(10)「葬送の自由をすすめる会」のこと
[2012/9/15]

 これまでは主として、『死ぬまで編集者気分』に書き落としたり、書き損じたりしたことの補正にこのコラムを使ってきたが、「パティオの小さな空の下で」を始めるときの所存は、独り居の追想や空想を、書評や劇評などをまじえて気ままに書いていくつもりだった。そろそろ本来の気楽な予定にもどることにして、その第一回に、『死ぬまで編集者気分』の「あとがき」でもふれている妻の死と、その看護と葬送について書きたいと思う。

 折しも「葬送の自由をすすめる会」に寄稿をたのまれた私は、機関紙『再生』(2012年9月1日号)に、「私は人として死を生きる そして葬送の自由を生きる」と題する文章を書いた。ところが依頼枚数を聞きまちがえて、書いたものを半分に圧縮することになったので、『再生』編集部の了解をえて、この切り貼り作業で落とした部分を補い、また会員でない人のために若干の説明を加えながら、この文章を以下に再録させていただく。

(注1) 「葬送の自由をすすめる会」は、ジャーナリストの安田睦彦さんが、1990年9月24日、朝日新聞の「論壇」に葬送の自由にかんする意見を発表したのがきっかけで、1991年2月に発足し、同年10月5日、相模湾で第1回自然葬をおこなった。

 日本ではいまなお1948年に制定された墓埋法(墓地、埋葬等に関する法律)が生きていて、その第4条に、「埋葬又は焼骨の埋蔵は、墓地以外の区域に、これを行ってはならない」と規定しているが、第1回自然葬について、厚生省(当時)は、「墓埋法は、海や山に遺灰をまく葬法は想定しておらず対象外である。だからこの法は自然葬を禁ずる規定ではない」と見解を述べ、いわば追認するという態度をとった。

 「葬送の自由をすすめる会」はこれに対し、自然葬を制約しているとしか読めない第4条は廃止されるべきで、新しい葬送基本法を制定することを求めた。一方、自然葬の考えが広まると、これをビジネスとする業者も現れてきたが、「葬送の自由をすすめる会」は市民運動として、葬送の自由という基本的理念のもとに、研究会と集会の開催、調査と研究、広報や出版活動、自然葬の実施などの事業をおこなっている。2002年にはNPO法人として認証を受け、16,000人を超える登録会員をかかえ、全国12の支部で活動しているという。

私は人として死を生きる そして葬送の自由を選んで生きる

 『死ぬまで編集者気分』(新宿書房)という本を出した。「あとがき――ある家族と訪問者たちの物語」というエッセイに、私たち夫婦は自然葬の会の会員で、海に散骨するつもりだと付記したら、「葬送の自由をすすめる会」のなかにも読んでくださった方々があったようで、その辺のことを『再生』に書かせたらという提案があったらしい。お言葉にあまえ私事にわたる思い出を発表する。

妻と誓った「新しい本当の人生」

 比較的健康だった妻が、胃腸の具合がよくない、背や腰が痛いと訴えるようになったのは2008年の暮れが近かった。精密検査を受けたところ、胆管に腫瘍があり悪性の疑いが強いという診断である。不安をかかえて年を越し、2009年の2月15日に切除手術を受けた。

 10時間をこえる手術で胆管と胆嚢さらに肝臓の四分の一を切除した。切除した胆管は腸の一部をもってきて代替された。転移は見られず、手術は外科的には成功したが、術後の生存率は1年後70パーセント、3年後37パーセントという。いずれにしても数年の範囲で人生を考えることになった。私たちはあたえられた生命を「余生」と考えないことにしよう、ここから「新しい本当の人生」を始めようと誓った。病院の構内には見事な桜の並木があったから、桜の季節にはよく散歩をした。雨の日もレインコートを着せ、車椅子に乗せて花見をした。

(注2) ここで原稿の圧縮と削除のため、私は年月の間違いをおかしている。妻の手術は2009年ではなく、2008年である。私は体調のすぐれない妻のために、2008年の春、瀬戸内海の船旅を計画していたが、手術のためにそれをキャンセルしたのだった。したがって私たちの「新しい本当の人生」は手術後一年余にわたってつづいたわけである。手術後の病院構内の花見だけではなく、翌年の春も哲学堂公園から中野駅まで花見をした。休み休みではあったが道中を歩きとおした彼女は、リハビリのために無理をしていたにちがいないのに、私はそれを回復のしるしと喜ぶ鈍感な夫であった。

