「第19回東京国際映画祭」が閉幕

[2006/11/19]

 今年で19回目となった東京国際映画祭が、10月30日で終了した。デンマーク作品『アート・オブ・クライング』(Kunsten at grædeíkor)も参加した今映画祭だったが、残念ながら賞は逸したものの、六本木ヒルズのTOHOシネマズと渋谷のBunkamuraオーチャードホールで1回ずつ行われた上映には多数のファンが詰めかけ、上映終了後のティーチイン(六本木会場)や公開記者会見(渋谷会場)では、熱心な質疑応答が展開された。今回、ゲストとしてペーター・ショーナウ・フォー(Peter Schønau Fog)監督のほか、主演のイェスパー・アスホルト(Jesper Asholt)、プロデューサーのトーマス・ステネロプ(Thomas Stenderup)の3氏がゲストとして来日、六本木と渋谷、いずれの会場でもこの3氏がファンからの質問に答えた。

 今回、「アート・オブ・クライング」を中心に東京国際映画祭を取材する機会を得たので、この作品と、ゲストとのやりとり、そして映画祭全般などについてご紹介したい。

この作品について
 この映画は、本コラム第48回でも触れたように、1970年代初めのデンマーク、ユトランド半島南部の小さな町が舞台の作品。この地方はドイツとも国境を接しているため、独特の方言があるところ。そのせいもあって、主人公のアランと姉のサネ役を演じる少年(ヤニク・ローレンセン:Jannik Lorenzen)と少女(ユリエ・コルベック:Julie Kolbech)は地元の子どもたちの中から選んだ、ということだった。

 物語は、この小さな町で、牛乳屋を営む一家を中心に展開する。この田舎町にもスーパーができて、牛乳屋もお客が減っている。一家の主、アランの父親のヘンリーは精神的に不安定で、よく絶望して死にたいと口にして泣くのだった。そういうときには、サネが、彼を「慰める」ために下着姿で父親のいる階下のカウチへと降りてゆく…。

 このように、児童への性的虐待ということをメインに描く作品であったこと、また、演じるのがオーディションで選ばれた素人の子どもたちということもあって、演技経験のない彼ら子役をどう指導するか、ということは映画製作の上でいちばん苦労した点だったという。

 フォー監督によれば、「私たちにとって、子どもたちにダメージを与えないことが最大の心配でした。演技指導にあたっては、まず、子どもたちと演じるキャラクターとの間に距離を持たせるということに非常に力を入れました。子供に演技指導できる専門家を雇い、1つのシーンを撮る前に、必ず3つのステップを踏むように心がけました。最初は、ストーリーの中の状況で、アランとサネは、どんな風に受け止めるか考えさせる、2つ目は自分だったら、このような状況の中でどう受け止めるか考えさせ、そして最後に、こういう状況に置かれているのが自分たちでなくて本当によかった、と思わせる。このことで距離を持たせ、演じる人物と一体にならないよう心がけたのです」ということだった。また、父親のヘンリー役を演じたアスホルトは「私と妻役のハンネ・ヘーデルンド(Hanne Hedelund)は早めにロケ地に入り、演じる子どもたちと時間をできるだけ長く共有するようにしました。撮影の際は、まず監督から演技について口で説明して理解させ、感情を抜きにして何度か動きの練習をし、それから本番に入って、あとはみんなでお昼をとって楽しい時間をすごす、といったような流れでした。繊細なシーンや刺激の多いシーンは、お互いの関係がきっちり成立した撮影の後半に撮るようにしました」と、スタッフ、キャスト全員が、気を遣いながらの撮影であったことをうかがわせる。

 作品の中では、息子のアランは父親が悲しまないように、元気づけよう、元気づけようと努力して、葬式の弔いの言葉を述べる父の才能に気づき、もっと父に弔いの言葉を言ってもらおうと「努力」する健気なようすが描かれる。この点をフォー監督は「つらい話ですが、少年自身が父親をなんとか元気づけたいという、そういう少年の中にあるトーンを通して描くことに徹しました。そのことで、観客のみなさんも元気づけられるのではないかと思ったのです。そうしなければ、もっと救いのない映画になっていたでしょう」と説明。救いのない中でも、父を元気づけようと試みるアランの行動には、ユーモラスな面も多々あって、笑うべきなのか悲しむべきなのか、とまどってしまうようなシーンも多々あった。

 一方、実の子どもを性的に虐待する父親役を演じたアスホルトは、この難しい役どころを演じるにあたって心がけたことについて「重要な役どころですし、原作の小説に忠実に演じたいと思いました。ただ、観客がいやだ、許せない、といった形で父親に対する関心を失うのではなく、彼の立場や状況を理解し、自分にも起こりうることなんだといった形で、ある種、共感してもらえるように演じようと努力しました」とコメントしていた。

原作との関連、ドグマ・チェコ映画からの影響など
 アスホルトのコメントにもあるが、この作品はデンマークの作家、アーリン・イェプセン(Erling Jepsen)原作の小説で、2002年に刊行され、デンマーク国内ではベストセラーになったということだ。監督によれば、この作品はイェプセンの自伝的な小説で、彼自身の生い立ちに重なる部分があるのだという。フォー監督は「私自身がこの作品を読んだ際に感じたのは、直接性的虐待を受ける姉だけではなく、主人公の少年自身もまた精神的な虐待を受けているということです。父親を助けること以外に、彼には目的がありません。悲しいことだと思います。そこに描かれているのは真実だと思いました。そういうことにひかれたので、映画化を決意しました」と語った。さらに、原作に忠実であることを心がけたが、その細部は大幅に変えてある、ということだ。

