『死ぬまで編集者気分』を読んだ友人から、昔のことをこまかに覚えているが、メモでもあったのかと聞かれる。すぐメモをとる習慣がわたしにあるのは、身近な人たちならよく知っているであろう。しかし、そのメモをすぐなくしてしまうのも、もっと身近な人には知られるところである。メモをとるのは問題を整理するためで、記録のためではないからである。だからこの執筆にはあまり役にたたなかった。パソコンがクラッシュしたこともあって、まずは記憶によって書いたのである。
記憶のなかの個々の情景はかなり鮮明である。しかしその年月日、そこにいたる経過などは不明になっていることが多い。その情景にしても、すっかり記憶が脱落して空白になっているところや、別々の時期のことが合成されている場合があって、いったんその光景ができてしまうと、これがいちばん真実性を帯びているように本人には思われてくる。ここには、わたしの記憶の病理学的問題もあるのかもしれない。
だから回想にしたがって書こうとすれば、どうしても記憶の事実検証が欠かせない。この作業に多くの手間暇をかけた。前回に書いた『ハーメルンの笛吹き男』の記憶には自信があったけれど、念のために高橋健次さんに電話して再確認したものである。
この回には、記憶の合成による錯誤について書きたいと思う。わたしはこの本に、新日本文学会が累積した負債を処理するため、西大久保の事務所を売って東中野に移ることになり、その改装が終わるまで、新宿区役所に近い台湾出身の医師が経営する診療所の奥を借りていたことについて書いている(23頁)。また花田清輝編集長の更迭事件についてふれた(39頁)。わたしの記憶では、花田編集長の解任を討議する常任幹事会は、この仮住まいの二階会議室でおこなわれたことになっていた。
ところが新宿書房編集部からツジツマが合わないという指摘を受けた。花田編集長解任は1954年7月、事務局が東中野の川添町に移るのは1960年8月で、その間6年もたっている。仮住まいにしては異常に長すぎるのではないかというのだ。
そういわれて当のわたしが困惑してしまった。それでは、あの、診療所奥の仮住まいの記憶はいったい何だったのだろうか。確かめようにも、当時の事務局員は死亡するか、連絡がとれなくなっている。
さいわいにも『新日本文学・復刻縮刷版』をもっていたので、この奥付の小さな文字を虫眼鏡で追うことにした。乱雑に散らかした書斎と書庫のなかの作業なので、村山さんにお願いして、二人がかりでこれにあたった。その結果、編集長解任の会議があった1954年7月以降、事務局はずっと西大久保1丁目にあり、そこから1960年8月に東中野川添町に移っていることがわかった。わたしの記憶はますます不利になった。
さらにさかのぼって調べると、1953年から54年にかけて、新日本文学会館は西大久保1丁目のなかを三度も場所を変えているではないか。(現在は市区改正によってすべて歌舞伎町2丁目になっているのでいっそうわかりにくいが)最初は1丁目の421番地で、区役所通りを北へ進み、伊勢丹別館前を右折したところ。わたしが勤めだしたころの場所である。二度目は429番地で、仮住まいの場所である。そして最後に425番地に移っている。これは明治通りに近く、いまもある鬼王神社の付近である。
仮住まいは東中野川添町の新事務所改装のときではなかったのである。1953年暮れから54年初めにかけて、西大久保一丁目のなかを421番地から425番地に移動したが、その工事の期間中の話であった。わたしたち事務局員も傍聴した花田編集長解任の常任幹事会は、425番地に移ってから、その二階の会議室で討議されたのである。
それが記憶のなかで、診療所裏の風景と混在したのは、娼婦たちの嬌声が聞こえる会議室や、雨の日には壊れた樋から落ちてくる雨水を避けながら出入りした暗鬱な思い出が、編集長解任の思い出といっしょになったのであろう。
だが、この作業をすすめるうちに、別の情景の記憶がよみがえってきた。421番地から425番地への移動は、およそ600〜700メートルの短い距離だから、建物の骨組みを残したままコロに乗せて動かすことになっていた。すっかり備品類を運びだして、移動するばかりになった事務所の一隅で、中野重治さんが締め切りぎりぎりの原稿を書いている。
事務局員たちはときどきお茶を入れて出したが、あとはやることがないので、壊すことになった壁にチョークで的を描き、ダーツを遊びながら原稿の仕上がりを待っていた。
何回目かのお茶を入れようとすると、中野さんは「ちょっと出てくる」といって、饅頭とタバコを買って帰ってきた。そしてお茶を所望し、饅頭を頬ばりながら、また黙々として原稿を書きつづけた。こんなとき人手をわずらわせず、また買ってきたものを人に勧めようとしないのは、いかにも中野流である。
ダーツに興じていた事務局員たちは、武井さんをはじめ、みな20代なかばの若者であった。中野さんは50代のなかばだったであろう。中野さんが原稿を書くそばで、わたしたちは無遠慮に声をあげて遊んでいたわけではない。しかし歳をとってあの光景を思い出すと、若かったことへの悲しみのような感情が湧いてくる。
このとき中野さんが執筆していたのは、編集の日程からいえば『新日本文学』1953年12月号の「二つのこと」という文章であろう。それならば松川事件とローゼンバーグ事件について書いたものであるが、締め切りぎりぎりに事務所で書いていることを考えると、ことによると翌年1月号掲載の、「われわれ自身のなかの一つの捨ておけぬ状態について」だったかもしれない。それならば、あとあと問題になる大西巨人批判の文章であった。

2005年6月10日 アイルランド 街角
写真=大木茂