 夏と秋には、手術仲間を誘って湯治に出かけ、ホタルを眺めたり、紅葉を眺めたりした。こうした旅はそれまで私たち夫婦にはなかった行楽であったが、旅の楽しさに気をまぎらわせることが、「新しい本当の人生」ではなかった。その間にたびたび訪れる体の不調と死の不安があり、それらが旅の楽しさを一刻の貴重な経験として私たちの人生に刻みつけたのだ。楽しさのなかの不調と不安のなかの喜びの交錯を、人生の真実の姿として経験することが、私たちの誓った「新しい本当の人生」であった。こうして入退院をくりかえした。

 妻の容態は回復に向かっているように見え、5月の連休に自宅にもどったが、7月の通院検査で肝臓に腫瘍が発見され、胆管癌が転移したことが疑われると告げられた。

 妻は夏休みにドイツから帰国する長女夫婦のコンサートを楽しみにしていた。私はこの準備を禁じたが、友人の世話で8月にデュオ・リサイタルを開くことになったとき、出席の可否を主治医に相談した。「いまは心の喜びが大事な治療ですから」と医師は出席をすすめる。私はそのやりとりで終末治療の段階にきていることを察した。

 在宅療養で抗癌剤の点滴に通院していたが、食欲がなく、体力が衰えてきたので抗癌剤を中止した。10月28日には発熱したので寝台車で緊急入院した。肝臓の代謝機能が低下し、肝性脳症を併発しているとのことであった。肝性脳症の症状は、譫妄状態から、傾眠、嗜眠へとすすみ、最後に昏睡状態にいたると予告されていたが、妻は確実にその道筋をたどった。

(注3) ある夜ふけに病院の看護師から電話が入った。すぐ妻に代わって、「これから病院へ来て」という。「この時間では病院は入れてくれない。あす朝早く行くから、いまは看護師と電話を代わってくれ」と頼んだが、「ようやく電話をかけられたのに、どうして、そんなことを言うの? あなたはいつも賢そうなことを言っているから、病院の先生や看護師に評判がいいけれど、私の本当のことはちっともわかっていない。わたしは今監禁されているのよ、助けて」と訴える。「ぼくは、いつだって、どこにいたって、きみの味方だ。しかし状況がわからなければ、どうして味方したらいいか、わからない」と説得をくりかえしているうちに、妻の興奮は少しおさまってきた。

 「ぼくはいつでも、きみの味方だ」と言いつづけたのが効いたらしい。妻はようやく看護師に電話をゆずった。看護師は妻の要求を抑えることができないので、やむをえず電話に出したが、その間、主治医と電話で相談していたようで、「主治医も出勤すると言っているし、奥さんは落ち着かれたようですから、大丈夫です」と告げた。しかし、このときの「あなたは私の本当のことがわかっていない」という妻の言葉は、譫妄状態であるにしても私の胸を深く刺した。それは彼女に対する私の存在の根本を突いているように思われた。取り返しのつかない悔いのようなもの――夫婦の「原罪感」のようなものに私は襲われた。「新しい本当の人生」の誓いは、予想もしなかった局面にまで私を導いた。

 この段階にくると言葉は役に立たなかった。言葉の奥にある人間の存在の全体を察知し、それと触れあう術を知らない私は、無能な人間であった。治療は医師と看護師にまかせて、家族はひたすら患者に共感していればいいのに、癒しの介護者というより、介入者といわれても仕方がなかった。妻はほとんど目を閉じていて、口をきかなくなった。私はただ手足をさすり、手をにぎっていてやるしかなかった。

 2009年11月22日、妻は亡くなった。79歳の生涯だった。葬式のあと病院から引き揚げた妻の持ち物の整理をしていたら、裏紙を利用した日記やメモのなかに、十数種の短歌を試作したものがまじっていた。

 われ死なば真砂となりて夫(つま)を待ち海原こえてともに流れむ

 妻は死の不安について家族に語ることはなかったし、歌を詠んでいたことも話したことがない。しかし心の奥ではじぶんの死について考えていたにちがいない。それでいて、こんな歌を遺していたのである。私はぐっと来るものをおさえ、「覚悟ができすぎだよ」と呟いた。

