(1)ゴシックの誕生――サン・ドニ大聖堂(修道院付属聖堂)【サン・ドニ】
[2005/2/7]

パリの北隣
サン・ドニ市(パリ市内のサン・ドニ門のあるあたりもサン・ドニ街とよばれるが、ここでとりあげるのはその先にあるパリ北隣の郊外都市のことである)。パリのモンマルトルの丘から徒歩にしてわずか6000歩だそうだ。パリの北隣、パリ周囲を取り囲む環状道路を越えれば、そこはサン・ドニである。もともと小さなパリ(面積105平方キロメートルは東京の山の手線の内側くらいの広さ)だから、パリ市中心部からサン・ドニへ行くのは、新宿から吉祥寺へ行くようなものである。さらにはメトロ13番線が通っていてメトロで行けるので、片道の交通費はわずかに1.8ユーロ(約200円)と安い。

 にもかかわらず、ぶらぶら猫はこの夏(2002年8月)までこの街に足を踏み入れたことがなかった。いやバスや電車で何度も通ることはあった。なにしろサン・ドニはパリからシャルル・ド・ゴール空港へ向かうルート沿いにあり、その車窓から見える1998年に開かれたワールドカップ・フランス大会の決勝会場となったスタッド・ド・フランスはサン・ドニ市にある。しかし、サン・ドニ市内の駅で降りて、市内を散歩したことはなかったのだ。

 それはなぜか? 今回訪問した大聖堂以外に、とりたててめぼしい観光名所がないためでもある。最近はスタッド・ド・フランス目当ての観光客もいるようだが、グランド・アルシュ(新凱旋門)のあるデファンス地区(クールブヴォワ、ピュトー市)やヴェルサイユ宮殿(ヴェルサイユ市)のようなスーパースターがサン・ドニにはいない。

サン・ドニの場所
サン・ドニ市 Saint-Denis
セーヌ・サン・ドニ県
人口86,871人(1999年)
パリの北隣
[パリからの行き方] メトロ13番線バシリック・ド・サンドニ駅 Basilique de Saint-Denis下車(シャンゼリゼ・クレマンソー駅からサン・ドニ・ユニヴェルシテ
Saint-Denis Universit


危険な街?
しかし観光名所の有無はそれほど大きな理由ではない。ぶらぶら猫は観光名所からはずれた所へ行くほうがむしろ好きだし、普通の人があまり訪れない場所を好むひねくれ者である。

 ぶらぶら猫がサン・ドニを訪れなかったのは、そのあまりに悪い「評判」のためである。とにかく危険なごろつきがのさばる無法地帯で、近づくべからずという噂を誰かから聞いたか、勝手に思い込んだか、映画『ニキータ』に描かれた不良者が闊歩するニューヨークのハーレムのような場所と恐れおののいていたのである。であるからゴシック発祥の地といわれ、歴代フランス王家が菩提寺としてきた教会がこの街にあるとわかった時、なんでそんな所にあるのだと嘆きたい気持ちになったものだ。

 さて、サン・ドニ大聖堂であるが、その起源は3世紀にさかのぼる。宗教にはつきものの奇妙きてれつな伝説によると、サン・ドニという名前の由来となった最初のパリ司教である聖(サン)ドニSaint-Denisは、250年にパリのモンマルトルの丘で斬首されたが、その直後に自分の首を持ったまま北へ向かって歩き出し、冒頭で紹介したように6000歩行ったのち、現在のサン・ドニの地で死んだのだという。

いざサン・ドニへ
朝方は陽光輝く気持ちの良い天気のパリであったのに、突然、暗雲がたれ込みはじめた不吉な予感のする中を、モンマルトル近くのギー・モケ駅からメトロ13番線に乗ってサン・ドニへと向かった。伝説の殉教者の足で6000歩は電車に乗ればあっという間、すぐにサン・ドニ修道院付属教会堂のあるバシリック・ド・サン・ドニ(サン・ドニ教会堂)駅に着いた。パリ北東部に共通する、さまざまな人種がまじりあう雑多な雰囲気が、メトロの中から漂いはじめる。

