DOCNYC(ニューヨーク・ドキュメンタリー映画祭 www.DOCNYC.net)が2011月2日から10日までマンハッタン南部のアート系劇場IFCセンターとニューヨーク大学で開催された。今年で2回目の同映画祭では52本の新作長編と22本の短編や学生映画が上映され、本年亡くなったドキュメンタリーの巨匠リチャード・リーコック(Richard Leacock, 1921-2011)特集もあって盛りだくさんである。マスコミの評判も中々良い。今回私が見たのは数本に留まったが、その報告をしたい。
ヘルツオークの死刑反対映画
オープニングはヴェルナー・ヘルツオーク監督の『底なし地獄へ』(原題はInto the Abyss, 同映画の公式サイトはこちら)で、墓場でのインタビューから始まる。インタビューされているのは刑務所の牧師で元看守である。彼はゴルフ場のカートでリスを轢きそうになり、リスが助かった時にいかに安心したか話すが、このあたりではクスクス笑っている観客がいた。しかし牧師が生命の愛おしさを説き、背後の無名の十字架を見て涙ぐむ頃にはさすがに会場は厳粛なムードになってきた。番号だけ刻まれている十字架の下に眠るのは刑務所で死刑執行された囚人たちで、引き取り手がなくて無縁仏になっている。場所はテキサス、アメリカで最も死刑執行の多い州である。(Death Penalty Infomation Centerによれば、1976年以来テキサス州で死刑執行された数は476人で、2位のヴァージニア州の109人を大きく引き離している。現在アメリカで死刑執行をしているのは50州のうち34州である)。
次に登場するのは8日後に死刑執行を控えた28歳の青年マイケル・ペリーで、州が自分を死刑にするのは納得できないと落ち着いて話す。スポーツカー欲しさに3人銃殺して死体遺棄をしたこの青年と共犯者ジェイソン・バーケットは、事件当時未成年だった。
事件担当の刑事が登場し、殺人現場、死体遺棄現場の案内をし、事件当時のニュース映像が見せられる。被害者家族の2人も涙ながらに登場する。
バーケットは終身刑になったが、彼の父も殺人罪で服役中だ。で、息子がこうなったのも酒とドラッグに浸って罪を犯し、家をあけていた自分にあると悔悟している。ペリーにはまだ幼さが残るが、バーケットは28歳という実際の年齢以上に落ち着いて見える。彼の支援運動をしていてバーケットと恋に陥って獄中結婚し、妊娠した女性(バーケットを訪問中に彼の精子をこっそり受け取って、人工授精したらしい)も登場するが、彼女は夫のバーケットは無罪だと主張する。ペリーとバーケットはお互いに罪をなすりつけあっているが、それはさすがに見苦しい。
最後にはかつて刑務所長で100人以上の死刑執行に立ち会った男性が登場する。ある時女性の死刑執行を機に職務が耐えられなくなり、年金受領資格を満たす直前に辞めたという。この人は最初は淡々と話していたが、最後には涙ぐむ。
執行を控えた死刑囚をはじめ、実際に死刑に関わる人々の表情をクローズアップで見るのは不思議な気分である。死刑囚が最後の時間を過ごす独房は金属製トイレと慎ましいベッドが置かれた狭い部屋である。その外側にはテーブルがあり、聖書、花を活けた花瓶、テイッシュペーパーの紙箱が几帳面に置かれている。その10歩ほど先にあるシンプルな部屋で死刑囚が寝かされ四肢を縛られて薬物投入をされる装置があり、それを見るのは胸が詰まる。最近、日本で執行されている首吊りによる死刑は日本国憲法で禁止している「残虐な刑罰」にあたるので、薬物注入に変えたらどうかという主張を読んだが、薬物注入も充分に「残酷」であると私は思う。
ナチスの蛮行を体験した国ドイツの国民として死刑制度反対のヘルツオークは、死刑囚が有罪か無罪かは問わず、どのような状況でも国家が殺人を犯すべきではないという立場をとっている。母と弟を失った被害者家族の女性は、犯人の青年の死刑執行に立ち会いそこでやっと気持ちの整理ができたと言う。しかし死刑反対のヘルツオークは「保釈なしの終身刑では満足できますか?」とたたみかけ、彼女は一瞬考えた後に「イエス」と答える。ここでヘルツオークの強引さが目立ったが、彼は映画を通して誘導尋問的によく喋り、うるさいのである。
