(12)さすが、ポーランド映画
[2014/2/21]

『波紋』

 2013年11月から12月にかけて、NYでは珍しくポーランド映画がアート系劇場で公開され、かなりのロングランになった。私が見たのは『波紋(Aftermath/Poklosie)』(2012、公式サイトはこちら)である。ウワデイスワフ 波紋・パシコフスキー監督は1958年生れ。1990年代から活躍し、商業的成功も収めれている監督だ。第二次世界大戦中のポーランドのタブーに触れた作品ということで、本国では右翼から攻撃され大論争になったという。
 本作はポーランド北東部の村で1941年に実際に起こった話にインスピレーションを受け、フィクションを含めたスリラーだが、心理的恐怖が次第に積み上げられるとともに、歴史の意味を考えさせる秀逸なドラマとなっている。
 映画は2001年、フラネク(イレネウシュ・チョプ)がシカゴ(海外ではポーランド移民が最も多い都市)からポーランドの村に20年ぶりに戻ったところから始まる。バスから降りた彼は誰かに監視されている気配を感じ、スーツケースを道に置いて森の中に調べに入るが、戻るとスーツケースはなくなっている。このあたり、カメラが不安げに揺れる木々の枝を捕えるフラネクの視点となり、最初からフラネクに忍び寄る危険を感じさせる。実家では弟ヨゼフ(マチエイ・ストウーフル)が村人から排斥されていて、ガラス窓に投石されたりさまざまな嫌がらせを受けている。ヨゼフの妻はそれに耐えられず、子供を連れてシカゴに逃げている。ヨゼフがとりつかれたように村の道や教会の庭に埋められているユダヤ人たちの墓石を自分の畑に集めて立てていることが村人の反感を呼んでいる理由だと次第に明らかになっていく。ヨゼフはヘブライ語を学んで墓石の銘を読み、死者を弔っている。
 兄フラネクは、最初は弟のすることが理解できず、「シカゴではユダヤ人たちが建設業を牛耳っているのでポーランド人は安く現場で働かされている」などと反ユダヤ的発言をしているが、次第に弟の情熱に動かされ、一緒に村の隠された歴史をひもとくことになる。それはナチス・ドイツの占領軍によって収容所に送られたと思われていたこの村のユダヤ人たちを、実はカトリック教徒の村人たちが冷酷にも手を下したという事実であった。
 ポーランド人が第二次世界大戦中に被害者ではなく加害者でもあったという主張を記した本『隣人たち(Neighbors)』が、ポーランドからアメリカに移住したユダヤ系のヤン・T・グロス(プリンストン大学教授)の手により2001年刊行されてから、ポーランドでは大きな論争となったというが、パシコフスキー監督はこの本を基にポーランド人としての自分の立場を考えて本作品を作ったと語っている。占領下のフランスでのナチス・ドイツとの協力を吟味し、フランスのレジスタンス神話を覆して論争を巻き起こしたマルセル・オフィルス監督のドキュメンタリー『Sorrow and Pity』(1969)を思い起こす。また日本では、第二次世界大戦後は国中が「自分は戦争中、軍国主義者に騙されていた」と主張した日本人の甘っちょろい精神を糾弾した伊丹万作監督の「戦争責任者の問題」(初出1946年8月、『伊丹万作全集』1961年,他に収録)という論考が記憶によみがえる。どの国でも、都合が悪いことは「臭いものに蓋」をしてしまいたい人々がいて、自分たちの誤った行動も含めて歴史をひもとき過去に向かい合って思考しようとする動きは壁にぶち当たる。
 パシコフスキー監督は本作製作のための国家映画基金の援助を受けるのに7年以上かかり、一度はあきらめて携帯電話で撮影をしようとさえ考えていたと回顧しているが(『NYタイムス』、2013年10月27日)、今や携帯電話で撮影してインターネットの投稿サイトYouTubeで公開ということも可能な時代になったのだ。しかしこの作品は劇映画として製作され、劇場の大きな画面で見応えのある重厚なドラマとなった。
