アニタ・キリ監督インタビュー(1)ワークショップ、『マレーネとフロリアン』の中で描いた戦争のことなど

[2006/8/20]

 本コラム第38回でも紹介した第14回キンダーフィルムフェスティバルは、8月13日にグランプリの発表と授賞式が行なわれ、終了した(受賞作など詳細は本コラム第39回を参照)。

 今回、本コラムではこの映画祭にゲストとして招かれた、ノルウェーのアニタ・キリ(Anita Killi)監督のお話を伺うことができた。彼女は『いばらの垣根』(168ページ、本フェスティバルでの上映タイトルは『マレーネとフロリアン』)を手がけ、この作品は今回の映画祭でも上映されている。本コラムでは、日野市民会館で行われたワークショップの様子も交えながら、2回にわたって彼女へのインタビューをご紹介する。

ワークショップ「世界のアニメーション体験」
 キリ監督の指導によるワークショップは、彼女がアニメーション撮影で使っている紙人形を実際につくって、アニメ撮影してみましょう、というもの。8月5日、うだるような暑さの中、東京・日野市市民会館で開催された。この日の午後、彼女の作品『マレーネとフロリアン』上映に引き続き、あらかじめ応募した30人ほどの子どもたちが熱心に製作に取り組んだ。

 最初に彼女の説明があった。本来のアニメ製作では、同じキャラクターでもたくさんの人形をつくらなければならない。大きさもあるが、平面なのでいろいろなアングルからの姿の人形をつくって、それを1コマずつ動かす、という作業を背景も変えながらやっていく。もちろん、人間なら手足と首が動くものを使うのだが、今回はそこまでやっていくと大変なので、手をポケットに入れたマレーネの人形をつくって、足だけ動く人形をつくる。また、足の見える人形、というのも技術がいるそうで、足の隠れるスカートをはいた人形(マレーネも女の子のキャラクター)にしたという。とはいっても首と足の両ひざと、股関節部分は自由に動くようにしなければならない。撮影の前の、この人形づくりが大変である。
ワークショップ冒頭、アニタ・キリ監督の説明。
 あらかじめ監督が用意した、人形の輪郭が描かれた下絵を、まずカーボン紙を使って厚手の紙に転写していく。転写し終わったら今度は着色。絵の具を使って塗っていくが、色は明るめの方がいいそうだ。子どもたちはみんな一生懸命に色塗り。形は同じだし、準備された絵の具の色の数もそんなに多くはないのだが、さまざまに塗られていく。
まず、左の紙の左側に描かれたような人形の輪郭の線を、右の厚紙に転写、彩色する。
このあと切り抜いて人形に組み立てる。
 そのあと、絵の具を乾燥させる。水彩なのでなかなか乾燥しないが、親御さんたちがうちわで煽いだり、みんなでなんとか乾かしていき、完全に乾いたら輪郭をペンや柔らかめの鉛筆で黒くなぞる。服の模様などもこれでつけられる。ここまで終わったら、形を切り抜く。胴体(今回はポケットに突っ込んだ手も一緒になっている)と、頭、足(ひざ上とひざ下が別々になっている)、足の接続部と頭の接続部(首、ということになるが)と合計8つのパーツを切り取る。そして各部分を接続。この接続には、激しく動かさない首と頭はガム状の接着剤で止めるだけだが、足の部分は針金を通して止めていく。ここがちょっとしたポイントで、目立たないように、うまく止めるのは難しい。子どもたちはみんな、親御さんや監督、映画祭のスタッフに手伝ってもらいながらなんとかつないでいた。ここまでで予定の90分はほぼ過ぎてしまったのだが、個性的な人形が次々と誕生した。
監督に手伝ってもらって人形の足の部分を接続しているところ。

 そしていよいよアニメづくり。背景を載せた台の上に完成した人形を置き、ポーズを付け、すこしずつ動かしながら台上に固定されたデジタルビデオカメラでコマ撮りして、PCに取り込んでいく。なかなか根気のいる作業だ。最後の子が終わるまで、予定の倍ほどの時間がかかってしまったというが、30人の子どもたちそれぞれが作った人形が、動く映像となって映し出され、みんな大満足でワークショップは終了したのだった。キリ監督と子どもたち、そして映画祭のスタッフの皆さん、お疲れさまでした!

