞に出てくるイオンを演ずるのはダン・ヌトゥ。私は特にハンサムとは思わないが、個性的雰囲気で一度見たら忘れられない。彼はルーマニアを代表するルシアン・ピンティエリ監督による『日曜日の6時(Sunday at Six/Duminica la ora 6) 』(65)に出演、“ルーマニアのジェームズ・デイーン”と言われ、衝撃的イメージで記憶される。東欧の共産党の公式主義に基づく映画では、第二次世界大戦中の対独抵抗運動が非の打ちどころのない共産党主導で行われ、自己犠牲をいとわぬ崇高な精神の人々が勇敢に戦ったということになっているが、『日曜日の6時』ではヌトゥ演ずる青年ラドゥの心は常に揺れている。抵抗運動で出会った少女に恋をし、恋愛を禁ずる組織の命令に従わない。そればかりか、動きの鈍いエスカレーター、森の中にたたずむ少女、飛び立つ鳥などの直接ストーリーに関係なく登場人物の心情を象徴的に表現するような詩的なイメージに『日曜日の6時』では驚かされる。ヌトゥは、大人の世界に反抗したジェームズ・デイーンというより、ポーランドのアンジェイ・ワイダ監督の『灰とダイヤモンド』(58)で抵抗運動から外れていくマチェックを演ずるズビグニエフ・チブルスキーを思わせるのだ。
『砂丘を越えて』で”天使”と呼ばれてる馬泥棒を演ずるアレクサンドル・ヘレスクは、水も滴るいい男であった。この”天使”が自分の父を売った人間を知っていると聞いたイオンは、必死に天使にとりすがるが、天使は無言でそれを無視し続ける。その土地の習慣なのか、キリスト教の祭に司教が十字架を川の中の氷の割れ目に投げ込み、10人ぐらいの男たちがそれを拾うために冷水に飛び込む競技が行われる。天使は見事に十字架を引き揚げるが、水を滴らせながら歩く彼は(多分心臓麻痺で)ばたっと倒れてしまう。この映画は全編、このような不思議で滑稽ともいえる、しかし同時に冷やりとする背筋が寒くなるような場面の連続なのだ。
手持ちで動き続けるカメラワークがやたら過剰で気になり、耳障りにきゃらきゃらと笑い続ける若い女、イオンの味方になったり敵になったりする優柔不断な男とか、すっきりしない人物が多い。この男は武器を密輸する船でイオンと討論となり、川に飛び込んで泳ぐイオンを後ろから発砲する。水の中で浮き沈みするイオンのイメージに被るナレーションがイオンの死を告げるところで映画は終わる。
ガブリア監督によれば、この映画は共産党による革命をおちゃらかしたという理由でチャウシェスク大統領の手で上映禁止にされ、検閲を繰り返した後カンヌ映画祭の監督週間に出品されてルーマニア映画の存在を国際的に知らしめたという。国内の上映でも、観客や普段は批判にまわることもある評論家の評判も良かったそうだ。特に問題になったのは、王族が宮殿を逃れた後、農民たちが宮殿を襲って略奪する場面と、農民が金儲けをしようとする設定で、農民出身のチャウシェスクにとって農民はあくまで崇高な革命の担い手だったわけで、その設定にはがまんならなかったからだろう。
第九回ルーマニア映画祭
12月には恒例の「波を起こす ルーマニア映画特集(Making Waves: Nre Romanian Cinema)」がリンカーン・センターで開催された(詳細はこちら)。今年で9回目となる当企画、私が注目したのはルーマニア映画史に残る古典と言われるステレ・ギュレア監督の『旅・モロメテ家の人々(The Journey/Morometii)』(87)だ。モノクロの暗い画面に展開するのは、小さな村のモロメテ家の日常生活である。早朝暗いうちから起きて朝食の卓に座る家族の姿から映画は始まるが、家族が多いので名前と関係を飲み込むのに少し時間がかかる。父イリーを演ずるのは当コラム(13)で紹介した『日本の犬』の主役でルーマニアを代表する名優、ヴィクトル・レベンギウツ。イリーには前妻との間に成人した3人の息子がいる。現妻カタリナを演ずるのはやはりルーマニアを代表する名女優ルミニツァ・ゲオルギウで、私のコラム(11)で紹介した『子供の姿勢』ほかに出演しているが、本作がゲオルギウの初めての主要な役だそうだ。カタリナとの間には2人の十代の娘と9歳ぐらいの息子ニコラエがいる。