 サン・ドニ駅前は、超モダンな建物が立ち並び、未来都市のような様相を呈している。ハイパー・マーケットのカルフールをはじめ、商店が並んでにぎやかだが、パリらしい伝統的建物はあまり見られないし、中世の由緒ある教会を訪れるにふさわしい場所とは思えない。まあ、日本の伝統的街並みを残す代表的都市?である京都を訪れる外国人が京都駅を見た時の驚きにくらべれば、たいしたことではない。

 あいにく雨が振り出す中、個性あふれる近代的建物群を小走りに抜けると、目ざす教会堂が姿をあらわした。さすがに由緒ある教会だけあって、周囲の建物よりも一頭抜きんでた高さがあるが、圧倒されるほどの迫力ではない。身廊天井までの高さ29mは、パリのノートル・ダム大聖堂などより一回り小さいし、鐘楼も南側に1本しかなく調和を欠いている。

サン・ドニ大聖堂俯瞰(ふかん)図と身廊立面図(左下)、身廊断面図(右下)


サン・ドニ大聖堂の見所
サン・ドニ大聖堂の見所は、建物自体の大きさや優美さよりも、内陣やクリプト(地下墓所)を埋めつくす歴代フランス国王の墓にある。もちろん、最古のゴシック建築としてのサン・ドニ大聖堂の価値は大きなものがあるし、もっとも古い例であるとされるバラ窓も見事ではある。しかし、それらはパリやランスといった、より後にたてられた、より完成度の高い大聖堂を見慣れた我々の目には、とくに感動を与えるものではないし、ゴシック発祥の地であるという建築史上の意味を念頭におかなければわからない玄人向けの価値である。

 サン・ドニ教会堂の見所がその内陣やクリプトの墓にあることは、入場料が必要なことからもわかる。フランスのたいていの大聖堂は内陣周歩廊を歩くだけならお金はいらない。クリプトに入るためや塔に登るためにお金を払わなければならない大聖堂は多いが、地上部分は外陣 、内陣ともに入場自由なのが普通である。ところがサン・ドニ大聖堂は外陣と袖廊(トランセプト)の間に柵があり、内陣に入るためには一度外に出て、大聖堂南側にあるゲートで入場料を払い、袖廊南扉口から入りなおさなければならないのだ。

 内陣の様相は他の大聖堂と大きく異なる。そこかしこに歴代国王や王妃の墓碑が並んでいるのだ。棺のような直方体の石の上に浮き彫り彫刻のついただけのものから、天蓋付の立派なものまで形はさまざまである。ルイ○○世、シャルル○○世とフランス史をいろどる国王たちの墓が並んでいるが、素人にもなじみのあるのはフランス革命で犠牲になったルイ16世とマリ・アントワネットの墓である。1793年にパリのコンコルド広場でギロチン刑にかけられた直後はマドレーヌ墓地に葬られていたらしいが、王政復古時代にサン・ドニに移されたのだという。

ゴシックとシュジェール
ゴシック教会堂という、当時としては革新的な建築がサン・ドニの地につくられたのは、サン・ドニ修道院長だったシュジェール Suger(1081~1151年)の力に負うところが大きい。サン・ドニ修道院はカロリング朝(751~987年)の頃から王家とつながりの深い有力な修道院であったが、その権威はシュジェールの時代に頂点に達する。彼は単に聖職者であるにとどまらず、その世知にたけた才能を発揮して国王たちに取り入り、ルイ6世(在位1108~37年)や7世(在位1137~80年)の国務評定官を務めた人物である。最新の建築・芸術様式を生み出すだけの財政的余裕は、彼の世俗的才能と地位によって生み出されたのだ。