 この方法、PCとデジカメをお持ちのご家庭ならば、比較的簡単に体験できるだろう(忍耐力は必要かもしれないが)。夏休みの工作の宿題のつもりで、家族でやってみても楽しいかもしれない。

 それではアニタ・キリ監督に、まずこのワークショップのことからお話を伺っていくことにしよう。

日本とノルウェーのワークショップ

――ワークショップ、お疲れさまでした。参加した日本の子どもたちはいかがでしたか?
◎あり得ないほど多くの仕事を、子どもたちは実にしっかりやってくれました。最初、90分ではなくて1日の予定なのかと思ってワークショップのスケジュールを組んでいたのです。実際やってみると90分の予定が倍に伸びてしまいましたが、その中ですべてやりとげた子どもたちはすごいと思います。
 最初、予定の90分が過ぎれば、みんな帰っちゃうんじゃないかと心配したのですが(笑)、みんな最後までやりとげてくれたのには本当に感謝しています。もし同じようなワークショップをノルウェーでやったら、子どもたちは全員、特に男の子たちは会場内を走りまわっていたでしょう(笑)。
 今回は親御さんが一緒だったのもよかったかもしれません。ノルウェーでやるときは、だいたい親は子どもを送迎するだけで、ワークショップ中はいません。今回は自分の子どもが何をやっているのか、とても興味深く見ていらっしゃったので、それはすごくよかったと思います。とくに子どもたちが説明がわからなかったり、聞き取れないときに、あとから親御さんと相談したり、いろいろコミュニケーションしながら作っていく、そういう点がよかったです。


――ノルウェーでのワークショップのことをおっしゃいましたが、ノルウェーではどのような感じでされていたのですか?
◎ノルウェーでは3年半ほど前に6週間、毎日ワークショップを開催したことがあります。このときは政府の援助が出ていて、1日2回、学校を巡回してワークショップをしました。そのときも時間は90分でしたが、今回とは違うやり方で行いました。私自身がアニメーション撮影を進めながら、子どもたちは私を囲むようにしてそれを見て質問をする、という形式です。
 そして巡回の際は、小さな「スタジオ」をもって各地をまわったのです。これは、縦横高さがそれぞれ60×60×90センチくらいの大きさの箱で、これにライトとカメラがつき、カメラの下にガラスの台があって、そこで撮影をしていくという仕組みになっています(*1)。いろいろ収納できる引き出しなどもついていて、車から出して教室まで運ぶのですが、主に農村地域をまわっていたので、この箱の中には子牛でも入っているの? なんて聞かれたりもしました(笑)。今回も持ってきたかったのですが、飛行機で運ぶには大きすぎて断念しました(笑)。

初めての日本と映画祭の印象
――今回の来日は初めてとのことですが、日本の印象はいかがでしょうか。
◎日本に来るのが、これが最後とならないことを祈りたいですね(笑)。まわりから聞いていたのですが、日本の皆さんはとてもていねいだと思います。そして町が非常にきれいです。ワークショップを開催した日野市など、まるでおとぎ話に出てくる町のようでした。


――日本人についてはどうですか?
◎日本人とノルウェー人は、地理的な距離ほどには違わないのではないでしょうか? たとえば、イタリアやスペインなど、ラテン系の人々は、ものすごいバカ騒ぎしますが、そういったことも日本の方はあまりないようですし。ほかにも共感できる点はイタリア人やスペイン人より多いと思います。また、仕事の進め方については、何をするにも計画を立てて、予定のずっと前から段取りをきっちり立ててやっているというのがよくわかります。


――キンダーフィルムフェスティバルに参加している子どもたちについてはいかがでしょうか。私もびっくりしましたが、司会が子どもだったり、映画の吹き替えを子どもがやったりと、ここまで子どもが主体となっている映画祭は珍しいと思うのですが。
◎昨日、キンダージャーナリストという、この映画祭に参加している子どもジャーナリストのインタビューを受けました。そのとき彼らの思考の深さに驚かされました。あれがふつうの子どもたちだとしたらとても賢い子たちだなあと思って、感心しています。また、映画のお客さんたちも、あれぐらい映画を熱心にみてくれる子どもたちがたくさんいる、ということはすごくうれしいことです。

『マレーネとフロリアン』と戦争について
――映画について伺います。13分という非常に短い作品ですが、その中で戦争の悲惨さとか、それを乗り越えて人どうし仲良くなれる、というメッセージがとてもうまく盛り込まれた、すごくいい映画だと思いました。
◎ありがとうございます。