 戦後にナチスドイツの仕業とされていたが、実は第二次世界大戦中にソ連軍によってポーランド軍の将校たちが処刑された「カティンの森事件」。この秘史の映画化『カチン』(2007、邦題は『カティンの森』)の共同脚本をパシコフスキーは担当しているが、『カチン』の監督でポーランド映画界の重鎮アンジェイ・ワイダはこの『波紋』の勇気ある精神を高く評価し、ポーランドの文化大臣ボグダン・ズドロジェフスキーも本作の意義を認めて賞賛したそうだ。

『ワレサ 希望の男』
 ワイダはポーランドの国民的監督ともされているが、ワイダがポーランドの国民的英雄レフ・ワレサ(ポーランド人たちは「ヴァウェンサ」と発音する)元大統領を描く新作『ワレサ 希望の男 (Walesa: Man of Hope/Walesa: Czlowiek z nadziei )』ワレサ1(映画の情報はこちら)をNYのMOMA(近代美術館)の特別上映で2013年末に見た。この作品は日本でも岩波ホールで2014年公開が予定されている(邦題は『ワレサ 連帯の男』)。NYの上映会では、ワレサを演じたロベルト・ヴィエンツキエヴィチが上映後質疑応答をした。彼はアグネシュカ・ホーランド監督の『ソハの地下水道』(2011)で、ナチス占領下のポーランドで地下水道に逃れたユダヤ人たちを助けた主役の配管工も演じている。
 ヴィエンツキエヴィチがまず強調したのは、今まで知られていなかったワレサの家族生活が本作で描かれたこと、ワレサの妻やワレサが主導した独立自主管理労働組合運動「連帯」に関わった女性たちも最近次々と自伝を書き、女性の視点からもこの映画が描かれているということだった。しかし「連帯」が何だったのか映画を見ていてよくわからなかったという感想がアメリカ人の観客から真っ先にあがり、当時「連帯」の運動を詳細には追っていなかった私も実は同じ思いだった。それに対してヴィエンツキエヴィチは、1970年からの20年に渡る連帯の変遷を2時間で描くことがそもそも不可能であり、当初5時間あった長さを9ヶ月かけて127分までに編集したと語った。そして敗北で終わることが多いポーランド映画の中で、本作は珍しく勝利で終わるという彼の発言に場内が沸いた。
 この作品は、ワレサがイタリア人の女性ジャーナリストからインタビューを受けながら、「連帯」運動のさまざまな局面や家族とどのように関わったかを思い出すフラッシュ・バックが挟まれるという構成になっている。過去のこワレサ2とはモノクロで描かれ、それが途中でカラーに変わったり、また当時のニュース映画などの映像も使われていてわかりにくいという感想も観客から出た。ヴィエンツキエヴィチによれば、ワレサはあらゆる種類の権威を嫌ったので、ジャーナリストの優越的態度に即座に反発し、反感を抱きながら続けたインタービューだったそうで、彼は過去の場面とは区別してインタビュー場面を演じたと言う。
 ヴィエンツキエヴィチはワイダの演出方法について観客から問われて、例えばワレサの家で息子が砂糖をパンにかけて食べる場面は、ワイダが撮影現場で思いついた即興で、その場面から1970年代の物質的貧しさや人々の生活の慎ましさがリアルに浮かび上がったと賞賛。ワイダは87歳だが、すごいエネルギーで撮影現場の全てを掌握し、背景の木の枝の風に揺れる動きが気に入らないと撮り直しをしたりした逸話も披露した。
 ワイダは俳優を全面的に信頼し、俳優としては演じやすかったという。当初三名の俳優が年代に応じてワレサを演ずる予定だったが、最終的には一人の俳優が演じることとなり、自分が青年時代から演じたとヴィエンツキエヴィチが言うと、会場から大きな拍手が沸いた。