死刑制度を見直すという意味では、大島渚監督の『絞死刑』(69)が衝動作であった。死刑執行が失敗したというブラックコメデイ的設定の中に、死刑制度や差別の問題への何層にもわたる考察がされ、国家が人間を裁く権利があるのかと最後に観客に質問を投げかけていた。
『デッドライン』
アメリカではドキュメンタリー『デッドライン』(Deadline詳細はこちらを参照)が、死刑制度再考についての大変な力作である。私はこの映画のニューヨークのプレミア上映となった2004年のリンカーン・センターでの人権映画祭で見た。二人の女性監督(ケイテイ・シェヴィングとカーステイン・ジョンソン)をはじめ、壇上に出てきたのがカメラマンも編集も製作も女性で、音楽担当だけが男性だったことにまず驚いた。この作品はコチコチの保守的共和党員で死刑制度賛成者だったイリノイ州(アメリカで最も死刑執行数の多い州の一つであった)の知事だったジョージ・ライアンの物語で、大学生の論文で明らかになった複数の死刑囚の冤罪事件を機に、知事が死刑制度を見直すところから始まる。彼は専門委員会を設立し、死刑囚やその家族、被害者家族の言い分を聞く。死刑囚の中には自分は殺人を犯したと罪を認めている者もいるが、冤罪を主張する者もいる。
そこで知事が達した結論は、死刑囚にはあまりに有色人種や貧困層出身者の比率が多く、これは社会問題だということである。知事は任期満了直前にまず4名の死刑囚を免罪し、翌日州内の167名の死刑囚全員を終身刑にして全米を衝撃に陥れた。以降ライアン氏は死刑反対運動に携わり、この映画の全米上映に一緒に廻り、その夜の上映会にも妻と一緒に参加していた。このようなパワルフな映画を見ていた私にとって、ヘルツオークの今回の作品はそれほど衝撃的ではなかったのが実感だ。
イラク・アフガン戦争の留守家族
『厚紙のパパ』(映画原題は「平らなパパ」という意味のFlat Daddy、公式サイトはこちら)は、ナラ・ガーバーとベッツイ・ナグラーという二人の女性共同監督によるユニークな題材の作品で、現在アメリカが交戦中であるという、普段忘れてしまいそうな現実に見るものを引き戻す。アメリカ軍はイラク・アフガニスタンに派兵される兵士の実物大の写真を厚紙に貼り、留守宅家族に配っているが、厚紙に貼られた夫や父の写真を家に飾り、彼等の帰りを待ちわびる家族の様子を追った作品である。扱われているのはニューヨーク市の黒人男性とプエルトリコ系女性のカップルと5歳ぐらいの女児の家族、北部のメイン州田園地帯の幼い男児と女児のいる白人のカップル、中西部ミネソタ州郊外の医務官として軍勤務する夫婦(白人の夫と、インド系かアラブ系有色人種とみうけられる妻)の2歳と3歳の男児を預かる夫の両親、南西部ネヴァダ州のメキシコ系兵士の母とその家族で、地理的・人種的ヴァラエテイーを集めて各々の家族の1年を追っている。
小さい子供は最初「パパ、パパ」と言って厚紙の父の写真と一緒に遊ぶが、それが代理でしかないことが子供たちにも判ってくる。しかし居るべきはずの男として厚紙のパパは居間に鎮座し、子供との遊びで使い古されると何度も裏にテープを貼られて補強されていく。
戦士した息子を嘆く母の姿ばかりではなく、戦争の悲劇はさまざまなかたちで影を落とす。若い夫婦の夫が従軍すると、残された妻は子供を抱えて家計を切り盛りし、たくましさを増していく。このあたり、「Rosie, the Riveter (リベット工ロージー、そのポスターや当時の写真のイメージはこちら)」といわれ、第二次世界大戦中の従軍した男たちの穴埋めで工場労働者として働くようになった女性たちの存在を思いおこさせる。日本でいえば、レンズ工場で働く銃後の女性たちの奮闘を描いた黒澤明監督の『一番美しく』(44)である。男たちがいなかったゆえに、社会進出した、あるいは「進出できた」女たちという歴史的事実である。第二次世界大戦から半世紀以上立った今では、アメリカでも日本でも女性の社会進出はめざましい。ニューヨークの若い母はオフィスで働き、メイン州の若い母はダンスを教えている。そこへ帰還した夫が帰ってくると、子供は中々父になつかないし、今まで自分を頼っていた妻も堂々と独り立ちしている。夫は居場所がなくなった思いをして夫婦の間がうまくいかなくなり、メインの夫婦は夫の帰還後に別離する。