この映画は寡黙なニコラエの視点から多くが描かれる。羊の世話を任されているこの少年が地面に寝転んで木々を見つめる視覚イメージや、彼の顔のクローズアップが多いのである。イリー一家の人々は家や畑では裸足なので、最初にこの農民家族は貧しいのかと思ったが、イリーが出かけるときには靴を履いているし、決して掘立小屋ではない家、その周囲の土地や農地を所有しているので、中農というところだろうか。時代設定がいつごろなのか見極めようとと私は眼を凝らした。男たちはボタンのついたシャツに毛で編んだようなカーデイガンを着ているので20世紀のことだろうと思ったが、ルーマニア人には台詞で時代が判るのであろう。例えばイリーが村人たちに新聞を読んでやる場面があり、最近のニュースで農民党のことが論議されたり、村の若者を組織して軍隊演習を行う「鉄衛団」の青年の姿を見て村人たちが苦々しく思っている場面がある。後で調べると時代設定は第二次世界大戦直前、原作はマリン・プレダの有名な小説で、二部構成のうち第一部が映画化されたのが本作である。
字を読めるイリーはほかの字を読めない村人よりも教育程度が高いが、ニコラエを学校に通わせることを熱望するカタリナの意向を、簡単に受け入れられない家計のことを心配している。映画の冒頭、イリーの隣人がイリー家の土地にあるアカシアの木を売ってくれと頼む。イリーは乗り気ではないが、そのうちにそれを売らざるを得なくなる。映画を通じて金銭の問題が語られ続ける。農民は地税を払えなくて、税徴収の役人と争う場面、イリーが金を借りに行く場面が繰り返され、イリーは銀行に借りた金が返せないと何度もぼやく。近代資本主義が農村にも侵入し、それが必ずしも農民の利益になっていない現状が強調されるのだ。
家族に対して権威を押し付ける父に反抗して、上の3人の息子が家を去る。教育が次代の家を盛り立てていく基本となることをイリーが認識したのか、イリーが土地を隣人に売ってニコラエを寄宿生学校に送る場面で映画が終わる。
登場人物の心理的葛藤は顔のクローズアップで処理されるが、自分の意見を強く表する気丈夫なカタリナを演ずる若きゲオルギウは、ぎらぎら光る眼の表情が強烈な印象を残す。沈黙しながら何を考えているか表現しなければいけない演技が多く要求されるイリー役のレベンギウツは、失意を背中で見せるような表現が巧みである。
過去と向き合う最近の作品
ギュレア監督の新作『わたしは共産主義者のおばさん(I'm An Old Communist Hag/Sunt o baba comunista) 』(13)も上映され、監督と女優アナ・ウラウが映画の紹介をした。10年前に北米に移住した娘がアメリカ人のボーイフレンドと里帰りするのを迎える夫婦を通じて、独裁時代の過去を現在どのように思い出すかというテーマである。初老の妻エミリア、通称ミカをルミニツァ・ゲオルギウが演じ、彼女の回想シーンが度々モノクロで挟まれる。
鉄鋼工場で働くミカは責任ある地位につき、チャウシェスク大統領の訪問の際に歓迎の握手をする役を任じられる。しかし病気に対して神経質だった大統領への配慮により、ミカは訪問の一週間前から隔離されて家族にも会えなくなる。歓迎の準備が進む工場であるが、大統領を乗せたヘリコプターは大統領の急務で引き返してしまう。
こうしたエピソードがあるものの、それなりに同僚たちと楽しく過ごした思い出のあるミカは、娘アリスと娘婿になるアランの歓迎の食卓で共産党時代を激しく否定するアリスや、共産党時代に苦い思いをしたと言うアリスの女教師と意見を異にする。
共産党時代には冷蔵庫にはいつも食料があったし、飢え死にした人はいなかったと主張するミカに、アリスは「実際に飢え死にした人はいたかもしれない」と反駁し、女教師はブルジョア出身という理由で差別され画家になりたいという志望もかなわず、自分にとって困難な時代だったと言う。
ミカは「それでもわたしは青春時代をその体制で過ごしたのだから」と共産党時代を否定できない。ミカは「いつ体制が戻るかわからないから」と共産党員証を未だにこっそり保存しているのだが、党に強い忠誠心があるわけではなく、職場で役付きになった時に党員にならなければいけなかったのだと若い世代に説明する。折しも街ではチャウシェスク時代についての映画を製作中で、ミカは出演を頼まれる。
