下中邦彦と平凡社ブッククラブ
平凡社二代目社長の下中邦彦さんを、百科事典ブームにあぐらをかいていた遊び人のようにいう人がいるが、それは彼の志と実行を知らないものの言葉である。父、下中彌三郎さん以来の百科事典の夢を実現して、いわゆる「百科事典ブーム」のきっかけとなる『国民百科事典』をつくったのは下中邦彦さん自身で、そのとき彼は編集部の隅で、鉛筆で略画を描きながらイラストやレイアウトのイメージを示していた。だが、百科事典が、ブームといわれるほどのビジネスになってしまったことが、かえって、この一途な夢の継続を難しくしたと、わたしは思う。
邦彦さんはじぶんが不勉強だとよく口にし、林達夫さんも、「彌三郎さんは歳をとっても読書家だが、邦彦君はあまり本を読まないね」といった時期があった。林さんは百科事典の編集長に就任当時、メーテルリンクの『青い鳥』の英語版を下中父子に贈ったことがあるそうだ。「彌三郎さんからはすぐお礼の返事が来た。いかにも彌三郎さんらしい面白い読み方だった。ぼくがこの本を贈った意図までちゃんと読みこんでいてね。邦彦君のほうはなにも言ってこなかった。どうも読まなかったのではないかと思う。」
邦彦さんは酒飲みでスポーツマンだったが、その酒についてもスポーツについても、林さんには一言注文があった。酒については、「あの飲み方は好ましくないな。相手のペースを抜きに自分流にどんどん飲むけれど、あれは出版社の社長としてはどうかな」。林さんのお酒は相手にあわせて一杯だけ口をつける程度だった。若いとき酒で失敗して以来、そうするようにしたと著作のどこかに書いている。
スポーツについては、「運動神経抜群だけど、社長になったのだから、もっと別のスポーツを始めたほうがいいと思うよ」と評した。林さんがいう別のスポーツがゴルフであったかどうか知らないが、若いころの下中さんはゴルフなんてスポーツではないと言っていた。ゴルフを始めたのは社長になってだいぶのちのことで、もっぱらバレーボールやサッカーやスキーの社内大会で大いに活躍していた。
そういう林さんもときどきピンポンやテニスの社内大会に出たが、あまりうまくなかったと思う。野球は一高のとき大仏次郎さんたちとやっていたという触れ込みだった。バントはたしかに上手だったが、走者は代人を用意していて、この人が走った。林さんが打席に立つと、三振や死球にしないよう、相手方のピッチャーは気を使った。
社内のサッカー大会で、わたしはヘディングをしそこない、下中さんのまぶたを大きく割ったことがあった。出血が止まらないので下中さんは病院に運ばれ、試合はそこでストップした。翌日出社した彼は、「きみの石頭にはいつも参るよ」と、仕事におけるわたしの頑固さにひっかけて揶揄した。百科事典がまだ商売にならず、したがって競争相手もいなかったころの、あの編集時代は、みんな貧しかったにもかかわらず、いまとなっては懐かしい思い出である。
下中さんが読書にかんして不勉強を自認しているので、林さんの批評を聞いて、わたしは社内外の気になる本や、執筆者として接触を開始しようと思っている著者の本を選んで届けることにした。網野善彦『蒙古襲来』(小学館『日本の歴史』第10巻、1974年)、梅棹忠夫『文明の生態史観』(中公叢書、1967年)、小松左京『日本沈没』(カッパノベルズ、光文社、1973年)、同『歴史と文明の旅 』(文藝春秋、1973年)、日高敏隆訳、デズモンド・モリス著『裸のサル――動物学的人間像』(河出書房新社、1969年)、日高敏隆訳、コンラート・ローレンツ著『攻撃――悪の自然誌』(みすず書房、1970年)、柴田武『ことばの社会学』(NHKブックス、1965年)など。
