(8)エンサイクロぺディストの志と実行を支えたもの(その3)
夢追い人たち
[2012/9/1]

 わたしは百科事典の編集部にいながら、百科事典は長いあいだ労働の対象にしかすぎなかった。社員割引で買っても給料に比してあまりにも高いし、会社に行けば備品としてあるから、持っていなくても仕事に差し支えることはない。学生時代には、勉強もしていないくせに、専門研究に百科事典は必要ない、あれは金持ちの息子の持ち物だと思っていた。日常的にも研究にも、百科事典はわたしには遠い存在であった。

 『世界大百科事典』を買ったのは、縮刷版として売られた全面的改訂新版(1964〜67年)が出たときで、だいぶ後のことになるが、じぶんの家に所有するようになって、驚いたことに、わたしと百科事典との関係は一変した。わたしはページのいたるところに、参照事項を書き込んだり、関連する雑誌や新聞の記事切り抜きを貼ったり、疑問符をつけたり、索引項目を立てたりして、じぶんの百科事典につくり変えていった。このようにして、世界にひとつしかない、じぶんだけの『世界大百科事典』がしだいにできていった。

 また逆に、読んだ本や雑誌に関連する『世界大百科事典』の項目を、コピーをとって張り付けたりした。百科事典は分厚いのでコピー機にかけにくい。ノドに近い文字が歪んだり薄れたりしてしまう。それで『大百科年鑑』を企画したときは、杉浦康平さんにお願いして、思い切ってノドのマージンを広くとり、書き込みや複製がしやすいように工夫してみた――このアイデアは、営業局長だった塩原康人さんから、出版社が著作権の侵害をすすめるような行為で、まずいのではないかというお小言を頂戴したが……。

 こうした経験は、のちに百科事典の企画を考えるうえで参考になったし、販売の商品説明にもたいへん役に立った。経験談をまじえて語るわたしの百科事典の説明は、セールスマンたちに思いのほか好評で、あちこちの「ほるぷ」の支社でおこなった講習会のあと、売り上げが倍増したという報告が届くようになったので、本社幹部社員の会議でも聞いてみようということになったらしい。中森蒔人社長と個人的に親しく話すようになったのはそのころからである。

 前回に述べたような学生運動の経験を語りあったわけではないが、噂はどこからか伝わるものである。わたしたちは停学処分をめぐって紙一重の差の経験をしたが、その思い出が結びつけたのでもない。その紙一重の差が、やがて結びつけることになった百科事典の普及という仕事において、おたがいを理解し、信頼することができたのである。

 のちに「ほるぷ」社長室の小笠毅さんから聞いた話では、中森さんは、平凡社に相談するときは、営業なら中島さんのところへ行け、編集なら小林さんのところへ行けと指示されていたそうである。中島正清さんは営業部長をへて、のちには専務になった平凡社の実力者で、とくに百科事典の書店や販売会社の拡販に経験が深く、中森さんとも親交があったから、その名をあげるのは当然としても、編集では当時一課長であったわたしを指名されたのは、不思議であり、光栄でもあるのに、身のほど知らずのわたしは不遜にも、それを意外とは思っていなかった。

 1966年には、「ほるぷ」その他の有力販売会社を統括し、その活動を支援するために「日本教育産業センター」(略称EIC)が設立されたが、そこでも百科事典の講習会に出席を求められたわたしは、百科事典、百科年鑑、国語辞書の使い方(使い分け)について、じぶんの経験談をふくめて長い話をした。そのときの話は「世界大百科事典の商品性」という題で小冊子にまとめられている。この小冊子には発行年月日が記載されていないが、話のなかに『百科事典操縦法』のことを紹介しているから、『百科事典操縦法』が企画された1971年以降、刊行された1973年以前であったと推定される。

 そのころ京都では梅棹忠夫さん、小松左京さん、加藤秀俊さんたちと『百科事典操縦法』(1973年)の編集のために討論会を毎月一度ひらいていた(『死ぬまで編集者気分』144頁)。また1973年からは、国語辞書の企画準備にそなえて、柴田武さん、国廣哲彌さん、長嶋善郎さん、山田進さんたちと意味論研究会をつづけていて(『死ぬまで編集者気分』208頁)、これはのちに平凡社選書『ことばの意味』全3巻(1976〜82)に収録された。

 「世界大百科事典の商品性」という小冊子には、これらの会で討論したことの反映が随所に出ている。百科事典の編集経験だけでなく、そうした討論や、百科事典を自己流につくり変えた経験や、さらに販売や普及事業にもかかわるようになった経験によって、わたしはしだいに一人のエンサイクロペディストとして育てられたのである。