 映画は人々の意見を変えることができるかという質問に彼は、そもそもワレサがどのような人物であったか評価が分かれている、労働者の英雄か秘密警察の手下だったのかとさまざまにポーランドでは論争されているという事実があり、すでにワレサに対して意見を持っている人々の考えを変えることはできないだろうが、若い人には影響を与えると信じると主張した。
 やはり映画に関わった人の話は興味深いものであった。

マーテイン・スコセッシ監督の選択によるポーランド古典映画特集
 2013年2月にリンカーン・センターで、ポーランド古典映画特集(公式サイトはこちら)があったが、これは世界映画の古典の修復事業をすすめていることで有名な映画監督マーテイン・スコセッシが率先し、ポーランドの映画アーカイブやアメリカの映画配給会社と協力して実現したものだ。最新技術を駆使したデジタル修復で『灰とダイヤモンド』(1958)『エロイカ』(1957)『尼僧ヨアンナ』(1961)などポーランド映画史に残る作品の数々が21本並び、ニューヨークの後は全米を巡回上映する。先日ラジオでスコセッシのインタビューを聞いたが、その中で彼は1960年代に見た『灰とダイヤモンド』や『サラゴサの写本』(1965)の衝撃を語っていた。特に前者では、廃墟の中にキリスト像が逆さにぶら下がっている背景の手前で、若い男女が美しい言葉で会話をしている。その場では何かが軋んでいる音が聞こえているが、そこへ突如白い馬が登場する、とその視覚的聴覚的デザインを賞賛していた。私は1972年に東京の国立近代美術館フィルムセンターで開催された「ポーランド映画の回顧」で何本か作品を見ているので、その時見逃したものを今回は見た。
 『カモフラージュ(Camouflage/Barwy ochronne) 』(1977)はクシシトフ・ザヌーシ監督がある学会の腐敗と、それに立ち向かう理想主義的若手研究者の姿を展開させる。キャンプ場で学生が登録についてもめている場面から映画は始まる。カモフラージュ遅れてきて登録できない学生や、コンクールの審査員の欠席に対する不満が、学生側から現場責任者の大学院院生ヤロスラフに向けられる。彼は学生に理解を示そうとするが、年配の教授ヤコブはそれに反対し、学生を威圧し学長の機嫌を取り、事なかれ主義を徹底するように若いヤロスラフに助言する。この映画ではカメラが常に動いていることにまず気が付くが、刻々と変わる現状や登場人物の心情の起伏がまるで呼吸しているような動きとなっている。しかも奥行の深い構図の中、手前で話している二人の背景で掃除婦の若い女性が無言で働いていたり、近くの建物のテラスにいるヤコブの妻が見えたり、出来事が孤立せず常に広い世界の一部となって示されるのだ。
 画面は、言語学科の大学院生論文コンクールがキャンプ場で開催されていることを明かしていく。学長の横暴と、教授たちの迎合を理解できないヤロスラフが良心に従って行動しようといきり立つのを諌めるヤコブの言葉は、次第に過激になって若者を挑発し、心理ゲームの様相となっていく。野心的論文を書いた院生が日本語で「ハヤイ」「オソイ」という例を出したり、ヤコブがそれを批判して「ヤマ」という言葉を出す場面が日本人にとっては興味深い。ハリウッド映画的単純な勧善懲悪で終わらないのは、さすが欧州のアート・フィルムである。世代の違う二人の男が今後どのような人生を歩んでいくのか、余韻を残しながらこの映画は終わる。
 カンヌ、ヴェネツイア、ロカルノなどの映画祭で受賞しているザヌーシ監督は国際的に知られている。今回ザヌーシもラジオでインタビューを受けていたが、彼が映画を作り始めた1970年代にはポーランドでは映画に対する検閲が大分緩くなってきていた、しかしそれでも検閲は存在していたので自分の作品では政治批判のかたちをとらずに個人の倫理の問題としたと語っていた。なるほど、ザヌーシの『コンスタンス(The Constant Factor/Constans)』(1980)では、賄賂や二重会計が日常茶飯事なポーランドの社会で、頑なに不正を拒み周囲から孤立し、失墜させられていく電気工の青年を描いていた。