下中さんは予想以上にこれを喜び、その後、入院するときは、病院で読む本や雑誌を選んでほしいと頼むようになった。これはおそらく誰も知らない社長と一課長との交流であろう。そしてその交流は、本人が思っている以上に心のなかを伝えることになったのである。林さんにもお礼状を書かなかった人だから、いつも口頭の読後感であったが、感想は不勉強を自認するわりに大胆に急所をついていた。
わたしは逆に苦手とする自然科学の読書指導を下中さんから受けた。下中さんは藤原工大(現・慶大工学部)で永海佐一郎先生に教わったこと感謝していて、その本を読んでみないかと、わたしに勧め、また百科事典の売り行きの予測について、数学でいう極大値や極小値の概念を図示して教えてくれたけれど、数学に弱いのでよく理解できなかった。ただ局所の事象をマキシマムとミニマムで考えてみることの面白さは想像できた。下中さんにしてもこの微分のグラフを商売に適用しようというのではない。そういう視点から観察する必要性を語ったのである。この考え方も永海先生から学んだと聞いたように覚えているが、永海先生は化学教育の人で、極大値や極小値は数学の概念だから、わたしの記憶違いかもしれない。
それはともかく、下中さんがこの概念を持ち出したのは、彼が早くから百科事典の販売を、拡大路線や水平維持で想定していなかったことの表れである。平凡社の百科事典や大型企画の月賦販売が好調であるかに見えたときにも、彼はその売り上げに漫然とあぐらをかいていたわけではないのだ。
第二、第三の道として彼が追及したのは、通信販売の可能性であった。高橋健さんと共同提案した自然動物誌『アニマ』は、当初、通信販売による会員頒布誌というかたちで創刊されたが(『死ぬまで編集者気分』134頁)、これにも下中さんの強いアドバイスがあった。また社長提案で『週刊百科X(仮題)』の企画がつづけられたときも(『死ぬまで編集者気分』130頁)、店頭販売とならんで通信販売の方法が検討された。この提案を活かせなかったのは情勢もあるが、周囲のスタッフの危機に備える理解と能力の不足があった。営業関係者には通信販売に対する根強い抵抗感があり、人一倍つよい危機感をもっていたつもりのわたしも、その展開を助ける出版物を企画し、用意する能力が欠けていた――それらを組織できなかった責任が社長の下中邦彦さんにあると言われれば、それまでであるが……。
1974年、わたしが一騒動ののち、編集局次長と営業局次長を兼務することになったとき(『死ぬまで編集者気分』147頁)、下中さんは通信販売の平凡社ブッククラブを別会社として設立することに踏み切った。この意を受けた専務の中島正清さんは、日本メールオーダーに旧知の藤井章生さんがいることを思い出した。中島さんは平凡社に入社する前、九州でどこかの労働組合の委員長をしていた時期があり、そのとき九州地方学連の委員長であった藤井さんと顔見知りだった。
藤井さんは中島さんとの会合で、全学連時代、東海地方学連の委員長をしていたわたしが平凡社にいることを思い出したらしい。わたしもこの席に呼ばれた。藤井さんはメールオーダーにいた赤井三夫さんを紹介した。そして平凡社ブッククラブの設立まで、わたしが営業局に赤井さんをあずかることになった。こうして設立された赤井さんのブッククラブは、その後、わたしが企画した『大百科年鑑』の通信販売に大きな力を発揮することになる。
藤井章生さんは日本メールオーダーの出版局長を退職後、アスキーに入り、代表取締役会長をへて、1977年、相談役で退任した。わたしは平凡社を退社後、日本マイクロソフトの刊行する電子百科事典『エンカルタ』の編集顧問をひきうける。取次での『エンカルタ』発表会で、わたしに向かって客席から手をあげる笑顔がある。それが藤井章生さんとのさらにその後の再会だった。

2005年6月16日 アイルランド パブ お気に召すままに
写真=大木茂