 今この小冊子を読みなおすと、「愛」という項目や、「男」や「女」という項目を例にひいて、百科事典の解説と国語辞典の解説はどう違うかという話をしている。そして国語辞典の多くが言葉の意味分析をしないで、言い換えに終わっていること――たとえば「男」という項目では、「人間の性別のうちで女でない方」といい、「女」という項目には「人間の性別のうちで男でない方」としか説明していないこと、また「腹痛」という項目は「腹が痛むこと」と言い換えてすませていることを問題にしている。

 2011年に刊行された三浦しをんさんの小説『舟を編む』(光文社)には、辞書の編集者の奮闘がとりあげられている。主人公の馬締光也(まじめ・みつや)が辞書の項目解説に苦労する問題――たとえば「愛」や「男」や「女」という項目を書く苦労が、わたしが指摘した国語辞典の問題点とダブルので、わたしは40年後に知己を得た気分になった。小説の主人公の仕事はやがて成功し、美しく働き者の妻を得るが、わたしの百科事典は商売として成功をおさめることなく、2009年には妻を失った。エンサイクロペディストの現実は小説よりもはるかに複雑困難で、小説のようには軽やかに、うまくは運ばないのである。

 ただし、『百科事典操縦法』の誕生については、『死ぬまで編集者気分』のわたしも調子よく書きすぎている。梅棹忠夫さんがこの企画に思いのほか乗り気で、話がとんとん拍子ですすんだように表現しているが(『死ぬまで編集者気分』145頁)、梅棹さんが乗り気なのも当然で、それ以前に「ほるぷ」の中森社長と小笠毅さんの働きかけがあったのである。そして、わたしはそれをすっかり失念していたのである。

 「ほるぷ」では平凡社とは別個に、百科事典の使い方を普及するためのプランを考えていた。『知的生産の技術』(岩波新書、1969年)を読んだ小笠さんが、この著者の梅棹忠夫さんにお願いしたらどうかと提案したところ、その案が採択されて、中森社長と小笠さんが事前に梅棹さんを訪ねていたのだった。わたしが話を持っていったのは、そのお膳立ての上であったから、これでは「手柄話は自分事」といわれても仕方がない。

 記憶というものはまったく妙なもので、いったんその記憶がよみがえると、祇園祭前日の暑い京都の街を小笠さんと歩きまわったこと、小笠さんと別れた翌日、吉備津彦神社の宮司を兼ねていた岡山大学の藤井俊さんに、『日本歴史地名体系』の岡山県の巻の監修をお願いするため、彼を訪ねる岡山駅までの切符を買ったこと、そのとき祇園祭の雑踏を分けて歩いたことまで思いだされてきた。

 小笠毅さんは、中森さんが徳島県立小松島高校の社会科の教師をしていたときの教え子である。大学を出て洋菓子メーカーに就職したが、恩師のもとを訪ねて「ほるぷ」社長室で勤務し、「ほるぷ」をやめたのちも、東京の武蔵境駅近くで遠山真学塾をつづけている。

 これは数学者の遠山啓(ひらく)さんが提唱した「水道方式」という算数方式を用いる数学教育で、タイルを使って、算数嫌いの子や障害のある子にも算数を理解させ、算数を楽しくしようとする塾である。わたしも平凡社時代、この塾の海の合宿に立ち寄って、子どもたちに百科事典の話をしたことがあり、亡くなった妻も生前、障害児の教育にかかわっていたので、練馬の会に小笠さんを招いたことがあった。

 もともと遠山さんの数学方式を「ほるぷ」の事業にとりあげたのは中森蒔人さんであったが、数学嫌いを自称していた社長室の小笠さんも、いつか遠山さんの「かばん持ち」のようになり、遠山さんの死後も、引き続きこの仕事を継続している。中森さんも「ほるぷ」退職後、じぶんで「水道方式」をつかった講習をやっているし、小笠さんは塾経営とともに、「遠山真学塾ブックレット」を出しつづけ、その№28に『ふたりの夢追い人』というのがある。この夢追い人二人とは、中森蒔人さんと遠山啓さんをさしている。エンサイクロべディストたちはまた事業家であり、夢追い人であった。

 まだ百科事典が売れていた時代、わたしは平凡社が一つの百科事典にしがみついていることに危機を感じたと、『死ぬまで編集者気分』に書いたが、その百科事典の売り上げが「ほるぷ」に依存していることにいっそう限界を感じていたので、のちに「ほるぷ」の役員も兼務するようになって、中森さんと二人のとき、「植民地的モノカルチャーはいつか荒廃する」といったようなことを口にしてしまった。

 中森さんは口には出さなかったが、表情とジェスチュアで大きくうなずいた。この発言はあとで平凡社の中島専務に伝わって、「迂闊ことを言っては困る。わが社の百科事典販売に水をかけるのか」と、きびしく叱責された。わたしは百科事典が売れているうちに、新しい百科事典を準備しながら、平凡社の舵を切り替えようと考えていたのであって、その新しい航路に「ほるぷ」も同行してほしかったのだが……。


2010年7月5日 タイランド北部 アイデンティティー
写真=大木茂