 また、「真実を描く」ということに関連して、「この作品とドグマ95(189ページ)との関連は?」という質問も出されたが、これに関しては、「この作品はドグマではなく、伝統的な映画の技法にのっとって作った作品です。しかしドグマにはいくつかの優れた点があります。たとえば、物語に忠実であることや、俳優の真実の演技が引き出せることなど、そういった点は、この作品はドグマではありませんが、心がけて作ったつもりです」という(また、このコメントの際、ドグマ95作品について、ラース・フォン・トリアーの最新作が最後になるのではないか? というコメントもあったが、ここでフォー監督が言っている作品は、今年公開されたトリアー監督の最新作「The Boss of It All」<Direktøren for det hele:本コラム第22回参照>のことと思われる。ただこの作品、ドグマ的な手法は使われているようだが、オフィシャルなドグマ95作品とはなっていないようだ)。

 さらに、彼はデンマークの国立フィルムスクール(60ページ)に入学する前には、チェコのフィルムスクールに1年間通ったという。そこで彼はチェコのニューウェーブといわれるような作品に多く触れ、とくにミロス・フォアマン監督(Milos Forman:1932年生まれ、代表作に『カッコーの巣の上で』、『アマデウス』など。今回の東京国際映画祭で偶然にも彼は第3回黒澤明賞を受賞した)の作品に大きな影響を受けたという。「それらの作品の中には、新鮮で、それまで私が関心を持っていたものとは違うものがありました。真実を描くということ、それも群衆といった距離をおいたものよりも、一緒にコーヒーを飲むような近さの、もっと親密なものを描く。そういうことに興味をがわいたのです」。そしてその後、ヒューマン・コンテントが非常に重要なものになったというフォー監督。そんな彼にとって、長編劇映画第1作にこの原作を選んだというのは、ごく自然な成り行きだったのではないか。作中の登場人物の心理描写の細やかさ、登場人物の何気ない動作、といった点に、そういったことの影響が見て取れたような気がした。

 この作品、家族の問題、親による子への性的な虐待という非常に重たいテーマを扱った作品ではあるものの、さまざまなことを考えさせられる映画で、なかなかいい作品と思う。フォー監督の今後にも期待したいところだ。また、この作品はデンマークではまだ劇場公開されていないが、本国での観客の反応なども興味深い。

左から監督のペーター・ショーナウ・フォー、
プロデューサーのトーマス・ステネロプ、
主演のイェスパー・アスホルトのみなさん。
10月27日、Bunkamuraオーチャードホールでの上映後に撮影。
グランプリ受賞作と映画祭全般について
 今回の東京国際映画祭はグランプリ作品(東京サクラグランプリ)に、エジプトのカイロを舞台にしたフランスのミシェル・ハザナヴィシウス(Michel Hazanavicius)監督によるドタバタコメディ『OSS117 カイロ、スパイの巣窟』(OSS 117, Le Caire Nid d'Espion)を選んで閉幕した。このような娯楽作品がグランプリに選ばれるのはかなり異例なことのようだが、どうなのだろうか? この作品、映画祭最後の受賞作品上映の際に筆者も観たが、たしかにパロディ映画、コメディ映画としては面白いかもしれない(ただ、イスラムや中東のこと、あるいはパロディの元ネタなどある程度知っていないと、どこがおかしいのか分からないといった部分も多々あった)。

 だが、映画祭としては娯楽性だけでなく、もっといろいろな点を考慮して選考すべきものだろう。もちろん『アート・オブ・クライング』をグランプリにすべきだった、というわけではないのだが、『OSS117…』がそれに値するかどうかは個人的にはちょっと「?」である。

 この辺は審査委員の間でも意見が分かれたところらしく、受賞式後の記者会見では委員の一人、柳町光男監督が「この作品には反対した。面白い作品だが、賞に値するかどうかは疑問。16本の作品を観て、中国、韓国、香港の映画が強いという印象を受けた。『OSS117…』がひどいというわけではないですよ、楽しめる作品です」と発言していた。また、同じく審査委員のインドネシアのガリン・ヌグロホ監督は、「コンペ作品はクオリティ的にはどれも同じ水準という感じだった。特にこれはすごい、というものがない、というのが問題だった。『OSS117…』はエンタテイメント性、芸術的な面がバランスがとれている、という意味ではいちばんいい映画だったのではないですか?」ということで、なかなか抜きんでた作品がなく、「苦し紛れ」に近い一面もあったようだ。だがそれならそういう理由で、今年は「該当なし」でグランプリを選ばない、という選択もあってよかったのではないだろうか?

 今回にとどまらないが、東京国際映画祭は特別招待作品の話題作や、コンテンツビジネス的な面ではそれなりに盛り上がってはいるものの、映画祭の要であるべきコンペ部門はいまひとつ盛り上がりに欠けるようだ。ただ、観客も参加できる公開記者会見とか、ティーチインなど、映画の作り手と観客が交流できる場を多く作ろうという姿勢はある程度評価できるように思う。フォー監督も、「賞をとることよりも、日本の観客の皆さんに、この作品を観ていただいて、どう受け止めてもらえるか、そして、こうしてお話しできることが大切だ」ということをオーチャードホールでの公開記者会見でコメントしていた。今後も、会場だけではなく、たとえばインターネットを使った質疑応答とか、さまざまなことを試みて、一般の人々が参加できるような機会を増やしていくべきだろう。

 あとはやはり、審査委員やファンをあっといわせるような「抜きんでた」作品を呼べるよう、出品のためのルールとかシステム面も含めて工夫してほしい。とにかく、せっかく身近な場所で開催される大きな国際映画祭である。たくさんの人々に、メジャーなものだけではなく、(北欧も含め)多くの国々のさまざまな作品にふれられる機会を与えてもらいたい。とにかく、来年以降に期待したいと思う。

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