(6)エンサイクロぺディストの志と実行を支えたもの(その1)
下中弥三郎
[2012/8/10]

 1953年12月10日、平凡社創立40周年の祝賀会が東京会館で催された。

 公職追放が解けて社長に復帰した下中弥三郎さんは、その席上、『世界大百科事典』の企画を発表した。編集長に林達夫さんを迎え、早くも翌年5月中旬に第1巻を刊行し、以後、ほぼ毎月1巻のペースで刊行するという。

 下中弥三郎さんは自著の小冊子『思い出を語る』を用意し、500名をこえる招待者に配布したが、そこには新百科事典の「編集方針」10カ条ととともに、判型、冊数、組版、用紙、製本、体裁などの詳細が印刷されていた。こういう用意周到な計画発表にもかかわらず、実行計画のほうは間が抜けていて、いたるところに穴があいていた。

 第1巻を出すという触れこみの翌年5月には、編集部の結成すら完了していなかった。現実に本格的な編集部が結成されたのは、第1巻の刊行予告時期をとっくにすぎた9月で、このとき、わたしも社員として入社したのだが、それからも、なんどか編集者を追加し、補強の手を打たなければならなかった。

 このように、ある意味では杜撰ともいえ、無謀ともいえる出版企画が、どうして、まわりの賛同をえて実行に移されていったか、あとから考えると不思議なくらいである。そこには下中弥三郎さんという人物の不思議な魅力があった。

 下中弥三郎さんという人の不思議な魅力について、『世界大百科事典』の編集長として招かれた林達夫は、彼の死を悼んで1961年、「純真な『夢想』の糸」(『林達夫著作集』第4巻「批評の弁証法」)のなかでこう書いている。

あの複雑にして単純な、茫洋として繊細な、男性的にして女性的な、よく気がついて間の抜けた、気が長くてせっかちな、そして何よりもスケールの大きい日本ばなれした何とも言えない魅力のある人物の風貌は……この人物にある期間親しく接したもののみが識ることのできる特徴であり、また幸福でもあるだろう。ぼくは戦後にはじめて相識った間柄だっただけに、既に戦前から耳にしていた彼に纏わるいろいろの「伝説」から漠然と想像していたイメージとはまるで違ったその「実物」に接して、正直言って、最初は戸惑いしたものである。

じかに彼に接してみると、それが少しも突拍子なものでも「誇大妄想」でもなく、実につましく、自然で、筋道立っていて、それを何の反発もなく受け容れられるという、おどろくべき事実である。つまり彼が何の種も仕掛けもない、ほとんどお人よしと見紛うばかりの種類の善意の人であり、また美しい夢(複数だと心得られたい)を大事に抱きつづけて、どんな障害や難儀や挫折にもめげず、その実現に営々として努めてきた、その強靭なひたむきな姿勢には、どんな気むずかし屋でもへそまがりでも、かぶとを脱がざるをえないということである。

 この百科事典の編集作業がおくれたとき、弥三郎さんはじぶんも編集室の一隅に机を置き、項目の選定や編集作業に参加すると言い出した。戦前の『大百科事典』の編集は実際にそんな風にして危機をしのいできたのだった。専務の佐藤征捷さんが、今はもう、そういう時代ではないと社長を諌めるのに苦労したと語っている。

 全32巻の『世界大百科事典』がいちおう完結したのは1963年の4月であるが、完結したころには世界情勢が変化し、あちこちに改訂を要する項目ができてしまった。そこでこれに対応する補遺1巻を編集したので、全33巻の最終的完結は1959年になった。発表以来じつに10年の歳月が経過している。

 発刊当時の読者数は予約販売をふくめて2万部にもみたず、販売はその後もはかばかしく伸びなかった。平凡社は借金に借金をかさね、下中弥三郎さんはそれを「七(なな)とこ借りの苦しみ」と表現している。わたしが『死ぬまで編集者気分』で述べたような、原稿料の分割先延ばしと、社員の給料の分割払いが始まったのは、このときである。

 企画発表を受けて1955年1月、政財界や文化芸能界の著名人によって「世界大百科事典を薦める会」が結成された。この出版を国家的事業として応援するとして、5人の世話人が選ばれたが、その氏名と当時の役職は、植村甲午郎(経団連副会長、ニッポン放送社長)、郷古潔(元三菱十条社長)、渋沢敬三(国際電信電話社長)、原安三郎(日本化薬社長)、藤山愛一郎(日本商工会議所会頭、大日本精糖、日東化学社長)である。

 さらに120人の発起人をつくって各界によびかけ、当時の政財界、学界、文化芸能界の著名人のほとんど人が会員として名をつらねている。しかし、こんな大がかりな応援体制がとられても、平凡社の経営は苦境の連続だった。