アリスが連れてきたアランは好人物だが頼りなく、アリスと喧嘩をして一人アメリカに戻る。娘が妊娠していることを知った母は、アリスとアランが職を失い抵当に入れた家を失う危機に直面していることも聞かされる。ルーマニアは不景気が続いていて、娘を援助したくても八方塞がりのミカであるが、我が子が経済危機に陥っているとは知らず、アリスもこのことを母に相談しかねていた。
上映後の質疑応答で監督は「世の中どこでも現実は決して甘いものではなく、当事者にとっては簡単に割り切れない複雑なものだということを描きたかった」と述べた。また現在共産主義時代にノスタルジックを感じている人たちがいるが、自分はそうではない、共産主義はルーマニア人が選択したものではなく、ソ連に押し付けられたものだからとも主張した。
若い女優のアナは、独裁時代に青春を奪われた世代の悩みをこの映画に関わることで初めて学んだと語った。また自分自身の両親は映画演劇関係なので、この映画の家族と違って共産主義の終焉を喜んで迎えたという。
映画ではミカが中国人の金融業者に借金に行き、期限までに払えないとわかりながら自分のアパートを抵当に入れる。その金を娘のカップルに渡して彼らの窮状を救うという結末になるが、東側の人間が西側の人間を助け、西側社会の男が家族を養えないという状況を興味深く見たという感想が観客から提出された。監督はそれは自分のアメリカに対するジョークなのだが、共産党時代にノスタルジーを感じている人々を理解したくてこの映画を作ったとのこと。過去を再現しようとしているが、過去はあくまでも個人個人のものなので、完全な再現は不可能であるとも述べた。しかしヘリコプターが象徴的に出てくるのも、チャウシェスク時代の不条理な馬鹿馬鹿しさを表現したかったからだそうだ。
映画の中で人々がテレビでチャウシェスクの墓場を掘り起こしてDNA鑑定をするというニュースを見る場面があり、現在も人々は過去をひきずりながら生活していること、過去から中々逃れられないことが示される。
現在から眺めた過去にどのように対するかというテーマは、ヴァレンティン・ホテア監督の処女作『ロクサンヌ(Roxanne)』 (13)にも共通するものである。2009年のブカレストが舞台で、30代後半のタヴィ(『日本の犬』で息子を演じたシェルバン・パヴル)が主人公である。彼は独裁時代の秘密警察の自分についてのファイルを閲覧して愕然とする。学生時代にロクサンヌという女性とつきあっていて、西側文化にあこがれていた仲間と「ロクサンヌ」という歌を当時禁止されていた西側のラジオ・フリー・ヨーロッパで密かに聞いていたりしたことが密告されていたのだ。その結果タヴィばかりかロクサンヌが当局の捜査の対象となり、ロクサンヌはタヴィとの間に子供を宿していたことを当局に調べられていたのだ。
現在ロクサンヌは当時の仲間で有力者の息子だったサンダと結婚し、20歳の息子ヴィクターと幼い双子の息子たちとともに物質的に恵まれた生活を送っている。タヴィはヴィクターが自分の息子ではないかと疑い、ヴィクターに近づいていき、ロクサンヌの家庭をかき回してしまう。その結果、密告者が誰であったかも明らかになり、タヴィ、ロクサンヌ、サンダは20年前の過去と苦い直面をすることになる。
東独の秘密警察の活動を描いた『善き人のためのソナタ(The Lives of Others/Das Leben der Anderen) 』(06,フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク監督)が監督の念頭にあっただろうと、映画の解説をしたルーマニア人政治学者のウラディミール・ティスマネアヌ(メリーランド大学教授)が述べていた。全く疑いもしなかった自分の周囲の人や信頼していた友人が独裁時代の秘密警察のスパイをしていたということが現在明らかになるというテーマは、さりげない台詞で『わたしは共産主義者のおばさん』にも出てきたし、反体制の英雄だった精神科医が実は秘密警察のスパイであったというチェコの映画『カワサキのバラ』(09、ヤン・フレジェイク監督)もあった。独裁時代の秘密警察の存在は現在でも旧共産主義国の人々のトラウマとなって影を及ぼし続けている。しかしこれらの映画は、単純な善悪の判断ではなく、そうした非人間的組織が人々にどのような心理的影響を与えるのか、それが後々の時代までいかに引きずられていくのかに注目している。