――映画を作るにあたって、作品自体はフランスの絵本が原作とも伺っていますが、第二次世界大戦中のお父様の体験談(*2)にも大きな影響を受けられたそうですね。お父様からお聞きになったお話しの中で、なにか印象に残っているものがあれば、教えていただけますか。
◎戦争が始まって間もなくことですが、ノルウェーの王様がイギリスに亡命したときのことです。まずオスロにいた王様が、ノルウェーの西岸に逃げてそこからイギリスへ渡ったのですが、私の実家のあるドヴレ(Dovre)を通りました(*3)。ドヴレはオスロからノルウェー西岸と北方へ向かう道の分岐点にあたる、交通の要衝なのです。そこに農家3軒がよりそって建っていて、ちょうど結婚式がありました。会場に、もしかしたら王様が紛れ込んで隠れていると考えたドイツ軍が、農家の周りを爆撃したそうです。
 式の最中、まず男たちは自分たちの家畜小屋に走っていって、家畜を逃がすのに一生懸命でした。残った子どもと母親たちは戦闘機をおろおろと眺めているだけで、私の両親だけが防空壕に逃げ込むことができたのです。それで彼らは外に残った人たちが大丈夫だろうかととても心配したのですが、奇跡的に犠牲者が出なかった、ということがあったそうです。


――戦争のことについては、あなた自身、本を読んだりご自身で調べたりもしていらっしゃるようですが、当時の情勢などについても、なにか感じていることなどがありますか。
◎実はドヴレの最も有力な農家は、かなり極端な親ナチでした。そのため、その人たちが全員亡くなるまでは、戦争のことは怖くて話せないと言っていた人たちもいるくらいで、村ではいまだに戦争のことはそんなに深く話されてはいないのです。いまでは戦争当時のことを書いた本なども出ていますが、書いている作者たちは若い時代にドイツに従軍し、ロシアと戦っていました。当時ロシアが敵だと思っていたのですが、その後、ドイツの方が自分たちの国土を狙っていると気づいた時にはすでに遅く、ドイツ軍に攻撃を受けました。ドイツに従軍した彼らにしてみれば、共産主義に対して戦いたかっただけなのですが。
 私は当時生まれていなかったことを幸せに思いますし、父も兵士になるにはまだ小さかったのも幸運だったと思います。戦争中は多くの人々が農産物を闇で売りさばいてお金を儲けていましたが、私の祖父はそういうことをいっさいしなかったので、かなり貧しい生活を強いられたと聞いています。でもそんな状況であっても、ロシアからの避難民を援助するような活動をしていたそうです。

――第二次世界大戦が終わっても、ノルウェーは旧ソ連と対峙していました。あなたの子ども時代は、まだ東西冷戦のさなかだったと思うのですが、核戦争の恐怖など、子供心に感じたことはありませんでしたか?
◎小さいときには核兵器というものにとても恐怖をもっていました。そのあと、恐怖は少し和らぎましたが、9.11の事件以降、最近のテロリストなど核兵器とは少し違いますが、以前よりも戦争に対する恐怖感というのは感じるようになりました。
 ノルウェーはずっと仲介者として世界中で平和維持のために活動してきました。それ自体は世界中で評価されてはいますが、反面でテロの標的になってしまう、という現実もあります。


今回はここまで。監督のお話しは映画の技法や、次回作などについて続くのだが、それは次回にご紹介しよう。

*1:以下に紹介するサイトのページに同じ装置ではないが、監督の撮影のようすが写真入りで紹介されているので参考になるだろう。スクロールして下の方を見てほしい。
http://www.kunstogdesign.no/form503/animasjon_anita_killi.html
*2:第二次世界大戦中、1940年4月にノルウェーはデンマークとともにナチスドイツに侵攻を受けて占領され、王室と政府はロンドンへ亡命、国内ではレジスタンスによる抵抗活動が続いた。親ナチの人々は戦後、糾弾された。そのようすは『ハムスン』(119ページ)など映画にも描かれている。
*3:ドヴレはオスロの北、200キロほどのところにある人口約2900人ほどの小さな町。キリ監督はノルウェー西岸の都市スタヴァンゲルで生まれたが、3歳くらいまで過ごした後は実家と農場のあるドヴレで暮らしている。ちなみに、最近日本でも人気のあるドヴレストーブという薪ストーブの名前は、この地名に由来する。
ドヴレ・コミューン公式サイト:http://www.dovre.kommune.no/

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