この青年はヒマラヤで遭難死した登山家の父に憧れ、ヒマラヤの雪山の風景が彼の求める純粋さの象徴のように何度も画面に現れる。また彼は数学に興味を持ち、大学の講義にもぐりの学生として通って才能を教授に認められる。答えが一つしかない数学へ没頭することが、純粋さを追及する彼なりの表現だろうと納得させられるが、同じくザヌーシの『イルミネーション(The Illumination/Iluminacia) 』(1972)でも、主人公の青年は同様に、登山家で科学を追及する物理学者である。しかし自分の道に疑問を感じて、一度脱落して工場で働いたり修道院を訪ねたりする。息詰まるような緊張感と閉塞感に溢れる後年の作風と対照的に、ザヌーシのこの初期の作品ではアニメや図表、ドキュメンタリーを入れて断片的な情報をつなげていく愛嬌溢れる作風が新鮮であった。

 『サルト(Jump/Salto)』(1965、ダデウシュ・コンウィツキー監督)は、『灰とダイヤモンド』の主演のズビグニエフ・チブルスキーが、皮ジャンパーにサングラスというそのままの格好で7年後にタイムスリップで現れたというような寓話的な サルト モノクロ映画である。走る列車から飛び降り野原を横切り、川を渡って村に着いた彼はある家に入り、以前ここに住んでいたと主張。ここの住人の男性は彼を二階の部屋に受け入れる。男の夢の中に出てくる三人の男が罪状を読み上げて彼に向って銃を発射するところで彼は目覚めるが、その三人がレジスタンス、ドイツ軍、ポーランド軍の三種の服装で出てきたり、戦争のことが四六時中語られ、戦中派のやり場のない思いがここかしこと表面に押し出される。男がかつての恋人と思った女性がその恋人の娘であり、戦中派の男と戦後派の女性の邂逅という意味では1962年のオムニバス映画(フランソワ・トリュフォーや石原慎太郎らが監督として参加していた)『二十歳の恋』のポーランド編のチブルスキーを思い起こさせる。
 ダンス・ホールで村人たちが集い踊っている民族風ダンスの場面に侵入して舞台の音楽を乗っ取り、「サルト」というジャズ風ダンスを指導して村人たちを踊らせるチブルスキーのシーンは圧巻である。これが奇妙でありながらすごい迫力で、村人たちは催眠術にかかったような仕草で恍惚的表情を見せる。彼は戦後の安易なご都合主義に流され眠ったような村を攪乱しにやってきたトリックスターだったのかと思わせる。ピエル・パオロ・パゾリーニ監督の『テオレマ』(1968)の、ブルジョア家庭に闖入して家族全員をかき乱すテレンス・スタンプのこともちらっと思ってしまった。
 その後彼の妻と名乗る女性が幼子を連れて現れる。村には子供が苛められたと食ってかかる自称詩人や、ユダヤ人に見えるため迫害されているがユダヤ人ではないと主張する老人がいたり、皆が本当か嘘か、彼らの言うことは虚実皮膜の様相なのだ。男は村から追われるように、森を抜け川を渡り、野原を横切り、走ってくる列車に飛び乗って去る。このシーンが撮られてからほどなく、1967年1月に疾走する列車に飛び乗ろうとして轢かれて亡くなったチブルスキーのことを思い起して、この予言的イメージに心が凍り付いた人は少なくないだろう。
 スコセッシは政治的規制の多い中、ポーランドは素晴らしい作品群を生み出してきたと強調していたが、このように実に寓話的な作品では、作家の示す暗喩を観客が暗黙の間に理解していたことが想像される。しかも見る人によって様々な解釈が可能であろう。もちろんポーランド人にしかわからない象徴や歴史的事実があるに違いないが、時代や国境を越えて推察できることもある。

 ついでながら、今ニューヨークではポーランド映画が目白押しで、ブルックリンのBAMシネマでも最近のポーランド映画特集(公式サイトはこちら)をしているが、これには行けなかった。