 1957年、下中さんと平凡社の苦境を融資や販売面で応援しようという再度の呼びかけで、「世界大百科事典をすすめる会完成協力会」が結成された。

 この会の世話人は、石坂泰三(経団連会長、東芝社長)、伊藤次郎左衛門(松坂屋社長)、植村甲午郎(前出)、大原総一郎(倉敷レーヨン社長)、岡林林(住友本社顧問)、神野金之助(名鉄会長)、郷古潔(前出)、菅礼之助(東電社長)、小林中(日本開発銀行総裁)、渋沢敬三(前出)、杉道助(大阪商工会議所会頭)、関桂三(関経連会長)、原安三郎(前出)、藤山愛一郎(前出)、山県勝見(新日本汽船社長)、山際正道(日本銀行総裁)である。

 煩瑣をいとわず、『世界大百科事典』の応援者たちの名を列挙したのは、戦後の日本社会に、これを推したてる趨勢があったことに目を向けてもらいたいためである。

 日本は再出発しなければいけないという思いが――林さんは同じ文章で、そのキーワードは「世界」であり、「百科」であると指摘しているが――無形の雲塊のように左右を問わず存在していた時期があり、それが林達夫がいう複数の「純真な夢想の糸」から織りなす百科事典の試みをばらばらにしなかったのだ、そう私は言いたいのである。

 裏読みをすれば、いろいろ問題も出てくるであろう。下中弥三郎の思想的遍歴(変節と見る人もいるであろう)による、広い人脈を利用した裏工作もあったかもしれない。けれども今の若い人たちは、そんな暴露話に気をとられないで、当時の日本に充ちていた出発あるいは再出発の気運を一度かえりみてほしいと私は望む。

 この前後する二つの会のメンバーの事務局長をつとめた人に、八重樫昊(やえがし・ひろし)という人物がいた。1930年ごろから中央公論社の『婦人公論』編集部に入り、のち編集長をつとめた。その前に平凡社に入社したともいわれるが、誤りだとする説もある。下中弥三郎と仕事した人には辞令や履歴書とかかわりなく働いた人が多く、私が入社したときにも、そういう人たちが出入りしていたから、辞令がはっきりしないまま行を共にしたというのが真実に近いのではないかと思う。

 第一次の「世界大百科事典を薦める会」では、百科事典の普及のために500部のなめし革豪華本を特別限定版としてつくり、これを見本にして、希望者に頒布するという形で官庁、銀行、学校その他の団体で展示・販売し、普及運動の資金にしていた。その専従者が全員女性であったのは、いかにも元『婦人公論』編集長の八重樫さんらしい着想だと思った。普及部はのちに司書部と改めイージーペイメント(月賦販売)の試みなども実験的にはじめた。これが百科事典の月賦販売の、日本の始まりだと思う。

 司書部は1956年に独立し、八重樫さんを社長に株式会社・富士図書が設立された。さらに百科事典の月賦販売が本格化すると、富士図書を合併して日本教育産業センターが設立された。EICと通称されたが、八重樫さんはそれに「以愛思」の漢字をあて、その名刺をいただいた記憶がある。八重樫さんは1958年ごろから平凡社を離れて普通社を設立し、その社長となって、竹内好さん、安藤彦太郎さん、新島淳良さん、橋川文三さん、尾崎秀樹さんたちを集めて「中国の会」をつくり、雑誌『中国』をはじめとする中国関係の出版をおこなうとともに、親鸞や落語関係の書物を出している。

 編集部にいたにもかかわらず、こういう販売会社の変化にくわしいのは、平凡社では編集部もふくめ社をあげて販売促進活動にあたり、しばしば私もかり出されたからである(ただし営業部ではないので、細部の記憶に誤りもあるだろうことを断りしておきたい)。

 一時代を代表する百科事典の出版は、編集、普及と販売、金融にかかわる一つの事業である。フランスの『百貨全書』」は、文筆家、職人労働者や地下運動者をも巻きこんで編集され、王室や貴族のなかにも有力なパトロンが出現するのだが、時代と国こそ違え、下中弥三郎さんは経営者、事業家、編集者として百科事典出版の仕事にかかわった。のちに「左翼的」と批判されるような編集陣、これと相反するがごとき「戦犯」をもふくむ政財界実力者を組織する普及運動、下中弥三郎はこれらを一つにまとめて、『世界大百科事典』を製作し普及したのである。

 その成功も失敗もふくめて彼はエンサイクロぺディストそのものだったが、次の回でふれるつもりの図書月販「ほるぷ」の社長、中森蒔人(まきと)さんもエンサイクロぺディストの志を実行した一人である。


1995年6月 デンマーク 鉄道博物館
写真=大木茂