イームズ夫妻を描く
『イームズ・建築家と画家』(映画の原題はEames: The Architect and the Painter、映画の公式ウェブサイトこちら)は、ジェイソン・コーンとビル・ジャージーの共同監督で、アメリカを代表するデザイナーのチャールズ(1907-1978)とレイ(1921-1987)・イームズ夫妻の偉業と人生をたどる。この作品でもまた、女性の職業ということを考えさせられる。大学の建築家を中退したチャールズと抽象画家であったレイは1941年にミシガンのデザイン学校で出会い、ロサンゼルスでデザイン・オフィスを開く。時は戦争中、彼等が実験に次ぐ実験の末、合板で仕上げた添え木や担架が米軍に採用され、デザイナーとしての一歩を踏み出す。
戦後はニューヨークのMOMA(近代美術館)が公募したデザイン賞に、事務所のパートナーのエーロ・サーリネンとチャールズが連名で応募した合板で作った椅子のデザインで一等賞をとる。その椅子の大量生産化にイームズ夫妻が苦心惨憺するが、ついに成功してハーマンミラー社に採用され、イームズの椅子は戦後アメリカを代表するデザインとなった。彼等はアルミニウムやファイバーグラスで椅子を作り続けるが、緩やかなカーブをみせるシンプルなデザインの彼等の椅子は広くオフィスや飛行場待合室にしつられているので、見たことがある人が多いであろう。
イームズ夫妻はプレハブのシンプルな家を建ててそこに生涯住み、アニメ実験映画を作りゲームを考案、時代に先駆けてさまざまな領域で二人は新しい概念を発見し応用する。映画『パワーズ・オブ・テン(Powers of Ten)』は海岸でリラックスするカップルのイメージを上から捕らえ、10倍、100倍とそのレンズ・サイズを変化させ、街を超え、都市、州、国、大陸、地球を超えていき、その後反対にカメラを急速にズーム・インしていくのである。このペースの速い映像は1977年の製作当時には非常に斬新なものであった。
イームズ夫妻はまたIBMなどの企業と連携してさまざまなインダストリー・デザインを手がける。1959年モスクワでのアメリカとソ連の文化交流の催しで、自動車の走るハイウエイ、通勤場面、家庭などアメリカの日常生活のイメージを7つのスクリーンで同時に見せる彼等の企画は人気を博した。1964年のニューヨークの世界博覧会でのIBMパビリオンのデザインではさらにスクリーンの数が増えて、壁や天井を埋め尽くす。1976年の建国200周年の世界巡回展示「フランクリンとジェファーソン」は、ニューヨークでは資料がごちゃごちゃ溢れすぎていると批判されたが、コンピューター的に多くの資料を積み重ねる概念は時代の先取りであったといわれる。
イームズ夫妻の活動には“クレジットの問題”が出てくるとこの映画は主張する。多くの作品のクリエーターとしてチャールズの名前だけが提出され、レイの名前はなかったことである。担架も椅子も製造化にレイの尽力が大きかっただけではなく、事務所に集まったデザイナーや建築家たちの才能がお互いに切磋琢磨しながらより優れたものを作り出していった力学の結果だと、映画の中で多くの関係者が証言していた。レイは自分を主張することなく陰で夫を支えていたが、チャールズの死後はイームズの事務所で創作されたものを整理・カタログ化して後世に残すことに力を注いだ。