藤田省三夫妻と語り合った自然葬

 「葬送の自由をすすめる会」の入会は1998年の9月である。

 妻は申込書にこう書いている。「私は小田原の生まれで、海に抱かれて育ちました。墓地は小田原にありますが、実家は東京に移り、結婚した私はここに入る理由はありません。夫は津山という山の町の生れで、郷里に先祖代々の墓地はありますが、このたび私が入会の話をすると、オレも入れてくれよと申しました。夫は海軍兵学校の出身で、海を墓にしたいと言っています」

(注4)彼女はさらに、私の郷里でじぶんたちのことを知っているのは甥夫婦までの世代で、そのあとは先祖墓に入っても一種の無縁墓になる。海は世界に広がっているから、ドイツの娘が北海やバルト海を見て、両親を想う縁(よすが)にもなるだろうとも記していた。

 「オレも入れてくれよ」と言ったのは確かだが、その場の思いつきではない。葬送や散骨については、なんども近所に住む日本思想史の藤田省三夫妻と意見を交わしていた。その藤田さんは2003年に亡くなられ、「西多摩再生の森」に散骨した。私も参加して、柳田国男が語る山送りの葬法などを思い出したと『再生』(51号)に書いた。

 『再生』では尊敬している人たちと誌上再会した。社会思想史の水田洋さんは、私が名古屋大学の学生だったころのゼミナールの指導教授である。『再生』(56号)に掲載された水田さんの入会の辞を読み、できのわるい学生で、先生の仕事を追うこともできなかった私が、入会だけは先生に先んじたかと、なんとなく愉快な心持にになった。動物行動学の小原秀雄さんは平凡社時代に企画した雑誌『アニマ』の執筆者、宗教学の山折哲雄さんは『世界大百科事典』の編集委員である。鶴見俊輔さんも私の敬愛する人である。

 『死ぬまで編集者気分』にも書いたが、私は敬虔な心を忘れない無神論者でありたいと思っている。だから、じぶんの死後、だれひとり人間の道を歩こうとせず、やがて人間たちが消えていなくなった世界になり、必然性という言葉さえない必然性が支配する、荒涼とした風景が来ないように祈る。宇宙的に見れば人間は、宇宙の塵のごとき存在であり、たかが人間である。しかし生きている人間ひとりひとりからいえば、生きている充実感をもって生きていたい。腹が充たされること、からだが心地よいこと、夢に向かってすすむこと、歌うこと、たたかうことと同様、絶望を前に祈るのも、人間が生きている充実感のひとつである。

 一周忌の前に散骨の準備をしておきたいと思い、「葬送の自由をすすめる会」に電話して、「木霊と凪」という業者を紹介していただいた。散骨の骨壷は小ぶりの五寸壷で、そこに粉骨をすませ、真砂となった妻をおさめた。制作は陶芸家の角理羽子(りわこ)さんに、私の骨壷と対でお願いした。作家の水上勉さんの骨壷つくりを助けた方で、水上さんと私の縁を知って、水上さん終焉の地、勘六山房の土で焼いていただいた。暖かい味わいがあって骨壷然としていないところがいい。私の骨壷とならべて応接間の一隅に置き、両方そろったら海に散骨してもらおうと思っている。散骨が終わったあとは、娘たちが好きなように使ってくれれば幸せである。

 私は、生きているものの意志として、死にいたる病に耐え、死を迎えた儀式をすませ、死後の世界の幸福を思う。個人的な事情をくだくだ書きすぎているとしても、なにとぞお許し願いたい。

(注5) ここで私が「生きているものの意志」というのは、私の覚悟をいうのであって、哲学的な議論をしようというのではない。 人間にとって死は必然的であるが、生は偶然的である。私という生命が両親から生れてきたのは無数の偶然のなかの一つであり、さらにその過去をたどると、人類発生以来、そしてそれ以前の、生命ある惑星に生まれた過去のもろもろの生命の、数えきれない偶然につながる小さな貴重な一個の生命が私なのだ。私の自由が、その気の遠くなるような経過につながっていることに私は畏怖を感じる。だから私は敬虔な無神論者として死を生きるのであり、人間にとって最後の冒険であり、受苦である死に対しても、人間としての経験から逃げないで生きたいという意志をいだく。したがって私は延命治療を拒否するが、逆に、自殺や戦死などといった、みずから死を選ぶ行動は拒否して生きたいと願うのである。


2005年6月12日 アイルランド 街角
写真=大木茂