 ロマネスクの修道院も、史上最大のロマネスク教会堂をたてたクリュニー修道院をはじめとして、聖職者のイメージからかけ離れた、相当に世俗的欲望にまみれた世界であったらしいが、ゴシックの誕生にも、シュジェールのような俗っぽい人物が必要だったということだ。

 サン・ドニ大聖堂を出発点としてイル・ド・フランスの地に競うようにたてられることになるゴシック大聖堂の数々も、純粋に神を敬う気高い志によってというよりは(もちろんそれもあったではあろうけれども)、「おらが街にも隣街より立派な大聖堂を」という見栄や競争心が原動力となったのだ。

サン・ドニ大聖堂前広場からのスケッチ
雨が降っていたために現地でスケッチができず、写真をもとにしてのイラストとなった。近代的な都市の中にぽつんとたっている印象。


サン・ドニの街
大聖堂を出ると、雨はさらに激しくなっていた。しばらくサン・ドニの街をぶらついてみる。こぎれいさとは無縁の雑多な街だ。あえてこの街に住みたいと願う人間は少数派であろう。

 サン・ドニの歴史は5世紀に、パリの守護聖女ジュヌヴィエーヴがサン・ドニの墓の上に教会をたてたことにはじまる。以後、サン・ドニは修道院を中心とした門前町として発展し、カロリング朝ルネサンス期には写本挿絵や金銀細工が盛んになるなど、文化都市の性格が強かった。それが19世紀の産業革命期になり、パリに近い立地が認められ、セーヌ河に通じるサン・ドニ運河の開通もあって、工場や労働者が次々と移り住んで産業都市へと一変した。化学・薬品工業から金属・電器工場まで、第2次産業の街としてサン・ドニ市は戦後フランスの高度成長を支えるが、1970年代以後、長引く経済の停滞と公害問題などにより、工場は地方に移転していった。

 現在のサン・ドニ市は工場跡地を文化施設や緑地などに変える再開発に取り組み、再び産業都市から文化都市へと脱皮しようとしている。サン・ドニ市が、フランス王家ゆかりの、そして最初のゴシック芸術たる大聖堂にふさわしい都市に生まれ変わるのも、そう遠いことではないかもしれない。

 

ロマネスクとゴシック
中世西洋美術史を飾るこの二大美術様式は、ヨーロッパ各地に壮大な教会堂を残した。またこの時代の絵画や彫刻は今日のように独立したジャンルを確立してなく、建築と一体であったから、ロマネスクやゴシックは単に建築のみならず美術全体の総合芸術様式でもあった。

 時代的にはロマネスクが10~13世紀、ゴシックが11~14、5世紀にあたる。ローマ滅亡後、大建築をたてる技術をもたなかったヨーロッパ人が、ようやくローマ人なみのアーチやヴォールトを使用した石造大建築をたてられるようになった中世後期。スペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼路沿いに次々とロマネスクによる教会堂がたてられる。

 同じ中世石造建築を代表するロマネスクとゴシックであるが、その性格は面白いほど対照的である。いわく、地方と都市、質素と豪華、敬虔と世俗、重厚さと軽快さである。

ロマネスク建築は、巡礼路沿いの教会堂や山奥にある修道院を中心にはじまり発展した。対してゴシックは、人々の農村から都市への移動、都市の発展とともに誕生した。修道僧や巡礼者を相手にするロマネスク教会堂が「敬虔」なキリスト教徒の建築であるのに対して、都市の中心にそびえたつゴシック大聖堂は、かならずしも「敬虔」なキリスト教徒にのみ向けられた建築ではなく、まだまだ「邪宗」的信仰を残していた中世ヨーロッパ都市住民の集会所的役割を担っていたのだ。

 地方より都市、厳格な信仰の世界よりも浮世の快楽を好むぶらぶら猫が、ロマネスク建築よりもゴシック建築に惹かれる理由はここにある。

ゴシックとロマネスクの単純な比較