ハンサムでカリスマ性のあったチャールズには女性問題も避けられなかった。レイに出会う前の最初の妻キャサリンの父のスポンサーで、新婚の二人は欧州にハネムーンに行きルコルビジェなどの建築を見て歩いたが、これがチャールズの建築デザインに対する目を大きく開いたことに違いない。帰国後デザイン学校に招かれたチャールズは妻子を伴いミシガンへ移るが、そこで出遭ったレイと再婚する。チャールズはその後会議で出会った若い建築評論家と恋に落ちる。その女性はレイに遠慮して不倫の関係を選んだことがその本人によって映画の後半のインタビューで語られる。レイがどのように思っていたかはわからないが、彼女はイームズ事務所の運営に集中し、チャールズの死後ちょうと10年後の同じ日に息を引き取った。
ナチスとシャーロット・ランプリング
瞼が重くてちょっと奇怪な表情となってきたシャーロット・ランプリングを最近見たのは、ニューヨーク映画祭で見たラルス・フォン・トリエの新作『メランコリア』(11)(11月中旬より全米劇場公開、映画の公式サイトはこちら)であった。この映画でカーステイン・ダンスト演ずる花嫁は“精神的不安定”状態を通り越して異常もよいところなのだが、私はこの映画を見ながら反省した。こんな病気の人と2時間もつきあうのはとてもできないとネをあげてしまったからだ。以前の私なら、普通ではない人を楽しんでいたと思う。日一日と常識人になりつつある私自身に落胆したのだ。ランプリング演ずる花嫁の母は、とても意地悪で露悪趣味で冷酷で、あの母にしてこの娘ありと思わせるに充分だった。ランプリングが画面に登場すると観客から笑いが生じたほど、彼女の存在感はすごかった。
『シャーロット・ランプリング その眼差し』(英語原題Charlotte Rampling: The Look、公式サイトはこちら)はドイツのアンジェリナ・マカローネ監督の作品である。彼女の映画出演の順番ではなく、「年齢」「美」「タブー」などのテーマ毎の章に分かれ、写真家のピーター・リンドバーグ、小説家のポール・オースター、詩人のフレデリック・サイデルなどの親しい友人とランプリングが喋るところをカメラは捕らえる。彼女自身がカメラを構え街にでるところも捕らえられる。そこに彼女の代表作のシーンが挟まれる。
ランプリングは意地悪な役が似合う。しかもどのような環境にある女性でも意地悪な役が絶妙だ。1966年の『ジョージー・ガール』(シルヴィオ・ナリッツアーノ監督)でイギリスの労働者階級の要領の悪いヒロインと対照的に調子のよい女性を演ずるランプリングは、輝くように美しい。
その後、意地悪というよりもちょっと普通ではないという性格のヒロインを演じてランプリングは俄然個性を発揮する。何と言っても国際的に彼女の名を不動にしたのはリリアナ・カヴァニーニ監督の『愛の嵐』(73)で、ナチスの収容所でダーク・ボガード演ずる将校に玩ばれ、戦後ホテルの荷物運びとなっている彼に再会して関係を復活する元収容者を演ずる彼女のイメージは強烈だ。
この映画はナチスの題材が問題となり、イタリアでは上映禁止となり、アメリカでは辛口評論家のポーリン・ケール(ユダヤ系)に「こんなことはありえない」と全面的に否定されたとランプリングは回顧する。そして監督の解釈は知的なものだが、ランプリングの解釈では二人の関係に愛があったと思うと述べる。ナチスの非人間的行為を糾弾しているのか、結果的にナチスを擁護しているのか解釈は分かれるであろう。
チンパンジーと恋に陥る女性を描く大島渚監督の『マックス・モナムール』(86)、突然失踪した夫に心が揺れ動く女性を演じたフランソワ・オゾン監督の『まぼろし』(01)、発達途上国へ休暇に行き、現地の若い男をセックスのために金で買う先進国の中年女性たちを描くロラン・カンテ監督の『南へ向かう女たち』(05)など、ランプリングは難しい役に挑戦し続けている。
人間として育てられたチンパンジー
チンパンジーといえば、同映画祭で紹介されたジェームス・マーシュ監督の『プロジェクト・ニム』(英語原題Project Nim、公式サイトはこちら)がチンパンジーを主役としている。マーシュ監督は1974年にニューヨークのワールド・トレード・センターの2つのタワーの屋根に綱を張り、その上を歩いて見せたフィリップ・プチの秘話を探る『マン・オン・ワイア』(08)でアカデミー賞を受賞し、新作が待たれていたホットな監督である。
マーシュの映画は、1970年代にアメリカでチンパンジーを人間として家族の中で育てて、チンパンジーが人間と同様の思考や行動ができるようになるかという実験をした知られざる事実を掘り起こしたものである。コロンビア大学に依託された実験チームの家族やその友人の家族が、幼いチンパンジーをニムと名づけ我が子のように育て記録を取る。自我の発達とともにニムは次第に暴れたり言うことを聞かなくなるので、中西部のチンパンジー・センターに売られてしまい、檻の中の無気力な生活となる。用済みのチンパンジーは、檻の中でなければ生体実験室で人体の代わり実験台に載せられる運命になる。そのニムがかつての研究員と再会する場面は感動的である。自分たちの都合でチンパンジーの運命を軽々しく扱う人間のエゴを、その研究員は非難する。私は特に猿のファンではないが、人間の家族の愛情の中で満足気なニムの表情は素晴らしく、人間のエゴに翻弄されるニムの表情は痛々しい。ところどころで私は涙を流した。これは何をもって「人間」とするのか、考えさせる映画である。
大震災と日本
今年のこの映画祭では日本関係の2本の短編があり、上映後監督や製作者が舞台で質疑応答をしたが、両作品とも日本に魅せられた白人女性によって作られていた。日本の古い民家を鎌倉に移築して住んだアメリカ人ジョン・ブロデリックとその養子となった瀧井嘉弘の写真集『民家移築――合掌造りに生きる』を基にしたカナダ出身のダヴィナ・パルドの『民家』(英語原題Minka、公式サイトこちら)(16分)は、使い込まれた古い建材の魅力や自然を採りいれる日本の伝統建築の良さが存分に映像化されていた。
『津波そして桜』(英語原題The Tsunami and the Cherry Blossom、公式サイトはこちら)(40分)のルーシー・ウオーカー監督はイギリス出身で、ブラジルの巨大なゴミ捨て場からリサイクル・アートを製作する男性をドキュメンタリー『ウェイストランド(英語原題Wasteland、公式サイトはこちら)』(10、私は未見)でアカデミー賞にノミネートされている。日本の美しい桜を俳句のように描く映画を構想していたルーシーが日本への出発直前の3月に、東日本大震災と津波が起こる。そこで映画の構想を変えて被災地の人々がどのように暮らしているか、その後の桜の季節がどのように受け取られるのかを記録することにする。日本に住み日本語ができる現地コーデイネーターのジェームス、カメラマンのアーロン、ルーシーの3名の白人が、被災地の様子がわからないまま食料と避難所の人々へ贈る下着を積んで車で東北へ向かう。
そこでこの外国人たちが捕らえたのは、家族や友人と生き別れになった体験を語り、瓦礫の中でかつての家を探し、桜を今年も眺めてさまざまな思いを抱く人々である。被災者の反応についての観客からの質問で、ルーシーは最初の方で訪れた込み合った避難所の数々では皆話したくないという反応だったが、人があまり行かない奥地に行くにつれ、誰かに話を聞いてもらいたいという思いからか、被災者はむしろ喜んで話してくれたようだという。この作品の編集はロサンゼルス在の日本人アキ・ミズタニさんだが、最初に編集前に映像を見た時、通常感情をあまり知らない人に見せない日本人がかくも率直に語り、カメラの前で涙を流しているのに驚いたという。
一つ一つではなく多くの花が集まってはじめて美しく見える桜は、散るのが早く、散る姿も美しい。これが日本人の精神とぴったりくるのだと何人かの中年男女が映画の中では説明しているが、津波の海水を被りながら今年も咲いた桜を見て自分も頑張ろうとか、自然は人間の生活を超えたところで展開しているとか種々の思いをまた語る被災地の人々がいる。津波の被害と桜を関連づけた題材の捕らえ方は、日本人ではできない発想かもしれない。被災地の人々も外国人だったから心を開いたところがあるのかもしれない。この映画は今年度アカデミー賞短編ドキュメンタリー部門のショートリスト(ノミネートの前の段階の予選)に入っている。